第35話 夕焼 其の四

「チッ。歩きにくいったらありゃしない」


 青く白い光に照らされた洞窟に、カペラの悪態がこだまする。


「ベラ、あまり先行しないで。合流が遅れるといけないわ」

「分かった」


 ぐじゅぐじゅと、水分過多で泥土と化した道を進む私達。そこかしこにできた水たまりでは、私達の気配に気づいた「泥兎マッドラピッド」がパシャパシャと音を立て巣穴へと逃げていく。

 学校での鍛錬を頑張っているおかげで全員息こそ上がっていないが、それでも慣れない足場に行軍の速度は遅くなっていた。天井にびっしりと生える「蛍光茸ルミナスファンガス」の光が水面に反射されるおかげで、洞窟全体がほのかに照らされて見通しが良いのは助かるが、延々と続く通路の状態に億劫になる気持ちの方が今は勝る。


「シロナ、安全地帯はまだ?そろそろ靴下を変えないと水虫になっちゃう」


 辟易したような顔でシロナにそう確認するカペラ。それに大真面目に「あと少しです」と答え、案内をするシロナ。

 カペラのこの発言は、前世だったら美容にうるさい、おませな乙女の戯言だと言い切ることもできるだろうが、水虫はこの世界の冒険者にとってれっきとした脅威の一つだ。

 足の痒みや水ぶくれなど、症状自体は軽微なものであっても、ここはダンジョン。危険なモンスターが跋扈し、些細な呼吸の乱れ一つで人間が命を落とす可能性のある死の領域だ。そんな場所で足に違和感なんぞ抱えて機動力が落ちるなんてことがあれば、次の瞬間に頭と体がバイバイしている、なんてことも起こり得るのだ。そのため、冒険者装備としての靴は撥水性のブーツが大半である。それでも靴底から染み出してくるのは防ぐことは出来ない。

 濡れてしまった靴下の感触のせいで、皆の顔に隠し切れない不快感が見える中、一人だけ余裕の表情を浮かべる者がいた。


「リーダー、私が殿を務めよう」


 私の横を歩いていたソフィアが歩調を緩めながら、最後尾を歩くカペラにそう提案する。


「ダメよ。いざという時、陣形を整える時間が無駄に増えるわ」

「私なら大丈夫だ。このような足場でも動けるように訓練してきた。それに、機動力を欠いた状態で挟撃されるのが最悪のケースのように思える」

「ふむ……。それもそうね、お願いするわ」

「ああ、任せてくれ」


 初めは毅然とした態度で断ろうとしていたカペラだったが、ソフィアの自信のある態度に納得できるものがあったのか、少し思案したのちにその提案を受け入れる。

 そのまま、ソフィアを殿とした隊列で安全地帯へと再度行軍を開始した。


 ◇


 無事、安全地帯にたどり着いた私達は、靴下を履き替えて篝火をぐるりと囲んで座っていた。ぐしょぐしょに濡れた靴が早く乾くといいのだが……。靴下の替えはあっても、流石にブーツの替えはかさばるため持ってくることはできない。

 火の明かりに照らされた皆の表情には、疲労感が滲み出ていた。今回のキャンプ設営は、いつもの作業に加えて足場を整える工程があったため非常に疲れた。風魔法の応用で微風を生み出して乾燥させるという簡単な方法だが、如何せん時間がかかるのに加え、風魔法を使えるのが私一人と来た。

 その間、皆も他の作業をしていたので、私がいじめられているということではないのだが、ただでさえ足場の悪い中を移動してきたのに、攻撃力を伴わないそよ風を起こす程度の繊細な魔力を維持するのは少々神経を使う。倦怠感を感じるのも仕方がない。

 気分を変えるために、食事でもしようとバックパックの中を漁ると、皆も空腹を思い出したのか、バックパックから除湿のために詰めていた炭の入った革袋を取り出し、火の当たらないところに並べ始める。

 そのまま誰からともなく食事をとり始めた。今回もカペラが用意してくれたお弁当で、蓋を開けると中には緑と茶色の食欲をそそる断面を覗かせたトルティーヤのような物が入っていた。その中の一つを手に取り、涎が垂れないようにしながら、パクリと一口頬張る。

 ──うん、美味い!

 生野菜のシャキシャキ食感にピリッとスパイスのきいた焼き肉、それらをしっとりとした生地がまとめ上げ、素朴な味ながらも確実に活力をもたらしてくれる。

 口に入れる前は、いくら除湿剤を詰めていたとはいえ、生地がしけってしまっているのではなどと考えていたが、それも杞憂で、むしろ丁度良い塩梅に寝かされていた感じだ。

 ダンジョン内でレストランを開いても、隠れた名店として成功するんじゃないかと、そう思えるほどの料理の腕前だ。

 一つを食べ終え、水で喉を潤しながら周りを見るとカペラ以外の全員が一心不乱に顎を動かしていた。貴族令嬢であるはずのソフィアでさえ、マナーなど知る由もないかのように口いっぱいに頬張っている。食べ物に目がないシロナなんかは、勢いのままに自分の手すら口に入れて咀嚼してしまいそうな勢いだ。

 それを見て、私のさっきの感想が間違いでないことが分かる。


「それにしても」


 カペラが不意に口を開く。皆の注目が彼女に集まる。


「アンタ、いつぬかるんだ足場での訓練なんかしたのよ?探索目標がここに決まってから、雨なんか降っていないわよ?」


 質問されたソフィアは、答えようと急いで口の中の物を飲み込……もうとして喉に詰まらせたのか、焦った様子で革の水筒を掴み、ごくごくと飲み干した。その滑稽な様子に、私は思わず吹き出しそうになるのを間一髪で堪える。

 ふぅ……。危ないところだっ……。

 そうしてソフィアから目を逸らそうと首を動かすと、ベラの、おそらく彼女も笑いを堪えていたのだろう、無表情ながら口を真一文字に引き結んでプルプルと小刻みに震える顔が目に入ってしまった。その瞬間──。


 ──ブフゥォッ……!


 ダムが決壊した。さっきまで口に含んでいた水が、勢いよく噴射される。


『クロエの ハ〇ドロポンプ!』


 産まれて初めての醜態に、脳が現実逃避を始めてしまった。水飛沫が篝火に飛んで、ジュッと蒸発する音が鳴る。


「うわっ!汚いわね!」

「ケホッケホッ……!ご、ごめ゛……」

「……大丈夫ですか?」


 カペラにドン引きされ、シロナが呆れた様子で背中を擦ってくれる。恥ずかしいやら情けないやら息苦しいやらで、顔が真っ赤になるのを感じた。涙で視界が滲む。この記憶は、一生忘れられる気がしない。

 しばらくしてようやく呼吸が落ち着き、シロナにお礼を言う。羞恥に悶えながらも顔を上げると、私が恥辱を受ける原因となった二人はまるで何もなかったかのように座っていた。ふつふつと怒りがこみ上げるが、それをぶちまけても恥の上塗りになるだけだ。屈辱に身を苛まれながらもどうにか気持ちを抑える。


「んで、どうなのよ?」

「ん?」

「さっきの話よ」


 気を取り直して、先ほどの話を再開するカペラ。


「ああ、単純さ。もっと前から、具体的には今年の梅雨の時期から訓練していただけだ」

「私達より先にこのエリアのことを想定してたってこと?」

「あー、いや……」


 そう質問されたソフィアは一瞬だけ言葉を詰まらせると、こちらにちらりと視線を寄越す。愉快そうに細められた目に、醜態を馬鹿にされたのかムッとなりかけたが、そんな様子ではない。


「ちょっとした、リベンジに必要なことだったのでね」


 そこまで聞いて、彼女の視線の意味に気づく。 

 ……なるほど。あの時、足を滑らせて私に一本取られたのが悔しくて訓練したという事か。あの後もしばらく梅雨は続いていたし、環境には困らなかったのだろう。

 それにしても、彼女のその向上心には驚かされる。と同時に、自分がその向上心に火をつけてしまったのだと気づくと、彼女が私に懐いてしまった理由に納得してしまい、少しだけ、ほんの少しだけだが、あの時、手合わせを断っていれば、こんな醜態をさらすこともなかっただろうと悲しい現実に憂いが差す。

 まあ、でもあれのおかげで友達と呼べる人が増えたのは間違いない。どれも過ぎたことだと、沈んだ気分をため息とともに吐き出す。


「何が役に立つか、分からないものだな」


 ソフィアがそう締めくくる。


「ふーん?よく分からないけど、まあ良いわ」


 カペラは納得したかどうか、曖昧な言葉を発するが、恐らくソフィアの視線には気づいている。あの現場には居合わせていなかった彼女だが、直前までは私達といたので、あの時起こった大体のことを察して質問を打ち切ったのだろう。つくづく空気の読める子だ。


「全員、食べ終えたわね。それじゃ、明日に備えて休みましょ」


 パンパンと手を打ち、そう言うカペラに四人が頷きを返す。それから皆で見張りの順番を決めてから床に就く。

 その夜は、消火栓から噴出された水に吹き飛ばされる夢を見た。

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