第1話 与田かすみ
私は自分が存在しているだけで誰かに何かを与えられる人間だとは、到底思えない。好きな人には、裏切られても都合よく扱われてもそばにいてくれればそれで幸せだったのに。
「与田!なんでこれ終わってねぇんだよ!1時間後にはアポなんだよ!!」
「すみません!もう終わります!」
今日のお昼に使う資料の作成をどうして朝頼むのよ!高圧的な上司、終わらない業務、出ない残業手当、帰れない日々。私の会社はいわゆるブラック企業だ。最近の社会は労働者の心身の健康に少しは意識が向いているとはいえ、まだまだ社員をうまく使う会社は多い。
「あ、それ作り終わったらお前も来い。あのタヌキ社長、お前のことオキニイリだろ?大きい契約取れそうだからな」
「....わかりました」
にやにやして気持ちが悪い。嫌味ったらしい"オキニイリ“の響きにもヘラヘラ返してしまう自分が嫌いだ。あの社長、有名なんだか偉いんだか知らないけれど、人の体ばっかり舐め回すように見てくるから嫌なのに……嫌だと言えない。
私の生活には生産性がない。今年で26歳。同級生の結婚ラッシュで幸せな風景を飽きるほど見てきたのに、私は毎日社会に消費される日々。目に見えない何かをずっとすり減らしながら生きてるみたい。
生活するために仕事をしてるのに、いつからか仕事をするために生きているように思える。かといって今から転職なんてする勇気もないし、スキルもない。
毎日終電で帰って4時間睡眠でまた出社して……。そんな日々の中で新しいことをする気力も残っていないし、結局私は搾取される側の人間なんだ。
「与田さん、また多賀部長に怒鳴られてる。仕事できないなら接待だけしてればいいのにね」
「大人しそうだからあのエロタヌキにウケがいいのよ。八方美人なだけなのに」
後輩からの悪口も日常茶飯事。なんで歳下にそんなふうに言われなきゃいけないのかと憤りを覚えた時もあった。確かに私は要領も悪いし、自分でも仕事ができる方だとは思ってない。
それでも、こんな環境でも仕事はまじめにフェアにやってきたつもりなのに。ずるいことは一度もしたことがないし、休んだことも遅刻したこともない。無茶なスケジュールにも何とかすべて間に合わせてきた。
でももう悪口を言われることにも慣れた。自分の心を守れるのは自分しかいない。ただでさえ世知辛い社会で、余計な負の感情を抱くべきではない。
...こういう主張を全部飲み込んでしまうからいけないのね。「あの人」みたいに、いつも飄々と生きていけたらどんなに楽なんだろう。
憂鬱な会食の時間がやってきてしまった。外はすっかり冬の匂いだ。
冬になると、学生のころ一人で星を見上げながら帰ったことを思い出す。寒いと空気が澄んで他の季節よりも空がきれいに見える。
私はそれが好きだった。悲しくても、嬉しくても、いつだってそこにいてただ輝きを放つ星。憧れだった。
あの頃は生まれ変わるなら星になりたいなーなんて考えてたっけ。冷たい空気は、厳しい印象を与えがちだけれど、「楽しまなきゃ」となんとなく圧を感じる夏よりもよっぽど私にやさしかった。
「かすみちゃんが今度2人で食事に行ってくれるならこれ契約してもいいよ」
黙って笑顔を張り付けていたが、さすがにフリーズしてしまった。
「いや〜それは……」
丸々としたタヌキ社長のありえないお誘いを笑って誤魔化そうとすると、上司の多賀がすかさず口を挟む。
「与田、社長直々のお誘いだぞ?お食事くらい行って差し上げろ。26歳なのに彼氏もいないんだし。ただぼんやり生きているだけなんだから、社長の有難いお話を聞かせてもらいなさい」
私1人の犠牲で契約がもらえるならば、息をするように犠牲を差し出すと思ってたけど、ここまで言うとは思わなかったわ……。このテカテカの頭には何が詰まっているのかしら。タヌキ社長は二重顎を触りながらニヤニヤとこちらの反応を伺っている。
「でも……」
ー-ベシッ
なんとか断ろうとすると多賀が私の足を叩いてきた。目をそちらにやると、冷たい目で睨んでいた。今の時代、これも立派なセクハラ・パワハラですよ……。
訴えるという処世術の裏には、訴えないという処世術もある。今ここで断ると帰社してからみんなの前で怒鳴られるんだろうな。そしてきっと、お前のせいで契約がおじゃんになったと何ヶ月もネチネチ言われる。どちらを選んでも地獄。それなら長期的な地獄より短期的な地獄の方がマシかもしれない。
「社長、ぜひお食事ご一緒させてください」
嫌々とはいえ、自分の口から同意の言葉を吐いたことが気持ち悪くて仕方ない。第三者と話している時の私は、私自身をも置いてけぼりにしていく。
休みの日はだいたい家事を終えると動けなくなって、スマホを眺めている。目と頭だけ動かしている。SNSを漁っていると、去年会社を辞めた元同僚の近況が目に入る。
『転職してから全てが輝いてる!前より働く時間短くなったのにお給料は増えて幸せ〜!今日もカフェ寄ってからゆっくり出社(笑)』
「高木さん、楽しそう……」
彼女はもともといわゆる『意識高い系』だったので、昭和の習慣が根強いこの会社は向いていなかったんだろう。
というか、同期はもうみんな辞めてしまって私しかいない。辞めるタイミングを逃してここまでダラダラ来てしまった。
「与田さんは、何でもっと自分の意見を言ったり、自分の意思で行動しないの?自分が変わらなきゃ周りも変わらないんじゃないかな」
新入社員の頃高木さんに言われた言葉を思い出す。それは彼女なりに私を思って言ってくれたやわらかい棘だったけれど、まだ心に刺さったままだ。私はあの時、何て答えたんだろう。
「かすみちゃんはいつから彼氏がいないんだい?」
「昔は女が虫みたいに寄ってきて、マンションも何回も変えたんだ」
「僕は適当に仕事しているだけでも、人望があるから周りが何とかしてくれちゃってさ」
「君の会社にとってもさ、僕との取引は大事だろう?」
当たり前だけどなかったことにできなかった、あの社長との接待の日。目の前の巨体はずっと何かを話しているけど、言葉は頭をかすめて通り過ぎていくだけだ。
食事中ずっと、タヌキは舐め回すように私を見ていた。個室で懐石料理。こんなタヌキとだなんて、最悪だ。「あの人」とはファミレスか出前だったもんな。
無心で表情筋を動かしていたら、やっと終わったようだ。自分の過去の栄光と私へのセクハラギリギリ発言のオンパレードで、味なんて一切わからない食事。
タヌキもあくまで社長なんだからただのタヌキではなく、昭和で成功してきた人なんだろうな、という話し方をする。
この人はずっと鼻息が荒い。身に着けているものは高級そうなものばかりだけど、肌は油でてかてかしているし、頭は寒そう。全体的にまん丸のおまんじゅうみたいな体で、まさに「タヌキ」といった風貌。
人を見た目で判断してはいけないけれど、この人は生理的に無理、という部類だ。どこかに連れ込まれる前にさっさと帰ろう、そう思った時、気持ち悪い手が私の腰に回された。
「あ、社長、あの……」
「かすみちゃんとはずっと2人で話したいと思ってたんだよ。この後あのホテルのバーで飲み直さないか?」
「有難いですが、私明日も早くて」
「私から多賀くんに言っておくからゆっくり出社すればいいじゃないか。君にとっても二度とはないチャンスだろう?」
「あ、あの……本当に」
腰に回っていた手がだんだん下がり、ねちっこい手が確実に私のお尻に触れた。だんだん顔が近づき、気持ちの悪い鼻息がかかる。限界だ。
「やめて‼」
私はタヌキの手を強く振り払って走って逃げた。社会人だからってこんなの我慢できるわけない!私の身体は私だけのものでしょう⁉
タクシーに乗って帰る時も体はずっと震えていた。経験の有無の問題じゃない。自分が自分ではなく、消費される女として見られていると思うだけで吐きそうになる。
私が今まで真面目にやってきたつもりだった仕事はなんだったの?上司の嫌味にも、肩を触られることにも、同性からの毒も、全部我慢して笑顔を貼り付けてきた。
私が声を荒げても無駄だと思っていたから大人しく従っていた。全部無駄だったの?こうやって搾取されるだけだったの?誰も助けてなんかくれない社会の中で、冬の冷たさだけが私を包んでいた。
私は次の日、初めて会社を休んだ。無断欠勤をしてしまった。26歳、新卒で入社して5年目。
憧れの広告業界で営業補佐として働くことが決まったときは本当にうれしかった。
何もない私でも、キラキラした広告を作り出すチームの一員になれるんだと思った。でも実際は営業補佐なんて名前ばっかりで、営業部のご機嫌取りと無茶苦茶なスケジュールに耐えるだけの日々。
毎日少しずつ首が閉まっていく感覚に気づかないふりをしていた。緩やかな自殺を確かに感じながら、憧れを手放せずにいた。
でもやっと、やっとわかった。憧れは憧れのまま。私はへらへらすることしかできなくて、流されるまま、言われるままに過ごしてきた。この数年間何をしていたの?
何も得られなかったな……。激務のせいで、仲が良かった友人とも疎遠になり、職場に話せる同期もいない。もう数年顔も見ていない両親には今更何も言えない。
そして恋人はもちろんいない。本当にひとり。社会人になってから恋人が全くいなかったわけじゃないけど、結局はみんな私みたいな女より自分の意思があって振り回してくれる女が好きなんだ。
「あの人」との生活を手放してから、ずっと世界と私との間に薄い膜が貼られているような気がする。別に取り残されているわけではないけど、世界の一員にはなれていないような感覚。
「仕事……やめよう」
仕事をやめてどうするかなんて一切考えていないけど、幸いこれと言った趣味もない社畜の私には貯金だけはある。なにかや誰かに守られた世界で生きていきたかったな。
……戻りたいな、私がいちばん幸せだと勘違いしていたあの日々に戻りたいよ。夢もお金も何もなかったけど、他の何にも変えられない日々。一度だって忘れたことはない。思い出さなかった日はない。
「戻りたいよ……」
気付くと涙が溢れていた。苦しくて悲しくて寂しくて、惨めだ。
「与田かすみさん」
急に名前を呼ばれて反射で顔を上げる。
「え……誰?」
私を呼んだのは、見たこともないほど美しい女の子。ウエーブのかかった真っ黒な髪に、ビー玉みたいな大きな瞳。陶器のような肌に影を落とす長いまつ毛。細くて白くて、まるで人形のよう。
カーテンは閉め切っているから太陽の光なんて一筋も差し込んでいないのに、目の前の女の子は透き通っている。あれ、私の家なのになんで人が……?
「私は来栖海です。私は、あなたの寿命と引き換えに一度だけ時間を戻すことができます。私にできるのはそれだけで、戻った世界が幸せかどうかはあなた次第です。同じ過去を繰り返すだけかもしれないし、より不幸になるかもしれない。どうしますか?」
来栖海と名乗る美しい女の子は抑揚もなく淡々と喋っていた。……頭が追いつかない。私、限界だったのかな?幻覚まで見えるようになってしまったのね。
時間、戻せるって言った?
「待って...時間を戻せるって言った?」
「はい。私はあなたの寿命を使って時間を戻すことができます」
そんな夢みたいなことを、美しく無機質な声で告げられる。
「どうやって……?」
美しい女の子は首を傾げて少し考える。
「原理は私にもわかりませんが、私には時間を戻す力があると言うことは事実です。例えば10年前に戻りたいと思うのであれば、あなたの未来の時間を10年分使って過去に時間を戻します。つまり10年前に戻ることができる代わりに寿命が10年短くなると言うことです。10年短くなった後のあなたの寿命はまだ30年あるかもしれないし、あと1年しかないかもしれません。ただ、それはお伝えできない決まりになっています。リスクは伴いますが、もしも強く戻りたいと思う時期があるなら1つの手段としてお考えください」
「戻りたい‼」
私は深く考えることなく、反射的に答えてしまった。あの時よりも幸せな瞬間に未だ出会えていないからだろう。
「本当にいいんですか?戻ったからといって幸せとは限らないですよ。一度過去に行けば、時が経つまで現在に戻ってくることもできませんよ」
「本当にできるのなら、お願い。あの時は何も手にしていなくても幸せだった」
「与田かすみさん。同じ幸せは2度と繰り返しません。よく覚えておいてください」
私はもう、戻れるなら、あの人にもう一度会えるなら、なんだって良かった。来栖海、という女の子は大きく息を吐いてからまっすぐ私の目を見つめる。
「どれだけ時を戻しますか?」
「8年前....18歳の頃に戻してほしい。お願い」
いつも怖がりで人の目やこれからのことばかり気にしてしまう私が、こんな怪しい宗教のようなものに縋ってしまうなんて。
夢なんだろうけど、これが本当に夢だったら起きた時に死にたくなるかもしれないな。僅かでも希望が見えた分、絶望は何倍にもなる。
美しい女の子、来栖海が私の頭に手を置く。この子は、天使なのかもしれないな……。
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