道糞がゆく! 〜ロクでなし僧はくのいちと堺の町を奔走する〜
灰猫
【一番】 道端に落ちている糞と少女
ちゅん、ちゅんと。
小鳥のさえずりが堺の町に響き渡る。天正十一年(一五八三年)、九月。
ちょうど朝日が昇り始めたころで、町の住人たちは起きてすでに働き始めている刻である。そんな町内の往来を一人の坊主が欠伸を噛み締め、ふらふらとおぼつかない足取りで歩いていた。
ぼろぼろの黒い袈裟。その中に着ている小袖も汚く、みっともなく着崩している。さらに、すれ違えば思わず鼻を抑えたくなるほど酒臭かった。
名を、
名は体を表すというが、まさしく道端に落ちている
「くぁ……朝日が染みるのぅ」
無精髭を生やした口を大きく開け、もう一度、欠伸をする。
先日、懇意にしている商家を訪れた道糞は家の主人と茶の話で盛り上がり、そのまま夕飯もご相伴にあずかった。
酒も出て、一週間ぶりのご馳走を前に道糞は無遠慮に飛びついた。食べれる時にたらふく食べようと考えたのだ。
結局、朝まで存分に呑んで食った道糞だったが、流石に度が過ぎたらしい。商家の主人が寝落ちしている間に、ものすごい剣幕で奥方に叩き出されたのだった。
まぁ、対する道糞はまったく反省とか、してなかったわけだが。
「それにしても、流石に朝は冷え込む……」
早朝特有の涼しさに当てられて、尿意をもよおした道糞がぶるっと身を震わせる。
もう少し先を歩けば、町民共同の厠である辻便所があるが、そこまで行くのは面倒くさい。なにより、道糞の目と鼻の先には自身が住む家屋がある。
別に自分の家の敷地内で小便を垂れ流すぐらい構わんだろうと、道糞は小走りに敷地内へと入って、雑草がぼうぼうと生えるところの前に立った。
「……っ。おぉ、ふぅいぃいいい〜〜」
気色の悪い声を出して、みっともなく道糞の頬が緩んでいく。
「────ぶっ!? あ、ばぶぶぶぶっ!?」
「……ぬん?」
突然、雑草の中から溺れるような声がする。
道糞はいまだ勢いよく出続ける小便の先を注視した。
そこには、少女の顔があった。
「あ、あっぷ、あぶぶぶぶぶっ!?」
よく見ると、縄で身体をぐるぐる巻きにされて身動きが取れなくなっているようだ。
垂れ流される小便からなんとか逃れようと首を動かすが、それに追従するように小便が少女の顔に浴びせ続けられる。
「おーい、娘。そんなところで何をしておる?」
「あば、ぶぶぶ! あぶ、ばっ!」
少女が首を左へとずらし、口を開こうとするが小便がそれを追いかける。
「あぶぶ! じゃあ何を言っているか分からん。ちゃんと話してくれんかのぉ」
「あばば! おぶ! あばばっ!?」
少女が首を右へとずらし、口を開こうとするがやはり小便がそれを追いかける。
──やがて。
ちょろちょろと絞り出すかのように小便を出し終えると、「ふぅー、出た出た」と道糞は晴れやかな満面の笑みを浮かべた。
「……さて。もう一度聞くぞ、娘。おぬし、こんなところで何をしておる?」
「その前に、小便かけるのやめろやぁああああああああっ!?」
うがぁあああああっと、獣のように少女が吠えた。当然の訴えだった。
対する道糞はすっとぼけたように答える。
「仕方なかろう。だって、止まらなかったんじゃもん」
「ならせめて、別のところに向けるとかしてっ! あたし、小便で溺れ死ぬかと思った!」
「すまんのぅ。わし、酔っておってな。そこまで頭が回らなんだ……そんな事より、娘。おぬし、こんなところで何をしておる?」
「そんな事で済まさないで! 小便で溺れ死ぬとか一生の恥! というか、さっきから同じ質問ばっかり!」
もうこの酔っ払い嫌だぁ……と少女が泣き言を言い始める。
一向に話が進まないし、自宅の敷地内とはいえこんな雑草の前では落ち着かないだろうと、道糞は少女を家の中へと上げる事にした。
「──それで。どうしてあたしは縛られたままなのですか」
四畳ほどの古びた板床にちょこんと正座した少女が、不満を隠す事なく口を開く。
齢は十三ほどか。女だというのに男物のみすぼらしい服に身を包む少女は、相変わらず縄で両手が動かぬように身体ごと巻かれていた。
あと、つんとした刺激臭がした。
少女と対面するようにして胡座をかく道糞が答える。
「いや、だってどこの馬の骨か分からんし」
「おい。鼻を摘まみながら話すな、小便坊主。失礼だろ」
まるで汚物でも見るかのような顔で鼻を摘まむ道糞に、少女が額に青筋を立てながら口を開く。
「それに、わしが家屋の裏に仕掛けたのを忘れていた罠に嵌っているような奴じゃし」
「……はっ? そんな罠に引っかかったんですか、あたし!?」
かなり傷ついた様子で、ぶつぶつと呟く少女。
ご傷心のようだが、道糞の知ったところではない。とりあえず、道糞はいま一番確認したいことを改めて少女に問うた。
「それで、娘。おぬしはあそこで何をしておった?」
その道糞の問いに少女が独り言を止める。目を細め、呆れたようにため息をこぼした。
「……また、それですか。さっきから阿呆のように同じ質問しかしませんね。まだ酔っているんですか? というか、まずはあたしが何者なのか聞きませんか? まぁ、聞かれたところで言い──」
「それは聞かんでも分かる。
「な──っ」
少女が驚愕に目を剥く。
「え、おぬしマジで乱破だったの?」
そして、その様子を見た道糞も驚いていた。ちなみに、乱破とは別名で言うと『忍び』のことである。
少女がすぐに自分の失態に気づき、羞恥で顔を赤くした。
「あたしを謀ったんですねっ? というか、なんで貴方まで驚いているんですかっ!?」
もうなんなの、この酔っ払いぃと少女がさめざめと泣く。
そんなこと言われてものぅと、道糞は困り顔をする。
わざわざ家の裏から入ってくるなど常人ではない。それに仮に女子供の盗人だとしても、こんなみすぼらしい家屋は狙わない。まわりにはもう少しマシなものがありそうな家屋が並んでいるからだ。
ともなれば、盗人以外の人種──乱破か? と、なんとなく推測したのだが。まさか、本当に乱破だったとは。
──最近、わし、乱破に狙われるようなことをしたかのぅと道糞は首を捻った。
昔ならば、思い当たる節はいくらでもあるのだが。
しかし昔のことで乱破が差し向けられるならば、こんな未熟な少女が一人で自分のところにやってくるだろうか。
「おい、娘。おぬし、あそこで何をしておった? いや──誰の命令でわしのところへ来た?」
道糞が腰を上げ、ずいっと少女に迫るように剣呑な表情で顔を近づける。
泣き言を口にしていた少女だったが、そのただならぬ雰囲気に、変わって毅然とした態度で睨み返した。
「ふん。言いませんよ。あたしが女子供だからってその程度で──て、なんで急に離れるんですか?」
「いや、その……近づいたら臭いがきつくて……おえっ」
「お前が言うなぁああああああああっ!? というか、お前のせいだろうが、この小便坊主ぅうううううううっ!?」
鼻を抑えてえづく道糞に、涙目になった少女がたまらず叫ぶ。
女子としてこう何度も汚物のように扱われては、流石の少女も泣きたくなってくる。
「う……おふっ」
「え……ちょっと、大丈夫ですか?」
鼻を抑えて身を屈めていた道糞の体が小刻みに上下する。異変に気付いた少女が、心配そうに道糞の顔を覗き込む。それと同時に道糞が少女の方に振り向き──道糞の顔は真っ青だった。
「本当に大丈夫ですか!?」
「大丈夫──じゃ、ないのぅ」
おぇえええええ、と奇声を上げる道糞。すぐにでも吐きそうな雰囲気だった。
「だめ……気持ち悪い……吐く」
「え、今ですか!? いけませんよ、こんなところで吐いては……せめて外で吐いてきなさいっ」
室内で吐かれては後々処理が面倒だ。
まぁ、そんなことを少女が気にする必要はまったくないのだが。しかし、そんな事実にも気付かず、少女が道糞を外へと誘導しようとする。
そこで、道糞が思い出したように口を開く。
「そういえば、おぬし……誰の命令でわしのところへ来た?」
「今はそんなことを言っている場合ですかっ?」
今にも吐きそうな状態に関わらずそんなことを聞いてくる道糞だったが、少女にはまともに取り合う余裕はない。
しかし道糞は食い下がった。
「言わなければ……おぬしにゲロをぶちまける」
「……………………は?」
最低最悪の、食い下がり方だった。
がしっと少女の両肩を掴んだ道糞が、そのまま少女を押し倒す。当然、両腕を押さえつけるように体ごと縄で巻かれた少女は抵抗できない。
冷たく固い床に体を押さえつけられ、前を見れば鬼気迫る表情(今にも吐きそう)の道糞の顔があった。
少女の背中に、寒気が走った。
「じょ、冗談でしょう? そ、そんな畜生にも劣る脅し……貴方、人の心とかはないんですかっ?」
「冗談なものか……相手が女子供であろうと、時にはやらねばならぬ時があるのだ」
血走った目(もう我慢の限界)がずいっと少女の顔へと迫る。
「は、はははは。流石は道糞。道端に落ちている糞とはよく言ったものです。鬼畜! 人でなし! 貴方はやはり──」
「おふっ」
びちゃびちゃ、と。
道糞の口からいろいろと漏れ出る。少女から発せられる刺激臭で、吐き気が助長されたようだ。
「いやぁあああああああああっ!? この人、本気っ!? ちょ、ちょっと待ってくださいっ。言います、言いますから! 全部話しますので、どうかそれだけは────っ」
顔を真っ青にして悲鳴を上げた少女がみっともなく命乞いをする。
しかし、時すでに遅く。
──おえぇえええええええええええええっ!
哀れな乱破の少女の顔に、それは盛大にぶちまけられるのだった。
……ちなみに。
後に少女は道糞にすべてを話すわけだが、このまま終わってしまうのは、この少女があまりにも可哀想というもの。
なので、少女の名だけ最後に明かしておこう。
少女の名は、つばき。
可憐な風貌に関わらず、香りがないという悲しき花の名である。
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