第12話

 ククルが目を覚ますと、隣にはこの世界で最初に出会った青年がいた。


「寝てる……」


 部屋に時計はないので、正確な時間は分からない。

 彼女のいた場所は人工的な光に溢れ、夜でも明るさのある世界だった。


 だから知らなかったのだが、月と星の光だけでも人の顔を判別出来る程度には明るいらしい。


「……」


 ククルは起き上がり、じっとシリウスを見つめる。


「あのとき、暖かかったな……」


 いったい、あんな風に誰かに抱きしめられるのは何時ぶりだろうか?

 お父さん、と叫んでしまったが、今思い返せば父からですらあんな風に優しくして貰った記憶は無かった。


「お父さん……」


 そう言いながら、恐る恐るシリウスの頬を触れてみる。

 すこし髭が伸びていて、ジョリジョリとしていて、奇妙なくすぐったさが指に残った。


「やっぱり、この人がそうなんだよね」

「……ん? ククル?」

「ぁ……」


 いつもなら、逃げてしまっていただろう。

 ククルにとって大人というのは暴力を振るってくる相手で、出来れば近づきたくもない相手だから、それも当然。


 しかし今は、起きたシリウスを見ても逃げようとは思わなかった。


「あの、私……」

「ん……ちょっと待ってね」


 シリウスが布団から起き上がり、座った状態で話を聞く体勢を取る。


「あの、その……」

「うん、いいよ焦らなくても」


 ――この人はいつも、ちゃんと待ってくれる。


 そう思うと心が軽くなり、深呼吸をする。

 すーはーすーはー、何度も何度も息を整え、そしてまっすぐ見つめた。


「さっきは、助けてくれてありがとうございました」

「いいんだよ。俺のせいで危険にしちゃったからね」


 笑顔でそう返されてしまうが、そうではないのだ。


 そもそもククルには力がある。

 あんな男など簡単に吹き飛ばすだけの力を、持っている。


 それはシリウスだって気付いているはずだ。気付いていて、自分が言うまで待ってくれていた。

 ククルはどうしてこの人は、こんな子どもをここまで尊重してくれるのだろう、と思わずには居られない。


「シリウスさんだってわかってるよね? 私には強い力があるんだよ」

「そうかもね」

「そうかもねって……」

「でもそれと、怖くないっていうのは一緒じゃないじゃないかな?」


 そう言われて、ククルは一瞬呆気にとられた。


「たとえば凄く剣の才能がある子がいたとして、その子は大人よりも強いとしよう」


 それはたとえ話なのか、本当にあった話なのか……。


「初めて魔物と戦うとき、彼女はちゃんと戦えただろうか?」

「それは……」


 多分無理だ、と思った。

 実際に同じような状況を経験したククルは、才能の問題ではないのだと理解していたから。


「人はね、初めてやることは怖く感じるものなんだよ。ましてやそれが、命の危険が迫っていたらなおさらだ」


 笑顔で優しく、頭を撫でてくれる。

 その手はゴツゴツとして、見た目は優男なのに全然想像と違うもの。

 だが、とても温かい。


「怖くて当たり前。助けを求めて当たり前だ。俺だって今回、一人じゃなにも出来ないから、いろんな人に助けて貰ったんだよ」

「うん……」

「だから大切なのは、自分が助けてもらったことを申し訳なく思うことでも、それを当たり前と思うこともでもなくて――」


 ――助け合って生きていこうと思うことなんじゃないかな?


 すん、となにかが胸の中に落ちた。

 これまでの人生の中で、彼女はずっと感じたことのない感情で、それを理解することは出来そうにない。

 だがとても大切で、その言葉は大事なものなのだと本能で感じ取った。


「じゃあ、私は助けて貰ってもいいの?」

「もちろん」


 ごく自然に、なんの躊躇いもなく、今まで見てきた大人たちとは違う心地の良い笑顔。

 それを見た瞬間、目の前が歪む。


「あ、れ……?」

「泣きたいときは、泣いたら良いよ。もし顔を見られるのが嫌だったら、胸も貸してあげる」


 今、どういう状況なのかを理解するより、頬に冷たい水が流れる。

 それが涙だとわかったときには、シリウスの腕に飛び込んでしまった。


 昼間にあれだけ泣いて、涙など涸れてしまってもおかしくないのに、なぜか止まらない。

 ただそれは、ククルにとって嫌なものでは決して無かった。




「うぅ……ごめんなさい」

「謝らなくていいよ」


 しばらくして、落ち着いた頃にシリウスが囲炉裏に火を付ける。

 真っ赤に腫らした目が見えてしまいそうで、少し恥ずかしい。

 だが嫌な気分ではなく、むしろ今まで抱えていた暗いモヤがすべて流れ落ちたのではないか、と思うほど身体が軽かった。


「子どもは泣いて育つもんだ」

「うぅ……ちょっと楽しんでない?」

「そんなことないよ」


 小刻みの良い会話。

 人に怯えて生きてきたククルにとって、会話が楽しいと思えるのは久しぶりの経験だった。

 そして、この人に偽りの自分を見せるのは嫌だと、そう思う。


「あのね……シリウスさんは、私が見た目通りの年齢じゃないって言ったら驚く?」

「え?」

「私、本当は十五歳なの」


 本当に唐突に、言ってみた。

 これで彼はこれを冗談だと思って否定するなら、それはそれで良い。ただ離れるだけだ。


 だがもし、真剣に受け入れてくれるなら――。


「そうなんだ。だからそんなにしっかりしてるんだね」

「しっかりって……本当に、あなたは――」


 呆れてしまった。今の話を聞いた返答がそれとは、恐れ入る。


 そんな気持ちを抱いたククルは、同時にこれまで散々嘘をついてきた人間を見てきたから、シリウスがまるで疑っていないこともわかった。

 どういう人生を歩めば、ここまで人を信じられるのだろうか?


「こことは違う世界で死んで、神様に会って転生させて貰ったの」

「へぇ……神様って本当にいたんだ。それに別の世界があるなんて、物語の中だけだと思ってたよ」

「うん。それでね――」


 全部話してしまおう。

 これまで蓋をしていたすべてを、語ってしまおう。


 ――だって彼は、受け入れてくれるから。


「前の世界だとお父さんが先に死んじゃって、お母さんと二人で生活してたんだけど、私って暗い性格だし、お母さんも疲れちゃったんだろうね。だんだんと厳しくなってきて、いつも私のことを殴るようになってきて、それで借金もあって……怖い男の人を連れ込むようになってきたんだ。もういやだ、やめてって何度言ってもお母さんは殴るのを止めてくれないし、怖い男の人たちは私のことも嫌な目で見てくるし、学校はみんなみんな私のことを無視するし、お母さんは私のことを産まなければ良かったっていうし、ああここが地獄なんだってずっと思ってた。そしたらある日、トラックに轢かれちゃって、笑っちゃうよね。ずっと学校も家にも居場所がなくてただで見れるネット小説だけが生きがいみたいになっちゃってたらさ、本当に現実に起きちゃうの。本当に馬鹿みたい、馬鹿みたい馬鹿みたい馬鹿みたいでさ……」


 ククルは無意識に口を開くと、もはや自分の意志などないかのように言葉が紡がれていく。

 シリウスが理解出来ないよう、わざと早口で、しかも意味の通じないような言葉で。


 思い出すだけで心が闇に包まれそうだ。

 だけど一度吐いた闇はもはや自分の心を操っているかのように、際限なく零れだしていく。


「そこで神様が言ったんだ。次の世界では幸せになれるように『大賢者の加護』を差し上げますって。それに貴方のことを幸せにしてくれる人はきっと見つかりますから、だから希望を持って生きてくださいって。あはは、まあ全然信じてなかったんだけど、だってあんな人生があって誰かを信じられる訳なんてないし、神様だったら前の人生の時に助けてよって話じゃない。しかも生まれ落ちたところが魔物のいる森の中で大賢者の加護とかは意味わかんないし、怖いし、泣きたいし、不安だったし、痛いのいやだったし辛いのは寂しいし……」


 この言葉は前世の自分が言っているのか、それともククルが言っているのか、もはや彼女はわからなかった。

 ただそれでも一つ言えることは、どれだけ言葉を紡いでも闇が消えないのと同じように、どれだけ話をしても目の前の青年は最後まで聞いてくれるだろうということ。


 それは生まれたての赤ん坊が両親に甘えるような、無垢の信頼。


「本当に、寂しかったの……怖かったの……」

「そっか……」

「シリウスさんが守ってくれるって言ったとき、びっくりした。逃げればいいのに、私なんていらない子なのに……う、うぅぅ」


 だんだんと嗚咽が混ざり、言葉が言葉にならなくなっていく。

 シリウスは再び彼女を引き寄せると、そのまま抱きしめる。


 その温もりに身を任せた瞬間、ククルの感情が爆発した。


「わ、わだし! ほんどうは十五歳だけど……もうまえのごどはぜんぶわずれだい! ごどもからまだやりなおじだい!」

「そっか、そっか……」

「ぐぐるはぐぐる!」

「そうだね、ククルはククルだね」

「じあばぜになりだいよー! ごどもどじで、あまえだいよー!」


 もう滅茶苦茶だ、とうっすら残るククルの冷静な部分が言っている。だがそれは決して表には出てこない。

 ただ言いたいことを言い続ける。


 そうしてククルが疲れきってしまったのか、徐々に言葉は小さくなり――。


 ――お父さん。


 瞳を涙で濡らしながら、何度もシリウスのことをお父さんと呼ぶのであった。




「お父さん、かぁ……まだ結婚もしてないんだけどなぁ」

 

 ククルの言葉をすべて理解出来たわけでも、そして受け入れられたわけでもない。

 少なくとも子どもを育てた経験のない自分が、彼女の父親としてやっていける自信はなかった。


「まあでも、信頼してくれてるんだよね」


 膝の上で寝ているククルの頭を撫でてみる。

 まるで猫のように身体を丸め、安心しきった雰囲気。


 こういう信頼に対しては、どうにか返したいと思ってしまう。


「とりあえず、街に戻ったら色々な人に相談してみよう」

 

 今までも、多くの人に助けられてきた。

 シリウスはそれが悪いこととは思わない。

 その倍以上、頑張って恩を返せば良いのだと思っていたからだ。


 ――それまでは、俺が彼女を助けよう。


 シリウスは寝ているククルを見て、そう思った。

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