第30話 隠世 其の四

「……ぅん」


 突然パチリと目を覚ます。朝はすっきりと起きられる方だが、それにしても眠った気が一切しないのはどうもおかしい。上体を起こし、周りをぐるりと見渡してみるが──。


「……どこ?」


 真っ暗で何も見えない。いや、そうではない。自分の手や足はしっかりと見えている。それなのに目に映る情報は何一つとしてないのだ。

 試しに立ち上がろうと足に力を入れてみる。すると、やけにすんなりと立ててしまった。地面の感触はあるのに足元にはやはり何も見えないことに、脳がエラーを吐いているのか少し気持ちが悪くなる。

 次に手をぶんぶんと振り回してみても、ただ空を切るだけで何にもぶつかった感触はない。どうやら本当に何もないようだ。

 右も左も、どちらが上か下かも上手く判別できない、完全なる闇。まるで星々が消滅してしまった宇宙に一人取り残されたような、そんな気持ちに心を支配される。


「夢……?」


 あまりに非現実的な状況に、もはや焦燥感も湧いてこない。ただただどうすれば良いのかとぼんやりと佇むだけ。

 このまま立っているだけなのもどうかと思い、取り敢えず歩き回ってみようかと考えていると──。


『~~~~』

「──え?」


 どこからか、微かに音が聞こえた。か細く、ともすれば空気に溶けて消え入ってしまいそうなほど小さな音。普段なら何も、誰も気にしないようなその音に、なぜかとてつもなく心を惹かれてしまう。


「どこから?」


 再び辺りを見回す。音の出どころはどこか。この何もない空間に何があるのか。好奇心が胸をくすぐった。


『~~~~』

「──!」


 ガバッと振り向く。音の方向はこちらで間違いない。そのままゆっくりと足を踏み出す。


『~~~~』


 音は、段々はっきりと聞こえてくる。近づいていくにつれ、その音が何か規則的な音程をとっていることに気づく。


『~~~~』

「……これは、歌?」


 歩を進めながら思い至ったことを口に出す。これは歌だ。それも、私も聞いたことのある童謡、いつぞやベラが湯浴みの最中に歌っていたあの歌だ。近づくごとにその歌ははっきりと聞こえてくる。

 やがて声の出所と思わしき所にたどり着くが、そこにはやはり何もなく、朗々と歌声が響き渡るのみ。


 宙に浮かんだ丸い星 表と裏に国二つ

 山羊の国の姫様と 鳩の国の王子様

 二人は禁忌の恋に落ち その身をやつして地に堕つる

 男女のは実を結び 産声あげるは姫御子ら

 地に臥す赤子のなく声は 月まで響いて止まねども

 天まで届くことはなく 鼓動を洞に轟かす


 何処までも静かで澄み渡り、それでいて一抹の寂しさを感じさせるその歌声に、立ち尽くしてしまう私。すると突然、ぽつりと。


『──見つけた』


 誰かがそう言ったような気がした。そして──。


『……』


 しゃんと鈴が鳴るような、小さなざわめきが耳に入る。


『……て』『……て』


 今までは歌声に気をとられて気づかなかったそれは、段々と大きく、幾重にも重なって聞こえてくる。


『……けて』『……して』『……ないで』


 ざわめきにかかったノイズを払うように、その声に集中する。その瞬間──。


『助けて』

「──うっ!?」


 さっきまでかかっていた靄が急に晴れたように、その音量が跳ね上がった。思わず反射で耳を塞いで蹲ってしまう。


『殺して』『殺さないで』

「……っ!」


 しかし、その大音声は変わらず、むしろさらに大きく聞こえてくる。まるで頭の中で直接声が響いてくるような感覚に猛烈な眩暈に見舞われる。


『こっちを見て』『こっちを見ないで』『わたしを抱きしめて』『誰も触れないで』


 それでも声は止まず、誰かの懇願は重なっていく。


『もう許して』『絶対に許さないで』『わたしを見捨てて』『どうか見捨てないで』『わたしのことで苦しまないで』『わたしのことを想っていて』『愛して』『愛さないで』

「──もうやめてっ!!」


 これまで出したことのないほどの叫び声をあげる。不慣れな衝撃に喉が耐え切れず咽てしまったが、おかげで声はピタリと止まった。


「一体何だったの……?」


 全く意味の分からない状況に、吐き捨てるようにそう呟く。ふと顔を上げると、前方の空間にひび割れのような水平な線が二本、横に並んでいた。

 すると突然、パクリとひび割れが開く。その奥にあったのは──。


「──目……?」


 それは大きな瞳だった。その瞳孔は爬虫類のように縦に割れている。その瞳に、嫌悪感を覚えるでもなく、何故かとてつもない懐かしさを感じた。

 何だこれ。さっきから何なんだこれ……!

 ただただ困惑するだけの私。そんな私に告げるかのように、さっきまでの声が、あの悲しい叫びが、今度は一つだけはっきりと聞こえた。


『独りにしないで』


 ◇


「──っはぁ……!」


 ガバッと身を起こす。荒い息を吐きながら、定まらぬ視点で周りを見渡す。見馴れた朝の風景だ。どこにも不審な点はない。しかし、それを確認しても気が休まらなかった。動機と息切れが止まらない。


「うぷっ……」


 眩暈とともに胃の不快感がこみ上げてくる。他の皆はまだ寝ていたが、それを機にかける余裕もなく、ドタバタと洗面台まで駆け込んだ。


「うっ……ぅええぇっ……!」


 そしてそのまま吐き出した。酸っぱい胃酸の味と匂いが口の中に広がる。昨日の夕飯ももう消化しきって、胃の中には何もないというのに、気持ちの悪さはしばらく続いた。


「ふぅ……」


 ようやく落ち着き、水を張って顔を洗う。水面に移った私の顔は、かつてないほどに酷くやつれていた。背中はあせでびしょびしょに濡れている。


「本当に夢だったの……?」


 震えの止まらない肩を無理やり抑え込みながら、脳裏に鮮明に焼き付いたあの光景を思い出す。夢というにはあまりにリアルな質感で、しかし現実というにはあまりに突飛な情景に上手く考えがまとまらない。


「大丈夫、ですか……?」


 洗面台の入り口から声を掛けられる。視線を向けると、シロナがこれ以上ないくらい心配そうな顔をして立っていた。


「……ごめん、起こした?」

「いえ、お気になさらず。それよりもどうされましたか?」


 シロナがそう言って手を伸ばしてくる。しかし、その手を私は何故か身を引いて躱してしまった。


「……え?」


 自分でも意図しない体の動きに、困惑の声が口から洩れる。一体どうしてしまったのか。


「クロエさん……?」


 シロナがまた一歩こちらへ踏み出す。私の初めての友人、唯一の親友。しかしその声が、その手が、とてつもなく怖く感じてしまった。思わず逃げ出したくなって、彼女を避けるように大きく前に踏み出す。

 しかし、そんな私の震える手を、シロナはぎゅっと握った。反射的に身をこわばらせてしまう。


「大丈夫です。深呼吸してください。私がついています」


 彼女のその優しい言葉に、全身の力が抜けていく。指示通りに深呼吸を一つすると、体の震えが徐々におさまっていくのを感じた。


「大丈夫。絶対に離しません」


 彼女は結局、私が完全に落ち着くまで手を握る力を緩めなかった。


 ◇


「何があったのか聞いてもよろしいですか?」


 暖かい日差しが降り注ぐ庭先で、切り株に二人並んで座っている。涼しい風とともに、金木犀の甘い香りが鼻腔をくすぐった。


「……怖い夢をみた」


 そうして今朝見た悪夢の内容を、ゆっくりと語る。途中で詰まったり思い出して体が震えたりすると、すぐさま手を握ってくれるシロナ。さっきまでの体たらくで言えたことではないが、少し恥ずかしかった。


「それは確かに怖いですね」


 話を終えると私に共感してくれるシロナ。しかし、あの夢はただ怖いだけではなかった。夢の間ずっと感じていた、どこか寂しいような、そんな感覚が今も少し残っている。


「でも、変ですよね。夢は自分の経験や記憶からつくられると言いますけど、クロエさんには一切心当たりがないんですよね?」

「……うん」


 当たり前だ。あんな強烈な光景、一度見たら忘れられるはずがない。だからこそあの悪夢は意味不明で恐ろしかったのだ。シロナは「うーん」と少しだけ考えるそぶりをした後、口を開く。


「でも、本当にクロエさんが忘れてしまっているとしたら……」


 そこで一度言葉を区切り、こちらに振り向く。


「その人?とお友達だったのかもしれませんね!」


 笑顔でそう言い放った。その突拍子もない考えに、思わず吹き出してしまう。


「なにそれ……」

「あっ、ようやく笑ってくれましたね」


 彼女の言葉にはっとする。彼女は私が思う以上に、私のことを気遣ってくれていたのだ。悪夢で冷え切っていた心が氷解していく。やはり持つべきものは友達なのだ。一人ではいまだに立ち直れていなかっただろう。


「……ありがとう」

「どういたしまして。さて、そろそろ皆さんも起きたことでしょうし、今日一日休暇を満喫しましょう!」

「……うん」


 そう言って二人で家へと歩いて行った。

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