第7話 福田楓
――衣織さんと出会ったのは、まだこの会社に入社して間もない頃だった。
慣れない業務にも気を張る日々にも疲れ、僕の曇天の心に空も同意していた。雨が降る駅で、座り込んでいる女性を見つけた。気分でも悪いんだろうか。
「大丈夫ですか?駅員さん呼びましょうか?」
顔を上げた女性は嫌悪感たっぷりの目で僕をにらむ。真っ赤な口紅が印象的だ。
「……足が痛いんですか?」
左足をかばうように座り込んでいることに気づいた。よく見ると細いピンヒールが折れている。おそらく足をくじいたんだろう。無地のシャツにジーパン、ベージュのチェスターコートと若い女性にしては地味な格好をしている。ピンヒールと真っ赤な口紅だけがどこか浮いている。
「歩けますか?一旦向こうのベンチに座りましょう。ここじゃコートも濡れてしまいます」
警戒心しかない彼女に手を差し伸べるか迷ったが、ヒールが折れているのでは歩きづらいだろうと一応手を差し出した。冷やかしではないとわかってくれたのか、彼女の表情から少し嫌悪が薄れて戸惑いが混ざっていた。
「……自分で歩けます」
か細い声で彼女は言った。片足をほぼ引きずりながらなんとかベンチまで移動して彼女を座らせた。
「ここで少し僕の荷物を見ていてくれませんか?」
「え……」
明らかに困惑していたが、素直に助けられるタイプではなさそうなので強行突破に出た。気の強い女性かと思ったが、出会って数分で印象はガラッと変わった。
何かに怯え、警戒を解かずに生きている。地味ともいえる格好に似合わないピンヒールや口紅は彼女なりの武装なのか、自己表現なのか。なんにせよあの靴は大切な武器だったに違いない。さしずめ僕は、勇者の武器を調達しに行く村人A。今の勇者にはとても高いヒールなんて渡せないけれど。僕は靴屋へと走った。風が曇天の心を吹き飛ばしていた。
「王子様がくれたガラスの靴はクロックスだったわ。」
この出会いは、衣織さんに今でもからかわれるエピソードだ。いつも愛おしそうに話すから、僕も嬉しくなる。単純だ。
その花のような笑顔を一生かけて守っていくと、誓ったんだ。
自宅謹慎を言い渡された後、課に戻って後輩に引継ぎをしていた。
「福田課長は絶対にそんなことするわけないのに!僕が専務に直談判します!」
その大きな声にみんなが振り向く。
彼は僕を慕ってくれている後輩の桧山くん。素直でいい子だが、ずるや手抜きを見逃さない彼は、いささかおじさんだらけの社会に溶け込むのは向いていない。僕は桧山くんの、思ったことが直結して言葉に出てくるところがとても好きだ。
「桧山くん、僕のために怒ってくれてありがとう。でも、あまり大きい声を出すと偉い人に目をつけられてしまうからね。僕はやっていないけれど、会社に迷惑をかけてしまっているのは事実なんだ。ほとぼりが冷めるまでおとなしくしているだけだから大丈夫」
「福田課長……前の所属で匙を投げられた僕をここまで育ててくれたのは福田課長なんです!まだまだ未熟ですが、僕は課長に一生ついていきますから!」
「ありがとう。迷惑をかけるが、戻ってくるまで広報課を任せたよ」
「すぐ戻ってきてくださいね!せっかくの休みなんだからご家族とゆっくり過ごしてください!あんな動画、証拠にならないですから!むしろ課長は被害者ですよ!」
桧山くんの大きな声は響き渡っていたが、周りは我関せず、という顔をしている。関わらないほうが吉という空気の中で、僕に声をかけてくれた桧山くんにはありがたい気持ちでいっぱいだった。桧山くんがいなかったらこの空気が苦しかったかもしれない。
引継ぎを終え、何かあったときに対応できるようにノートパソコンだけを持って会社を出る。夕方6時。学生は電車に乗る時間かもしれない。
遠回りにはなるが、バスを乗り継いで帰ることにした。
「楓さん、おかえりなさい。お仕事はクビ?」
冗談っぽくほほ笑む衣織さんが出迎えてくれた。衣織さんなりに気を使ったんだろうが、少々言葉が尖っている。
「自宅謹慎です。すみません」
「クビじゃないだけマシじゃない!私、少しだけど稼ぎあるから。心配しないでゆっくり休んでくださいね」
「えっ、パートでも始めるのか?貯金はあるからそんなにすぐ衣織さんが働かなくても……」
「内緒にしてたけど、1年前くらいから家事の合間にハーバリウムを作ってネットで出品しているの。結構人気が出ちゃって、そこそこの稼ぎがあるのよ」
「ハーバリウム?」
聞きなれない単語を復唱すると、衣織さんは嬉しそうな顔でパタパタと走っていった。
「これよ」
戻ってきた彼女の手の中には、給食の牛乳瓶くらいの大きさのビンがあった。そのビンには色々な種類の花が入っていて、透明な液体で満たされている。白の小さな花と、黄色の花を基調にしたデザインだ。衣織さんはいつの間に小さな美しい世界を作り出せるようになっていたんだ。
「これはとても綺麗だな。そういえば寝室に飾ってあったね」
「そうなのよ。最近女性に人気で、好きな色や花を指定してもらってオーダーメイドで作っているの」
「僕は全然気づかなかったよ。掃除機をかけるときに、ドライフラワーがよく落ちているなと思っていたけど、この家はもともと衣織さんのおかげで花に満ちているから」
衣織さんは大半の家事を完璧にこなしてくれるが、掃除は好きではないらしくどちらかといえばきれい好きの僕が担当している。
「えっそんなに落ちていたかしら?まぁとにかく、趣味で始めたことがお金になる時代ですもの。どうとでもなるわよ。どうにかしましょう」
僕は思わず笑ってしまった。
「なんで笑うのよ……」
「いや、衣織さんがそう言ってくれると助かるなと思っていたことを言ってくれたから嬉しくて」
「よくわかってるじゃない。私は大丈夫よ。蒼が少し心配だけれど」
「蒼は帰ってきてないのか?」
「今日は部活だから。もうすぐ帰ってくるはずよ」
衣織さんは強くて頼もしい。こんな僕のそばにいてくれるのが噓みたいに素敵な人だ。
蒼は学校で何か言われなかっただろうか。あの子はしっかりしているが、少し自分の意見を隠して周りに合わせるところがある。
あの子が小学生のころ、無類の黄色好きだった。服も髪飾りもハンカチもペンケースも、すべて黄色でそろえていた。部屋に飾られていたミモザの花がかなりお気に入りだったようで、何を買うにも黄色を選んでいた。
しかし、友達と買い物に行ったときにピンクのシュシュを買ってきた。僕はブームが終わったのかな、と思っただけだったが、どうもその友達に女の子はピンクを身に着けるべきだと言われたらしい。
何色でも自分の好きなものを身に着けたらいいと思うが、小学生の女の子なら自分がそうだと思ったものが正義、という危うい純粋さがある。
「私は黄色が好きだけど、ピンクが好きな子だってもちろんいるもん。黄色が欲しかったけど、ピンクも可愛いからいいんだ」
蒼は自分に言い聞かせるようにそう言っていた。衣織さんに似たのか、集団に溶け込むのが上手な子だ。他を認めることができるが、どこかで我慢していないかと少し心配になる。
「ただいまー」
蒼が帰ってきた。謝るべきか、学校での様子を聞くべきか迷っていると、蒼が口を開く。
「楓さんさ、やってないよね」
蒼は僕たちのことを楓さん、衣織さんと呼ぶ。役割で呼ばなかった僕たちの真似をして昔からそう呼んでいる。
「やるはずがない。……だが迷惑をかけてすまない。学校で何か言われたか?あの子は蒼と同じ制服だった」
「……いや、別に言われてないよ。瑞穂先輩は美人で目立つから話題にはなってたけど、私のお父さんだってばれてるわけじゃないから」
そう言って部屋に戻っていった。
蒸し暑い季節の中、半そでが好きな蒼がカーディガンを着て帰ってきた意味に僕は気付かなくてはいけなかった。
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