真実の王国
北西 時雨
第1話
嘘をついたのは、初めてだった。
昨日は私の十二歳の誕生日だった。私と母さんだけの誕生日会。
その翌朝、さっき日が昇ったばかり。私は母さんを起こしてしまわないようになるべく音を立てずに起きた。そして、持てる限りの装備と携帯食料と水筒を鞄に詰めて、家を飛び出した。
この大陸の名はトゥルーランド。魔術王が治める祈りの国。魔術を扱える者は稀少で、才ある選ばれし者だけが長年の修行の末、大地を護り、愛を魂に還元する力を使えるようになる。
母さんは私の師匠であり、魔術王に仕える魔術師の一人だ。今は私の修行のために、二人きりで山の中の生活を続けている。
緩やかな坂を下り、最初の分かれ道まで来た。
辺りはモヤで白く霞んでいて、慣れた道でも勾配のあるところで足を滑らせると大変だ。
私は地図を広げ、道を確認する。
修行中の身の上、私はこの山から出たことがない。普段の修行の場や川の場所、木の実が生っているところはなるべく詳細に記してあるが、それでも山の半分くらいだろう。あとは未知数だ。
一先ず今朝の体調は良好で、日が昇ったからか、カゲの姿もない。出くわす前に歩みを進めよう。
魔術師になるための習慣の一つに、「噓をついてはいけない」というものがある。
魔力は生きとし生けるもの全てに宿っているが、それを正しく扱えるのは、正しく言葉を使える一部の者だけなのだ。嘘をつくと、正しさを成立させるために余計な言葉をたくさん使うことになり、結果的に魔力が弱くなる。
だから私は今まで噓をついたことがない。なかった。私は優秀なのだ。うっかり生返事をしたことくらいはあったが、言葉を浪費しないようにすぐ訂正していた。
持ってきた懐中時計を開いて時間を確認する。道中何もなかったから順調だ。
この辺りで休憩しよう。母さんが気付いて追いかけてくる可能性はあるが、山の中はいるだけで魔力を消費する。いざというときに魔法を使うために、補給は必要だ。
私はよく休憩に使う岩に厄祓いの儀式をして腰掛ける。家から持ってきた乾燥果物や木の実をしっかり噛んで飲み込み、耳を澄ます。
後方からバサバサという羽音が聞こえ振り返る。夜名残が枝に止まってこちらを見ていた。夜名残は魔力を持たない鳥だが、人の食べ物を欲しがる卑しい奴なのだ。
私は手早く食料をしまう。水筒の水を飲み、立ち上がって、力の戻った足を動かす。
私と母さんは、一つ約束をしていた。
十二歳になったら、街へ連れて行ってくれる。
誕生日会の終わり、私は母さんに街へ行ってみたいと言った。自分で言うのもなんだが、私はしっかりしていると思うし、母さんの機嫌もずっと良かったから、すんなり了承してくれると思っていたのだが。
母さんは、まるで触れられたくない話題であるかのように目を泳がせて、また日を改めて、などとごにょごにょ言った。母さんが街へ行くときについていくだけだ、十二歳になったらいいと言っていたではないかと食い下がったが、どうしても許可が出なかった。
最終的には私の方が折れて、
「分かった。すぐに街へ行きたいとは言わない。また今度ね」
と言った。ようやく母さんが安堵した顔になった。
ここから先は母さんしか通らない。道が狭くなるから気を付けなくては……と思った矢先。
カゲが、出てきた。
良くない感情の成れの果て。それがカゲだ。黒いモヤモヤしたものが、人の影のような形になって、揺れながらこちらに近付いてくる。子どもが好物で、取り憑こうとするのだ。
怖い。しかしここで恐怖に負けたら本当に取り憑かれてしまう。
私はしっかりと両足を広げて立ち、カゲをじっと見据える。呪文を唱え、両掌を一回大きく打ち鳴らすと、ふっと呆気なくかき消える。成功したようだ。
日が出て経つのにカゲが出るなんて。嫌な予感がする。私は急ぐ。
思えば、最近の母さんは少し様子がおかしかった。
母さんは時々魔法を披露してくれるのだが、不発が目立ってきた。音が鳴ったり光ったりはするのに、何も起きないのだ。
あまり考えたくはないが……母さんの魔力が弱まっているのではないだろうか? 王に仕える母さんが弱くなったのだとしたら一大事だ。
それに、言っていることがころころ変わるようになった。街へ行く話もそうだ。
母さんが、嘘をついている、とまでは言わないが、何か隠していることは明白だった。
勾配がなくなった。山を下り切ったのだ。森の中を足早に進む。森を抜ければ、街の教会が見えるはずだ。教会には宣教師や魔術師がいて、母さんの不調のこともなにか知っているかもしれない。希望を胸に進むが、道中に予想外のものがあって立ち止まる。
道をふさぐように、黒い柵と錠のかかった小さな門があった。古びた様子だったが朽ちている感じはしない。母さんが普段から使っているのだろうか?
少し引っ張ったりしてみたがびくともしない。下手に壊すと後が面倒だ。どうしよう。
どこか柵に切れ目がないかと見渡すが見つからない。仕方がないので、先に鞄を柵の外に投げ、自分は助走を付けて柵をよじ登る。幸いにも尖ったところや引っかかるようなところはなく向こう側に降りられた。魔術師にあるまじき力業だがしょうがない。無事帰れたら鍵開けについて調べておこう。
鞄を持ち直し、門の方へ行く。門の先は石造りの階段になっていた。階段を降りると、木々が途切れ、森から出た。
私の両手を広げて三、四人分くらいはありそうな大きな黒い道が左右どこまでも続いている。道の真ん中を二分するように白い線が引かれていた。道に降り立つと、見た目以上に硬いことに驚く。石によく似ているが……なんだろう?
じっくりと周囲を見渡す。黒い道の向こうは畑のようだった。少し遠くに民家とおぼしき家が見える。教会や街は見つからない。おかしい、母さんから聞いていた様子と違いすぎる。
黒い道を横切り畑に近づく。踏み入ろうとして、畑を囲うように棘の生えた網がかかっていて慌てて立ち止まる。ギシギシというような、微かな不快な音も聞こえてくる。
「おい! そこで何してる!!」
急な大声にびっくりして跳び上がる。白髪交じりの男がこちらに向かって声を張り上げながら走ってくる。私は反射的に逃げるように駆けだす。
私はひどく混乱していた。男は裾や袂が全然ないおかしな着物を着ている。どんな着物を着ているかで、だいたいの職業や身分が分かるはずなのに。人間のように見えるけれど、実は亜人種かもしれない。とにかく捕まったら大変だ。
必死に逃げる。黒い道の硬さは、山を下った膝にこたえる。
急に向かいから、白い大きな塊がとんでもない速さで走ってきた。私は驚きと恐怖でやはり跳び上がり、転倒してしまった。幸いにもその白い塊は私が跳んだ方向とは反対へ巨体を動かして止まった。
白い塊から、二人の男が出てきた。
やはり裾も袂もない着物を着ている。揃いの白い着物に紺色の帽子をかぶっていた。
二人は私を見て、穏やかな声で話しかけてくる。
「きみ、どうしたの?」
「名前は言えるかな?」
そう言ってにじり寄る怪しい人型。
仕方ない、危険だが火炎魔法を使うしかない。
私は手早く鞄から触媒を取り出し、印を結ぼうとした。しかし、男の一人が未知の体術を使って一気に距離を詰め、私の両手首を掴む。私は思いつく限りの解術や拘束の呪文を唱えるが一切効く様子がない。
抵抗する私を掴む手の力がどんどん強くなる。この子らいたーとバクチク持ってるぞ!、とか言っているのが聞こえた。
私はそのまま大きな白い塊に詰め込まれ、どこかに運ばれていく。
着いた先の建物には「警察署」と書かれていた。
結論から言うと、私は四歳のころから約八年間誘拐及び軟禁されていたということだった。私が「母さん」と呼んでいた女性は母親でもなんでもなく、縁もゆかりもない私をさらってきて、自身の考えた空想の話を幼い少女に言い聞かせていたのだった。
よくよく考えてみれば、ずっと母さんしか会ったことはなかったし、小さな小屋の中にある書籍と一人の人間の言っていたことだけで世界のことを学んでいた気になっていたのは、何ともおかしな話だ。
私は一通り事情を聴かれ、少しの入院と検査をして、いわく「本当の家族」のところに戻された。会うまでは、まるで覚えていない人達のところに行くことに不安もあったが、実際に顔を合わせると、確かに私と似た顔や姿に安心感を感じたと同時に懐かしい感じがよみがえってきて、なんだか不思議な気持ちになった。「母さん」の顔と私の顔は似ていなかった。
八年分の「学び直し」は大変だった。本当の国の名前や歴史、原子論、幻想とされている生き物と実在する生き物と本当の名前(「夜名残」は「カラス」というのだった)、法律や社会常識、などなど。ちなみに、山で学んだことは一部有効だった。おかげで無事下山できているのだから。まぁそれで余計知識に混乱が出ているのだが。
魔術の正体は、手品と思い込みの相乗効果だった。カゲは、超常的な「お話」から派生した不安感の産物であり、ああもはっきりと見えていたのは、……どうも嗅いでいた香や飲んでいた茶の中に幻惑作用を引き起こすものがあって、それのせいではないかということだった。「保護」されて最初は中毒症状のために酷い気分に見舞われたが、しばらく過ごしていたら起きなくなった。
たった一人の語った夢想は、大多数から裏付けされた現実に押し流されていく。
何でもない少女でしかなかった私は、世界の温かい無関心さと身近な人間の助力で、大人になる。
あれからまた、幾年。
私はペン先をインクに浸す。
この世界に、魔法はない。魔術師もいない。それでも。
原稿用紙を広げ、あの世界を綴る。
私が過ごした日々は、噓ではないのだから。
真実の王国 北西 時雨 @Jiu-Kitanishi
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