第4話 夏の出来事

 いつものようにタヌキさんの車に乗ると、タヌキさんは少し走った所にある公園の駐車場で車を止めた。そしてハンドルを握ったまま、言い辛そうな顔で、

「ごめんなさい」

 いきなり謝ってきた。

「どうしたの?行く場所を間違えたの?」

 そう聞き返しても黙ったまま。

 この沈黙が悪い知らせを意味していることは私にもわかる。きっと別れ話なのだろう。でも私からは切り出したくない。ラジオから流れてくる恥ずかしくなるほどに「愛」を振りまくラブソングが、何の感情も持たない雑音に聞こえた。

 タヌキさんはラジオを切り静かに話し出した。


「俺には結婚を前提に付き合っている彼女がいるんだ……」


「えっ……?」

 うそっ……。私の身にこんな事が起こるなんて。信じられない……。


「ど、どうしてもっと早く言ってくれなかったの……」

 そう、どうして。プールで私に彼女だと思わせる前に、私が体を許す前に、私があなたを好きになる前に。どうして今なの。


 タヌキさんは正直に全てを話してくれた。それが彼なりの誠意なのだろう。

 タヌキさんの彼女はデザイナーを夢みて留学しているらしい。でもタヌキさんは本当は彼女に近くに居てもらいたかったけど、彼女の夢のために我慢していたようだ。夢に邁進まいしんしている彼女と、日本で待ちわびているタヌキさんの気持ちがすれ違うのは、容易に想像できる。彼女と喧嘩けんかをして、気持ち的に距離が出来てしまっている時に私とSNSで知り合ったそうだ。私が投稿していたネイルの写真が彼女の手に似ていたとか……。あの写真があだになるとは……。

 どこまで本当かは分からないが、タヌキさんの様子をみていると嘘では無さそうだ。疑ったところでどうしようもない。

 そんな彼女が急遽きゅうきょタヌキさんに会うために帰国することになった。彼女も寂しかったのだろう。

 早い話、タヌキさんは心の隙間を埋めるために私と付き合っていただけ。私のことが好きなわけではない。

 タヌキさんは罪悪感から私に謝り、全てを話そうと思ったらしい。タヌキさんの性格上、きっとそれは本当なんだと思う。

 でも……、でもね、それって結果的に身辺整理だよね。私は彼女のために身辺整理される……。


 本当に信じられない、私が身辺整理される立場になるなんて。タヌキさんと彼女の幸せのために、私が犠牲になるなんて。

 短い間だったけどタヌキさんが真面目な人だってことはわかっていた。きっと寂しさに耐えきれず魔が差したのだろう。そしてとてもいい人だった。だから何事も無ければ、私はタヌキさんと結婚しても良いと思っていた。

 最後の最後までいい人。こうして直接会って全てを話して、心から謝っている。だから余計に辛い。最後ぐらい悪党になってくれればいいのに……。

 不思議と腹も立たない、怒りも感じない、それは一度好きになってしまったから。悲しいだけ。どうすればいいのかわからないぐらい、ただ悲しいだけ。


 気づけば車を降りて歩いていた。背後から「近くまで送るよ」と言うタヌキさんの声が聞こえたような気がするけど、返事もせず彷徨さまようように歩いた。きっとそんな私の後姿に、タヌキさんは底知れない恐怖を感じたに違いない。

 何処をどう歩いただろう。人は心が空っぽになると、本当に彷徨さまようように歩いちゃうんだね。見慣れない駅だな。彼との思い出に触れてしまうアパートには帰りたくない。でも行く当ても無い。ふとネットカフェが目に入った。吸い込まれるように初めてネットカフェに入った。

 料金システムなんてわからない。店員に言われるがまま小さなダウンライトに照らされたカウンターの隅で会員登録をして、薄暗い一畳ほどのスペースに入った。リクライニング出来るイスとパソコン、三十二インチほどのモニターの横にはティッシュが二箱置いてある。お隣さんとは板一枚で仕切られているだけだから、パソコンのキーボードを叩く音や、お菓子の袋を開ける音が聞こえる。私はイスに座らず立ち尽くしたまま、スマホでSNSに投稿した写真と文書を削除した。


 そして、退会ボタンを押した瞬間、全てが……、

 終った……。


 涙が溢れ出てきた。その場にしゃがみこみ、握りしめた拳を軽く噛むように、声を押し殺して泣いた。どうしても、むせて声が出てしまう。

「お母さん……、助けて……」

 悲しい、そしてあまりにもみじめだ。初めての恋愛の結末はこんなものなのか。身辺整理されて誰にもなぐさめてもらえず、ネットカフェで声を出すことも出来ず、一人で泣いた。彼女になれたと思い込んで過ごした、たった一週間の幸せな時とはあまりにも天国と地獄だ。

 自分がみじめ過ぎる。

 もう思い出したくなかったけど、久しぶりに思い出してしまった。これも藤崎君が私を食事に誘ったせい。

「高塚さん、大丈夫ですか? 体調悪いんじゃ……」

 藤崎君の声で、私の意識は現在に戻った。どうやらフォークを持ったままカルボナーラをにらみつけていたようだ。


つづく……

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