第4話 与田かすみ

「しんっっっじられない!その人が浅香先輩の家に行ってたってこと...?そもそも浅香さんは何考えてるの!?」

 ひと通り話し終えると、優実は私より怒ってくれた。少し嬉しくなってしまう。

「浅香くんにとって私ってなんなんだろうね。きっと私が自分から離れていくなんて思ってもいないんだろうな」

 そう、浅香くんは自分に自信のある人だから。そして私はいつも臆病で、浅香くんの顔色ばかり伺ってしまう。


 優実は少し困った顔をしてる。今まであまり弱音とか自虐とか言ってこなかったからかな。言葉にするとその気持ちは本当になってしまう気がするんだ。自分の中にある間は、まだ不確かな気持ちだけれど、言葉にして形どって、熱を持ってしまうともう気づかなかったフリはできない。


「私ね、本当は浅香くんが外で遊んでること、本当は知ってるの。ばかみたい。あの人朝起きないからさ、アラームはいつも私が止めるんだ。出会い系アプリとか、ピンクの女の子とのラインとか、せめて通知くらい切ってほしいよね。知っていて縋ってる私はもっとバカだけど」

 「かすみ……浅香さんの手を放しても、かすみにはまだたくさんのものがあるでしょ?」

 「私には何もないよ。必死に縋っていたものはいつだって大したことないって後から痛いほど気づかされる。優実や周りからしたら、浅香くんに縋る私は滑稽に見えると思うの。自分でもわかっているけど……。私は浅香くんの軽やかさとか、何にも執着しないところが好き。飄々と生きる背中が好き。私なんて目に入っていなくてもいいの。あの人は、私が歩き回って疲れて、喉もからからでもう諦めたいなって思う時に限って、少しだけ水をくれるの」

 でも、わかっている。これはただの執着であって愛でも恋でもない。


「私、かすみが浅香さんのことを話すときの顔が好きだよ。楽しくて愛しくて仕方ないんだろうなって思ってた。でも、最近はずっと不安そう。本当はかすみがいいならいいよって言いたいけど、傷だらけになってまで浅香さんの隣にいるかすみは見たくないよ……」

「なんで優美が泣きそうなのよ、心配してくれてありがとう。さっき私には何もないって言ったけど、こんなに素敵な親友がいることは本当に誇りに思うよ」

「かすみは優しすぎていつも人の気持ちばかり考えちゃうけど、自分を傷つけるものとは戦っていいんだからね!」

 



 優美は泊っていいよって言ってくれたけど、私は帰ることにした。今の私はあの頃の弱気で従順な私とは少し違うって、微々たる抵抗をしようと、浅香くんの家に向かった。遠慮してあまり使えなかった、彼の家の鍵を握りしめて寒空の下を歩く。ただの家の鍵なのに、もらった時は嬉しくて嬉しくて、なんだか宝物をもらったみたいな気持ちになった。今日は一段と寒い。刺すような寒さに耐えながら、優実と話していたことを考え直す。


 「お前」と呼ばれることにも、都合良く扱われることも、気持ちをくれないことも、私以外にも女の人がいることも、ずっとずっとずっと気づかないふりをしていた。誰にでも踏み込まない程度に優しくて、自分のことを好きな人に限って冷たくするのは世間体を気にしているからだということも気づいていた。他人に丁寧なところを好きになったのに、恋人になったら誰よりも丁寧に扱われなかった。


 それでも私をそばにおいてくれるならなんでもよかった。あなたが吐く嘘ならなんだって信じた。あなたになら騙されたってよかった。全部夢でもよかった。夢から醒めたくなんかないのよ。どうして騙し切ってくれなかったの。私にやさしく触れるみたいに、ほかの人にも優しさを振りまいてるんだろうな。


 そんな駅前で配られるビラみたいな優しさなんてもういらない、と何度思っただろう。手に入れたと思ってもあなたは私の手をすり抜けてゆく。手に入らないものほど美しいと、誰かが言っていた。直してもどうにもならないものは壊してしまうしかないと、何かで読んだ。


 この角を曲がれば彼の家だ。


 「あ、猫……」

 そういえばこの黒猫、よくここにいたな。一人ぼっちに見えるけど、この場所にいつもいるってことは誰かにかわいがられているんだよね。よかった。こんな寒い日に一人ぼっちじゃなくてよかったね。

 近寄ると猫がすり寄ってきてくれる。浅香くんの家は、私のバイト先からの帰り道だからこの猫ともよく遊んでたんだった。半分ストーカーみたいだけど、会えない日とか彼が何をしているかわからない日は無駄に家の近くをうろうろしていた。会いたいなんて言えなくて。

 

 いつもあなたの背中と自分の手元ばかり見ていた。私が浅香くんを「忘れなかった」のは、幸せな思い込みと美化された思い出を信じたから。幻だとわかっていながら、その中で生きる決断だった。もういらないなんて思いたくなかった。


「自分が死ぬほど愛した人が、同じだけ自分を愛してくれていた」という夢の中で、私はずっと生きていた。辛いことは全部なかったかのように、綺麗な思い出だけを胸に生きていた。

 

 思い出にできてたんだな……。

 思わず笑ってしまう。私は浅香くんをとっくに思い出にしてた。自分の都合のいいように美化して、いつまでも縋って頼って拠り所にしていた。……情けない。

 息も出来ないほど幸せで苦しかったこと、時間が経てば全て綺麗な思い出になってしまうことが今は辛い。



 私は知っている。近い日、私は浅香くんに別れを告げられる。その未来を変えられるだろうか?




 ー-女の子らしいイヤリングを見つけた1週間後。もう1月が終わろうとしているころ。冬がもう終わるのかと思いきや、まだまだ寒くなると言わんばかりの北風。最近は浅香くんのメッセージの返事も三日に一回ほどになった。

 大学終わりに、浅香くんに話したいことがあると言われて近くの公園で待ち合わせをした。家が何よりも大好きな人なのに、この寒い中わざわざ外を指定してきたことで、いい話ではないと思う。


 頭は冷静だ。もしも別れを切りだされたら、浅香くんの浮ついた気持ちはそのままでいいからそばにおいて、って言うんだ。こんな状況でもあなたを許すのは私だけだって、今日こそ優位に立つんだ。


「かすみちゃん、別れよっか」

「……いや、です。なんでそんなこというの」

 頭の中で何度も何度も練習したのに、出てくるのは情けない言葉だけ。絶対に泣きたくはない。泣いちゃだめ。毅然として、私。

「んーかすみちゃんのこと嫌いになったとかじゃないんだけど、俺のバイト先でさ、俺が彼女いるのに浮気してるって噂が広まっててだるいんだよね。でもかすみちゃんと別れたら周りに何も言われないじゃん」


 浅香くんの言っていることが全く分からなかった。知っている言葉のはずなのに、何一つ意味が掴めない。そんな、理由なの?


 せめて、私だけの理由にしてよ。付き合っててもつまらなかったとか、もう好きじゃないとか、こんな地味な子と付き合えないとか。どんなにひどい言葉でもいいから、私と過ごした日々を終わらせる理由に、私以外の理由を言わないでよ。

 私が浅香くんに縋ることは周りから理解されないのと同じで、浅香くんが大切にしたいものが私には全く理解できない。八方美人なのは知っていたけど、そんなに……。


「私、浅香くんが浮気してるの、知ってます」

 小さな声を絞り出した。震える手を握りしめて、涙が出ないように力をこめる。

「え、あー、そっか」

 いつも飄々とした態度を崩さない浅香くんが戸惑って、黙る。




 数分間の沈黙が私たちを包んだ。

 口を開けば、終わってしまう。何か言われれば、終わってしまう。なら、一生このままでいい。付き合った日も、そう思ってたな。一生時間が進まなければいいと本気で思った。あの時が幸せのピークだったのかもしれない。


「浅香くんがほかの女の人と遊んでても別にいいよ。いいから、そばにいさせてよ」

 浅香くんが何かを言おうとこっちを向いた瞬間、私は耐えられなくてみじめにも縋ってしまった。

「かすみちゃんのそういうところ、好きだけどさ。それはできないよ。携帯の通知とか見てないのかなって思ってたけど何にも言ってこないし。一回ファミレスで会った後輩いたじゃん?あいつがバイト先で俺のこと言いふらしてるみたいで。とりあえずもうかすみちゃんとは付き合えないよ」


 言ったら何か変わった?ピンクちゃんが言いふらしたって、なんであっさり浮気してたこと認めるの。私と過ごした時間に少しも執着はないの?いつからいらなかったの?

「あの子のイヤリング、家で見た」

 言いたいことも聞きたいことも山ほどある。悲しいし悔しいし腹が立つ。でも私の口は何も言えないまま。なんで、なんで。


 そのまま言いたいことの大半を告げられないまま、彼の意向通りに私たちは別れた。結局彼は、ただの一度も私に謝らなかった。





 

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