第2話 キツネさんの英会話

 二人目は就職して二年ほどしてからだったかな。英会話スクールでの出来事。あの頃は向上心も高かったし、会社が英会話スクールの費用を何割か負担してくれる制度があったから、仕事が終わった後に駅の近くにあったスクールに通っていたな。ちなみに私のTOEICのスコアは470点。スクールに通う前は280点だったから、一応は向上したと言う事で。

 取っている授業がよく同じになる男性がいて、授業が始まる前に爽やかな笑顔でいつも挨拶をしてくれた。授業中、私がなかなか英語を思い出せないでいると、小さな手振りで何気なくヒントを出してくれた。そして私が正解を言うと「やったね」と微笑んでくれた。とっても良い感じ。

 何回目かの授業が終わったとき「お茶でも飲んで行こうか?」と誘われた。同じスクールに通っている人とお茶に行くぐらい、別に普通のことだよね。ずーっと大人な雰囲気に好感を持っていたけど、私より八歳年上だって事も初めて知った。その時私が二十三歳だったから、その人は三十一歳。まっ、歳が離れているのは特には気にしていなかったけど、やっぱり大人の男性は落ち着いているな~って思ったかな。そう言えば目の前にいる藤崎君も年が明けたら三十一歳よね。ソワソワした感じだけど。私のほうが落着いちゃってるよ。

「年末も近くなってきたから、仕事も忙しいですか?」

 わー、そうとう話題に困っているみたいだな~。すっごく社交辞令しゃこうじれいな内容。同じ会社にいるんだから、年末だからといって忙しいわけじゃないことぐらい知ってるよね。

「特に、いつもと変わらないかな」

 私も冷たい回答だなー。ほらまた藤崎君が困ってるよ。

 会社に入社してすぐに受けた営業研修で、製品を説明する研修を受けたことがあったっけ。私は営業管理部だから、直接お客さんのところに行って製品の説明をすることは無いけど。その研修のとき講師の人が「製品の説明をしても反応が薄くて話しに乗っかって来ないお客さんを相手にするのが一番難易度が高い」と言っていた。きっと今の私はとても難易度の高いお客さんみたいな感じなんだろうな。藤崎君も可哀想に。相手が悪かったね。


 可哀想なワンちゃんはひとまず置いといて、スクールで知り合った人の話に戻そう。その人の名前は仮にキツネさんと呼ぼうかな。

 スクール帰りにお茶を飲みながら、色んな話をした。

「高塚さんは、どうして英会話スクールに通いだしたの?」

 これも今思えば社交辞令っぽい質問だが、その人が言うと爽やかだった。

「海外支社の人が日本に来ることも多いから、英語が話せたほうが良いかな、と思って……」

 これは本当のこと。営業管理部は本社にある。だから本社にもよく外国の人が来るので、英語が話せるといいかな、って思っていた。

「そうなんだ、なかなか向上心があって素敵だね」

 こう言われて嬉しくない人なんていないじゃない。私も「素敵だね」という言葉に酔いしれてしまった。

「キツネさんはどうしてスクールに通っているんですか?」

 ここは理由を聞き返すのが礼儀ってことで、キツネさんと同じ質問をしてみた。

「僕は海外転勤が決まったから」

「えっ、海外に転勤するんですか? どちらに?」

「アメリカだよ。二ヵ月後に行くんだ」

「そうなんですか……」

 英会話スクールに通っている人には色々な事情があるんだな。「大変ですね。頑張ってくださいね」と言って終わっていれば、単に若いころの思い出で済んでいたのに。私は勝手に自分が特別な存在だと思ってしまっていたのかもしれない。だからキツネさんは何も悪くはないと思うけど……。


 二ヵ月後にアメリカに転勤するという現実を突き付けられているからか、キツネさんは真剣に英会話に取り組んで、みるみるとレベルの高いクラスにステップアップしてしまった。もう同じ授業を受けることも無い。ハイレベルのクラスで、英語で楽しそうに女性と話している姿を窓越しから見ているとちょっと寂しくなる。私も授業が済んだからサッサと帰れば良いのに、缶コーヒーを飲んで休憩をするフリをして、受付前のテーブルでキツネさんの授業が終わるのを待ってしまった。授業が終わり部屋の扉が開くと、賑やかな声が溢れてきた。キツネさんは部屋から出てきても、まださっきの女性と英語で話をしている。授業が終わったのにまだ英語で楽しそうに話している二人を見ると『ここは日本だぞ。』と心でぼやいてしまった。キツネさんは私に気づいて軽く「あっ、どーも」と挨拶をしてくれたけど、私は笑顔を見せずそっけなく会釈えしゃくをしただけ。

 あの頃は若かったから、ヤキモチを焼いちゃったんだろうなー。いや、きっと今でも同じシチュエーションだったら同じリアクションをしてしまうな。

 キツネさんと一緒にいた女性は私のことを少し気にかけて英語でキツネさんに何か聞いている。英語力の低い私にだって「彼女は誰?」と聞いたことぐらい分かる。

 キツネさんは英語の単語を思い出すように、たどたどしく説明をしながら階段で女性と降りて行っちゃった。

 静かになったテーブルに一人残されて、バカバカしくなった。なんで私、ヤキモチ焼いてるんだろう、って。

 帰ろう。エコじゃないけど、私はエレベータで降りよう。


 一階で扉が開くとエレベータホールの隅に、まだキツネさんがいる。でもさっきの女性の姿はない。せっかくヤキモチが冷えたのに、また熱くなって来ちゃった。素っ気無い顔で立ち尽くしていると、キツネさんが、

「もう帰るの?」

 といつもの爽やかさで話しかけてくれた。

「はい……」

「あれ、今日は元気ないな。大丈夫?」

 私を気づかってくれるなんて、やっぱり優しい。ん? これは優しさだったのかな?

「よし、何か食べに行こうか」

 やっぱり私は特別な存在なのかな。ちょっと嬉しくなる。でも今思えば、受付前のテーブルで会った時にいつもみたいに話しかけてくれれば良かったのに、女性がいる前では私を軽くスルーして、女性がいなくなってから私に優しくしてくれるなんて、大人ってなんだかズルい。そう言う私も今は大人だけど。

 私が喜んで食事に行ったのは言うまでもない。だって当時の私には断る理由は何も無いじゃない。

 きりたんぽ鍋という料理を食べたのも、あの時が初めて。その後も食べたことは無いけど。鍋にはやっぱり日本酒と言われ、私も日本酒をいただくことにした。確かに体が温まる。勝手に心も温まっている感じになっていたかな。

 いつもは爽やかで陽気だったキツネさんもアメリカに行く日が近づいていたせいか、弱音をこぼしている。きっと誰にも見せない心細い気持ちを私にだけ見せてくれているんだ。

 今思えば私の完全な独りよがりだ。錯覚だ。

 さっきまでヤキモチを焼いてしまっていた男性から優しく食事に誘われて、私にしか見せていないと思い込んでいた弱音を聞いて、何も感じないのは無理だよね。

 しかも二人で鍋をつついているんだよ。向かい合わせではなく、私の右側に座って。ん~、言葉でなんていえば言いの。隣ではなく横の席。そう直角、九十度の位置。この直角関係がますます思い違いをまねいている。完全に自分は特別な存在なんだって、思っちゃうよね。


「高塚さん、イタリアンはお好きですか?」

 おいおい、オーダーを済まして今更その質問か? しかもパスタと言っても今では日本食みたいなものだし、ここのお店もイタリアンと言うよりファミリーレストラン。スイーツに餡蜜あんみつなんかあるし。

「どうかな、本格的なイタリアンってあんまり食べたことないから」

 なんて正直で非情な私の回答。でもキツネさんときりたんぽ鍋をつついていた頃の私と違い、今の私は簡単に心を開くことは出来ないの。ごめんなさいね、ワンちゃん。

 だから今のこの席の位置がベストだ。向かい合わせ。しかも料理はパスタ。私と藤崎君の間に間仕切りが無くても、お一人様が成立する。いつでも離脱りだつ可能なフォーメーションだ。

 七年前の直角関係で鍋をつついていた時は、もう離脱不可能な状態だった。いや、離脱しようなんて少しも考えていなかった。年上で大人なキツネさんが私を頼っている。私を必要としている。少しでもキツネさんをいやしてあげたい。そう思って彼の求めるままに一夜をささげた。あの時は相手の求めるままにしてあげることが癒しや愛情だと思っていた。でもそれは大間違い。結局私が傷ついただけ。どちらかが傷つくのなんて本当の癒しや愛情なんかじゃない。

 その後スクールで数回会ったけど、私の期待とは裏腹に彼の態度は何処か素っ気ない。まるで一夜を共にすることが目的だったかのように、もう私のことはどうでもよくなってしまったみたいだ……。

 結局、私のことを「好きだ」と言ってくれないまま、アメリカに行ってしまった。そういえば英語で楽しそうに話していた女性も、その時から見なくなったな。もしかして彼女が本命で、一緒にアメリカについていったのかな。それとも私のように傷ついてスクールを辞めてしまったのかな。

 今ではもう、どうでもいい事だけど。


つづく……

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