第5話 与田かすみ

 過去のことーーこの時間軸では「まだ起こっていないこと」について考えているうちに、浅香くんの家に着いた。

 彼が戻ってくるまであと一時間か。これでも私は合鍵をもらっている彼女なので、そのまま家に入る。


「将稀!早かったね……」


 ドアを開けると、そこには見たこともない女の人が迎え出た。気まずそうに横を向いたその人の金髪のショートカットからいくつものピアスが覗く。ぴちっとした服に身を包んだ女性。釣り目に高い鼻、スラっとした体。



「えっと、誰、ですか」

 私はやっとの思いで声を絞り出す。こんな「過去」知らなかった。

「あー、あなたはかすみちゃん?」

「そう、ですけど……」

「とりえず中で話そう。人の家だけど、勝手に飲み物もらおうか」


 お姉さんとかであってほしい。そう思う時点で私の負けだ。この人が浅香くんの何であれ、彼女は私なのにその自信すらない。

 私は黙って部屋に入る。部屋にいた女の人はキッチンでお湯を沸かしている。



 呼吸、意識しないと忘れそうだ。来なければよかった。知らなければよかった。


 知らないことは、起こっていないことと同義だから。



「コーヒー飲める?」

「はい」

 コーヒーは好きではないけれど、別に今はなんだっていい。

「驚かせてごめん。私は、なんていうか……」

 気の強そうな見た目の女性なのに、気を使ってくれているのが目に見える。ピンクの女の子ともまた違うタイプの人だ。あの子はキャンキャン威嚇する犬みたいだったけれど、この人はシュッとした猫みたいな人。



「浅香くんの彼女ですか?」

「えっ⁉彼女はあなたでしょ。あーもう、嘘ついたりできないからいうけど、私はいわゆる遊び相手だよ」

 はっきり言ってくれるほうが誠実だ。目の前の女性に嫌悪感は全くない。ファミレスで対峙した女の子の視線は、脳裏に焼き付いて離れないというのに。


「好き、なんですか」

 自分でも子供っぽいことを聞いているのはわかっている。何を聞いたらいいのか、どうすればいいのか、まったく思いつかない。


「人としてというか、ある程度無関係な他人としては好きだよ。でも、恋愛感情ではない。彼女にこんなこと言うのもおかしいけどさ」

 ある程度無関係な他人。頭がぼーっとする。

「私、恋人を作るとか苦手なんだ。常に自由で一人で立っていたい。でも、やっぱり人間だから男の人が必要な時もあるんだ。だから、アプリで……」

 話し過ぎたかな、とまた気まずそうな顔をする。


「あなたの知ってる浅香くんは……」

 私は何を知りたいんだろう。知ってどうしたいんだろう。知りたいことなんてあるんだろうか。--この先、どうしたいんだろう。


「かすみさん。私はもう将稀には会わない。あなたの存在は知っていたけれど、うやむやにして関係を続けていたんだ。本当にごめんなさい。気が済むなら殴ってもいいし、お金だって渡す。何をしても気は晴れないと思うが」

 綺麗な金髪の頭が下がる。謝るのは、浅香くんじゃないの……。謝られる側がこんなに惨めだとは思いもしなかった。



「いいです。私が戦うのは浅香くんだと思う」

 彼女は顔を上げて少し驚いた顔をする。

「あなたは、聞いてたよりよっぽど強い人なんだね。私には何も言う権利はないけど、『浅香くん』は自分がいちばん大切だと思うんだ。かすみさんは、遠慮しすぎというか、優しすぎる印象がある。自分を傷つけるものをいつまでも許容してはいけない。……本当にすみませんでした」


 誰が偉そうに、と思わなくもなかったが、不思議とその言葉はスッと心に沁みた。もう一度頭を下げて、その人はポケットから取り出した鍵を机に置いて席を立った。




 私が宝物みたいにずっと眺めていた鍵だ。この金属の塊は、何も特別じゃなかった。

 あーなんだかずっと絶望だ。




「お名前聞いてもいいですか。こんな場所で会ってなかったらもっと色んな話を聞きたかったです」

 私は、玄関のドアを開けた彼女を引き留めた。そんなこと言われるとは微塵も思っていなかった、という瞳で私のことをじっと見つめる。初めてちゃんと目が合った。私はずっとこの人から目を逸らしていたことに、今やっと気がついた。


 この人はこんなにも真っ直ぐ目を見てくれる人だったのに。


「さきと言います。花が咲くの咲に、貴族の貴で咲貴」

「咲貴さん。引き留めてすみません」

「かすみさん、あなたは本当は強い人だ」

 そう言って最後にもう一度頭を下げ、咲貴さんは去って行った。


 強いわけない。


 美しい金色が見えなくなると、自分の意思に反して涙が溢れる。悲しいのか悔しいのかわからない。もうすぐ浅香くんはここに帰ってくる。咲貴さんがこの家にいると思って帰ってくる。


 あの人は、いくつ余罪があるの。




「さきーただいまー……なんでかすみちゃんがいんの?」

 ドアを開けた浅香くんは、驚いた顔でも申し訳なさそうな顔でもなく、不機嫌な顔をしていた。


「合鍵もらってたの私だけじゃなかったんだね」

 引き下がらない、ちゃんとこの人と向き合おう。


「はぁーーーーーー」

 これ見よがしな大きなため息に体がビクッとする。機嫌が悪いことを全面に出す人のそばにいると、本当に神経を使う。

「あのさ、俺今日家来ないでって言わなかった?なんでお前言うこと聞けないわけ?」


「ごめん、なさい……」

 なんで謝ってるんだろう。あれ、私何か悪いことしたんだっけ。

「あーもう。かすみちゃんはそういうことする子じゃねーから付き合ってんだよ」

 彼はそばにあったゴミ箱を蹴る。こんなに怒ってる浅香くんは初めて見る。いつも機嫌は悪そうだけど、こんなに……

 怖い、な。自分の感情に気づくのと同時に手に汗が滲む。嫌な思いとか苦しい思いとかばかり。



 私、彼と付き合ってた時がいちばん幸せじゃなかったの?



「もういいや、お前こっちこいよ」

 戦おうなんて意気込んでいたのに、私はまた何も言えず、動けない。

「聞いてる?」

 彼は呆れた顔で私の腕を引く。


「待って、何……っ」


 乱暴に床に押し倒され、今までされたことのないような乱暴なキスが降ってくる。

 いや、こんなの嫌だ、なんで、どうして。足掻いても身をよじっても彼は離してくれない。


 「ねぇ、痛い!浅香くん!やめて!嫌だ!」




 私は今まで、大事に抱かれてたんだーー。こんなところで気づきたくなかった。




「かすみちゃん、なんかごめんね?今日は帰ってよ。また今度ちゃんと話すからさ。俺シャワー浴びてくるから。あ、今日のこと誰かに言ったら別れるからな〜ははっ」


 彼は欲望を吐き出すと、怒りもどこかに消えてしまったのかいつものヘラヘラした表情に戻っていた。ヘラヘラして、恐ろしいことを口にしてシャワールームへ消えた。



 痛い。腕も、背中も、心臓も、痛い。

 硬い床に押し付けられた背中も、押さえつけられていた腕も、ズタズタにされた心臓も、痛い。



 ……こんな人だったっけ。



 優しくて、大人で、自信満々で、無邪気で、可愛いとよく言ってくれる彼。手をつなげて嬉しかった。合鍵をもらえて嬉しかった。そばにいるだけで嬉しかった。


 浅香くんのために、大人っぽくなりたくてピアスを開けた。グラタンが食べたいって言ってたから、グラタン皿買ったんだ。可愛いって言って笑う顔が好きだから、優実とダイエットのためにランニングしてたんだ。


 


 彼は誰よりも何よりも自分が好きで仕方ないんだと思う。他人から向けられる愛なんてなくても、自分で自分を愛することができる人。だからいつだって自分の味方をできる人。


 そして、「自分が大好きな自分」を他者から咎められることを何よりも耐え難いとする。私と付き合っていなければ、誰と遊んでも何をしても、私を大切にしなくても周りから何も言われない。彼の根本にはずっとそれがあったんだ。



 私はなんだったんだろう。彼と過ごした時間はなんだったんだろう。当時は自分を責め立てた。どうしてももう一度隣に立ちたいと思った。


 でも今ならわかるよ、もういらないよね。



 でも、今後の人生を思い出してみても、今がいちばん幸せ。別れたって別れなくたってずっとずっとずっと彼は私の心を掬う。



 今はまだ私は浅香くんの彼女だから。


 今、いちばん幸せな時に、死にたい。



 浅香くんは私と別れて、私のことなんて思い出すこともなく軽やかに薄っぺらく生きていく。昔、あの公園で別れた後の彼のことは一切知らないけれど、きっとそうに違いない。私にはそれが耐えられない。ずっとずっと彼の心に住んでいたい。私が思い続けていたのと同じように。


 これくらい許されるよね。浅香くんは私に幸せをくれた。でもその何倍も苦しくさせた。

「それでも、好きだったなぁ」


 これはまやかしの愛に執着し続けた愚かな私が招いた罰だ。



 浅香くんはシャワーを浴びている。私はキッチンに包丁を取りに行く。足取りは軽い。清々しい気持ち。


 やっぱり、冬は私の味方だ。

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