Chapter 6
選択と覚悟
俺は液体を見つめる。
女王の手のなかで、秘薬は波立つことなく澄んだ水底を見せる。時折、天上から差し込む光に反射して、無色だった水面に淡い虹色を輝かせた。
「もっとも、先程も言いましたが……あなたにとって、これはチャンスなのです。忌まわしい記憶と別れを告げることのできる、唯一の手段なのですから」
あなたは救われます。
女王のささやきは、どこまでもやさしかった。
「…………」
俺は沈黙したまま、ただただ虹色の水面を見つめている。静けさの反面で、胸の
胸を押さえた手を、女王の片手がすくい取った。そのまま妖精の秘薬へと、一緒に手を添えられる。
『あなたは無力です』
だから、もうがんばらなくていい。十分に自分の運命と向き合った、それだけでよいではないか。
甘い声が、頭のなかに響き渡った。
『運命が与えた最後の祝福、と考えなさいな』
それから……と、女王は俺の瞳を捕らえたまま、唇を動かして言った。
「ウェンディに親切にしてくれて、ありがとう。……あの子も一生忘れないでしょう――たとえ、あなたが忘れても」
ウェンディ。
その名を聞いて、俺はつと、脇にいる一人の妖精へ視線を動かした。
しかし、その時にはもう、俺の隣に彼女の姿はなかった。
……正確に表現すれば、飛び出した彼女の残像だけが視界に一瞬映った。
「あッ!」
短い悲鳴を上げたのは、女王であった。
なにごとかと、俺が反射的に視線を戻した。その時には、ウェンディは目の前を横切っていて、女王と俺の手にある秘薬の器がかっさらわれたあとであった。
「!」
くるり、とひっくり返る秘薬の器。
地面に飛び散った液体に、その場にいた全員が息をのんだ。
ウェンディが、突如俺と女王の間に突進するように割って入り、秘薬の器をひっくり返したのだ。その衝撃的な行動と光景に、誰もがあ然と口を開ける。
「このっ、しけっづらッ!」
その怒号を合図に、周囲の時間が動き出した。
「記憶を消すとかね、絶対に許さないんだから!」
我に返った俺の眼前に、青筋を立てた一人の妖精の姿があった。鼻先で肩をいからせるウェンディは、さらなる罵声を俺に浴びせる。
「勘違いしてるんじゃないわよ。あんたに……あんたなんかに、その薬を飲む資格はない!」
小さな身体で、いったいどこからそんな声量が出せるのか。
すでにウェンディは肩で息をしている。ぐずりと鼻をすすり、目元を乱暴にぬぐった。俺のアイスブルーの瞳に、深緑色の瞳が真正面からぶつかってくる。
「さんざん人に期待させておいて、外の世界があるって、強気に夢見させておいて――アタシちょっとだけ、あんたのこと信用しちゃったじゃない!」
「…………」
「だのに、全部さっぱり忘れる? 自分だけきれいにおさらばしようなんて、そうはさせないわ。
アタシは許せないし、絶対に許さない!」
ウェンディは、くるりと身をひるがえした。今度は女王に向き合い、彼女ははっきりとした口調で進言した。
「女王様、もういいです。この人間の始末は、アタシにおまかせを」
「!」
さしもの女王も、驚きを隠せなかったようだ。
女王の返事を聞く前に、ウェンディは再び身を反転させて俺と向かい合った。
そして、彼女は天高く両手をかかげた。
「ウェンディ、やめなさいッ!」
「やめませんッ!」
女王の静止に、ウェンディは声を張り上げる。
「あいつは迷っています、この後におよんで。中途半端に迷うくらいなら、アタシが引導を渡しましょう!」
ウェンディは容赦なく、マーナの光をその手に集わせる。
「ウェンディ!」
カールも叫んだ。が、彼女は当然聞く耳を持たない。
かつてない強烈なマーナの光のなかで、彼女の表情を見ることができた者は、誰一人いなかった。
ただ静かに、呪文を唱える声だけが響いた。
「光よ……つどえ――」
ウェンディは呪文を唱える。
その場にいた誰もが、顔を覆った腕の裏で人間の死を悟っただろう。光の球が放たれる衝撃に備え、みな身を固くする。
「――」
まばゆい光のなかで、俺は――。
「!」
ウェンディはなにかに気づいて、呪文を止めた。
次の瞬間、見えない光の中心地から、ぶわりと冷気が吹き荒んだ。キラキラと光を反射して輝く、
「ちべたっ!」
氷の粒を全身に浴びて、ウェンディは思わず声を上げる。
そして、いつかの時とおなじように光の球は彼女の手から離れて、そのまま天上に放たれた。
天上には千年樹の枝葉が伸びている。枝葉の一房分、きれいに撃ち抜くと、その衝撃でまたも青灰色の葉っぱの雨が女王の間に落ちてきた。
「?」
妖精たちは空を見上げた。
降ってきた青灰色の葉っぱは、場の一帯に広がった冷気の影響ですべて霜と化した。季節外れの冷たい霜に、地上の妖精たちは大いに混乱し、そして騒いだ。
「雪なの? 秋なのに、なんで雪が降るの!」
「雪じゃないわよ。雪じゃないけど、さぶっ!」
裁判長の妖精に、寒さに肩を寄せたチェルトが答える。
カールに至ってはぽかんと口を開けて、手の上にのった霜をじっと見つめていた。
「――気まぐれな北風でも吹いたんじゃないか?」
一同、声のした方向を見つめた。
そこには人間こと、さすらいの冒険者の姿がある。俺はその場を一歩も移動していない。素知らぬ顔で、空から降る霜を眺めていた。
「ま、なんにせよ。ついていたなぁ、俺」
頬を指でかきながら、俺は言った。
「たまったま冷たい風が吹いてくれたおかげで、命拾いしたんだから」
「……よく言うわよ。また変な技を使って」
俺の近くをふよふよ飛ぶ妖精がいた。ウェンディである。頭に霜を乗せ、彼女は腕を組みながら呆れたように言った。
くしゅんっ。と、くしゃみをするウェンディを見て、俺はくすりと笑った。
「ありがとう、ウェンディ」
「……なにがよ」
「なにって、俺のこと心配してくれて」
「……心配していない」
「ただちょっと……
「う、うるさいわね! ほんとの本気で、あんたのしけた顔がむかついただけよ」
アタシ、次は絶対に外さないんだから。
と彼女は言いながら、また目元を乱暴にぬぐった。
「あ、あなたたち――」
俺とウェンディ。二人の元に、ざっと女王が前に出た。
その儚くも美しい顔から微笑は消えていた。険しさと、戸惑いを混ぜたような表情を浮かべ、女王は俺たちと対峙する。
俺とウェンディは、顔を見合わせた。どうやらお互いに考えていることはおなじのようだ。
二人とも、女王と向かい合う。俺はその場で片膝をつき、ウェンディはその脇に並んだ。
「妖精族の長である女王に、頼みがあります」
俺は頭を垂れて言う。
妖精の女王は一瞬目を細めるも、すぐにまぶたと閉じた。再びぱっちり目を開いた時には、瞳から動揺の色はすっかり消えていた。
女王は優雅に、そして悠然と構える。
「……頼みとは?」
「はい。どうか、もう一度チャンスをください」
となりでウェンディも力強くうなずいた。アタシからもお願いします、とぺこり頭を下げる。
「俺が――妖精族の呪いを解いてみせます」
必ず。
と、妖精の女王を見上げるアイスブルーの瞳が強く輝いた。
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