第2話 与田かすみ

「かすみちゃん、まだ寝てんの?昼食いにいこーぜ。」

 忘れもしない、愛しい人の声で目が覚めた。


「え、浅香くん……?」

「なんだよ、間抜けな顔して。俺ゲームしてるから早く準備しろよなー」


 もう2度と会えないと思った人。私が陶酔していた人。浅香将稀。《あさかしょうき》


 愛おしい人が目の前にいる。懐かしくなんてなかった。だって、1度もあなたを忘れたことなんてなかったから。


 私の愛おしい人、浅香くんを後ろから抱きしめる。懐かしい、タバコと柔軟剤の混ざった匂い。硬い茶髪。骨ばった広い背中。一瞬で引き戻される。


「お前今日変じゃない?なんかあった?」

「ううん、なんでもないよ、浅香くん」

「そう?」


 浅香くんはゲームから目を離さない。でもそんなことどうでもいい。私はずっと浅香くんの背中ばかりみてきた。この人が愛おしい。あぁ、泣きそうだ。

 

 私は、自分が本当に18歳に戻っているのか急に不安に思った。洗面所に鏡を見に行くと、そこにはハリがあって白い肌があった。黒い髪は鎖骨くらいまでしかなく、全体的に幼い印象だ。大学を卒業してから髪は伸ばしてたもんな。顔は少しふっくらしている。

 洗面台には当時使っていた私のヘアオイルがあった。この匂い、浅香くんが好きだって言ってくれたんだった。


 本当に、時間が戻ってる……。

 夢かな、夢でもいいや。何も考えなくていいんだ。大学の単位は着実に取っている。1人暮らしでバイト三昧だけど賄いがあるから食べるものには困らないし、毎日首の皮一枚で行っていた会社も行かなくていい。仕事がない。そう思うだけで呼吸ができる。

 この世でいちばん大好きな人と、ただただ生活するだけ。そんな、こんなに幸せなことってある?




「浅香くん、今日はバイト?」

 浅香くんはファミレスでハンバーグを食べながらスマホゲームをしている。

「うん、今日は17時から」

「そっか。私浅香くんの家で待っててもいい?」

 ずっとスマホの画面を見ていた浅香くんが顔を上げる。

「かすみちゃんどうしたん?そんな面倒くさいこという子じゃないじゃん」


 まっすぐ目を見られて心臓がギュッとした。浮かれて変なことを口走ってしまった。……浅香くんはそういうの好きじゃないんだった。


「あ、ごめん。今日はこのまま帰るね」

 冷たい目に心臓が潰れそうになる。

 気をつけなきゃ。間違えないように。今度こそ離れなくて済むように。離されなくて済むように。

 輝いていたファミレスのパスタは2口目にはいつもの味に戻っていた。




 浅香くんと出会ったのは、大学1年生の時。

 春の過ごしやすい気候は過ぎ去り、すこしじめっとした空気に変わったころだった。

 特にやりたいこともなかった私は、偏差値55ほどの無難な大学の無難な経済学部に入学した。ケンカばかりしている両親から離れたくて、高校時代は受験勉強よりもバイトを頑張って県外の大学に行った。

 親の仲なんてどうでもよかったけど、ひとりで暮らしたかった私は、仕送りは無しという約束で学費だけは親に出してもらっていた。


 もちろんバイトに励むことになって、時給のいい深夜の居酒屋で毎日バイトをしていた。浅香くんはそのお店の常連だった。

 いつも8番テーブル、窓際の4人席に座る。人数やメンバーはまちまちだったけど、必ず一緒にいる男の人が一人いた。

 目にかかりそうな長い前髪、綺麗な鼻筋、薄い唇。骨ばった細い指でタバコを吸う姿に見惚れたのを今でも覚えている。




「お姉さん、よく目合いません?名前なんて言うんすか。」

「えっわ、私ですか⁉︎」

「えーお姉さん僕のことよく見てるなぁって思ったんですけど勘違いでしたー?」

 見てたのバレてたの⁉︎恥ずかしすぎる……。どうしよう、否定しても変かな。


「み、見てました」

「やっぱり!で、お名前は?」

「……与田かすみです」

「かすみちゃんって言うんだ。俺は浅香将稀」

「あさかしょうき、さん」

 よくあるわけでもないけれど、特段珍しいわけでもない名前。なぜかひどく美しい響きに思える。


「今度ご飯でも行かない?」

 断られるなんて微塵も思ってない瞳。

「私で……よければ」




そこから浅香くんを好きになるのに時間は要らなかった。私は居酒屋でナンパしてくるような男の人にころっと落ちるちょろい女で、平凡で、地味で、自信たっぷりに話す2つ歳上の浅香くんがひどく輝いて見えた。

 


 

 最初は高そうなイタリアン、次はお寿司屋さん、次はちょっとおしゃれな居酒屋。こんな風にたまにご飯に行く日々が続き、出会って3ヶ月が経った。


 まだ暑さの残るその日は、私の誕生日だから、と浅香くんがテーマパークに連れて行ってくれると言った。

 起きてすぐカーテンを開ける。……よく晴れた日だ。昨日は全然眠れなくて、ぼーっとテレビを見ていた。


「今日は晴れの特異日です。過去数十年、ほかの日に比べて晴れの日が特別多い日にちなんです。なんだか縁起がいいですね~」

 テレビの中で綺麗なアナウンサーがほほ笑む。暗い私には似合わない日だな。


「やば、そろそろ準備しなきゃ」

 時計を見ると意外に時間がなかった。今日のために新しいワンピースを買った。親友の優実が一緒に選んでくれた、白のかわいらしいワンピース。裾がひらひらとしたお洋服に袖を通すと少し気恥しくなる。地味な私には似合わないかもしれないけど、今日だけは味方してください。



「かすみちゃん、お待たせ!ごめん遅くなった」

「あんまり待ってないですよ、私早く来ちゃって」

 浅香くんが時間通りに来ないことは知っていた。それでも気持ちがせわしなくて、少し早く待ち合わせ場所に着いてしまった。


「じゃあ、行こうか」

 浅香くんは当たり前のことのように私の手を握る。

「えっ、あ、浅香くん?」

「ん?どうした?」

 何か変?とでも言いたげな顔で私を見る。私は何も言えずに下を向いた。動揺と戸惑いよりも嬉しさが勝っていた。こんな顔見せられない。

 どうしよう……嬉しい……。




 テーマパークに着いてからの浅香くんはなんとなく口数が少なく、珍しく私の様子ばかり伺ってくる。だから私は無駄にはしゃいだりして。

 いつもは今日はこれ食べよう、と言ってくるのに、「かすみちゃん何食べたい?」とか、「見たいとこある?」と聞いてくる。決断が苦手な私は少し困っていた。


 そういえば今日はいつものタバコの匂いはしなくて、ほろ苦いレモンの匂いがした。

 ー-後から気付くことだけれど、浅香くんが私の前でタバコを吸わなかったのは後にも先にもこの日だけ。


 一通りのアトラクションには乗り、私たちはカフェで休憩していた。浅香くんはいつもと同じでカフェオレ。私はコーヒーが得意じゃないからアイスティーを飲んでいた。陽が落ちてきて、風が気持ちいい夕暮れ。時間がゆっくり流れているのに、夕陽は一日の終わりを感じさせる。終わらなければいいのに。ずっと今日のままでいいのにな。今日は浅香くんを独り占めできている。



「かすみちゃん、まだ言ってなかったけど誕生日おめでとう」

 浅香くんの手には白い小さな箱。ピンクのリボンがかかっている。

「え、プレゼント……?ありがとう。開けてもいい?」

 リボンをほどく手が震える。好きな人の視線が注がれているからか、緊張しているのか嬉しいのかよくわからない感情。でも、なぜか、少し泣きそうだ。

 その箱の中身は、小ぶりなサファイアがついたネックレス。


「ネックレス、綺麗……」

「9月の誕生石なんだって。女の子にアクセサリー買うなんて初めてだよ」

 そう言って少し恥ずかしそうに笑った浅香くんの顔を目に焼き付けた。


「本当に嬉しい。嬉しい以外の言葉が見つからないのが申し訳ないくらい嬉しい、ありがとう。今すごく幸せかもしれない」

「ふっ、かすみちゃんは純粋でかわいいなぁ」

 もう、時間が止まればいいのに。こんなに一気に幸せが降り注いでくると困ってしまう。どんな顔したらいいかわからないよ。


「最後に観覧車乗ろうか。ちょうど綺麗に見えそうな時間だな」


 好きな人と観覧車に乗れるなんて、昔読んだ少女漫画の主人公にでもなったみたい。ちょうど昼と夜の境目。街やアトラクションはオレンジに染まって、空には少し星が出ている。



「付き合おうか?」



 ぼーっと景色を見ていると、浅香くんが衝撃の一言を放った。

「……付き合う?浅香くんと、私、が?」

「うん、かすみちゃんが嫌じゃなかったら付き合おう」

 嘘みたい、世界のすべてが私の味方みたい。私の世界は浅香くんで染まり始めた。


「本当に?私でいいの?なんで……」

「それはいいってこと?」

「もちろん、そんなの断る理由なんかないよ。私は浅香くんが好きだよ」

「じゃあ今日からかすみちゃんは俺の彼女か。可愛い彼女で嬉しい」


 観覧車で告白なんてベタベタだけど、私は嬉しくて嬉しくて、何度も本当にいいのか聞き返していた。

 そのあとのパレードなんか目に入らないくらい、ずっと浅香くんのことばかり見ていた。世界はこんなにも美しかったんだ、と初めて気づいた瞬間だった。私は浮かれて、ずっとネックレスを眺めたりして。


 「好き」と言われなかったことは、気にならなかった。





 私たちは付き合ったからと言って特に会う頻度が増えるわけではなかった。バイト終わりにどちらかの家に行く機会ができたくらい。

「お互い一人暮らしだから、俺の家の鍵渡しとくよ。部屋汚いけどさ、連絡くれれば俺が寝てても勝手に入ってきていいから」

「寝てるのにいいの?」

「えーだって一緒に寝るの気持ちいじゃん。いや、普通に、変な意味じゃなくてね」


 浅香くんは、私の肌に触れるのがかなり好きみたいだ。眠くても疲れていても、体を求められることが多かった。最初はそれが嬉しかったし、その快楽におぼれてまどろみの中で何度も浅香くんの熱を求めていた。

 でも、いつからか少し不安だった。気持ちはちゃんとここにいるかな。





「クリスマス、会えないの?」

「バイト人足りないから入れちゃったんだよね。ごめん、前日でいい?」

「うん……でも付き合って初めてのクリスマスなのに?浅香くんがこれって言ってたケーキも予約したよ?」

「シフト入れたんだから、今更入れないって言ったら俺人としてやばいじゃん?かすみちゃんならわかるよな?」

「……ごめんなさい。そうだよね、ごめん。わがまま言って」


「かすみちゃんは可愛いけど、可愛いだけでそういうとこ全然だめだよな」


 吐き捨てるように告げられて心臓が止まった感覚に陥った。呆れられないように、嫌われないように、言葉を飲み込んだ。


 その言葉を聞いてからじわじわと、なんとなく、自分の意見を言えなくなっていった気がする。どう考えても浅香くんは私と「付き合ってくれている」んだから、せめてマイナス要素はなくさなきゃ。そう思うと、次第に何も言えなくなるんだ。


 今までくれていた「可愛い」の言葉の意味とは全く違う響きの「可愛い」を心の中で何度も反芻していた。


 

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