外伝 『美味しいご飯を食べてね』




僕に取って夏は出会いの季節だった。

そして、別れと思い出を彷彿とさせる、季節だった。











_____________________






 酷く暑い日だった。

 そんな暑さも感じさせないほどの爽やかな笑みを浮かべた、自分と年の変わらない少年と出会った。

 10歳の頃、似たような少年と会い、共に暮らしていた時期があった。お互いいつ死ぬか分からない中で必死に何かを埋めるように、求めるように、時間を重ねた。

 死んで欲しくないと思った。自分と同じように上の傘下に入ってその命を使っては欲しくないと思った。だから、訣別を選んだ。

 それがかつての友人、憐だった。











 12歳の夏。


「君が響くん? 俺はかなで今日はよろしくね」


 すぐに死んでしまいそう。

 それが率直な感想だった。

 人懐っこい笑みを浮かべて、人間の汚いところなど知らないと言う瞳で、綺麗事だと笑い飛ばされるようなことを真剣な目で言う。

 何より、人の善性を信じていた。

 そんな子だった。


「…よろしく」


 ___死なないで。


 そんな自分の声に聞こえないふりをした。

 憐の時のような二の舞は踏まぬと、心に決めたから。






「響くん本当に強いね。俺なんか足元にも及ばないや」


 同じ陰陽師の大人はこの強さを妬んだ。

 そんな中、純粋に尊敬の眼差しを向ける奏はやっぱりすごく真っ直ぐで、年相応の素直さを持った、ただの子供だった。


「奏くんも、鍛えたら強くなれると思う」


 これは素直な気持ちだった。

 きっとこの少年はもっと強くなれる。誰かの強さに妬むのではなく、それを尊敬として、目指す目標にする事が出来る子だから。


「あははっ、謙遜しないんだね。いいね、正直でさ。くん付けじゃなくて、奏って呼んでよ。俺も響って呼ぶから」


 眩しいほどの笑顔で笑う奏に、脳内では警鐘が鳴っていた。ジージーッと、蝉の鳴き声と混ざった嫌な警鐘が、鳴り響いていた。


「うん。奏、ご飯食べに行こ」

「っ! うん! えっ、初めて響から誘ってくれたよね!? やば、嬉しいな」


 この仕事で、仕事関係の人と馴れ合ってはいけない。誰も口にはしないが、それが誰もが知っている賢い生き方。

 だって今笑い合ってる隣の人が、明日もその口で笑って、目を開けて、生きているとは限らないから。


「はは、何それ」


 そう言って笑えば、奏はまたびっくりしたような顔をして、その顔を破顔させた。

 そして僕の手を引いた。繋いだ手から温もりが伝わって、警鐘が遠のいたように錯覚したのだ。






 仕事関係の人と馴れ合ってはいけない。

 仲間などと思ってはいけない。

 裏切られて痛い目を見るのは自分だから。

 裏切らなくても生きてるなんて保証はどこにもないから。






 奏の渡される案件に怪しい影が差さり始めた。

 運良く早急に気づけた僕はそれを揉み消して自分の案件にした。

 実力階級に合わない、理不尽な案件だったから。

 奏に、__死んで欲しくないと思ってしまったから。

 もちろん僕が多忙にはなるけれど、隣で太陽のように笑う奏を見れば疲れも苦痛も何も感じなかった。ずっと、そのままで居てくれたらいいと思った。




「この仕事って良いよね。裏から人を守るヒーローみたいで」


 そんな事を本心で言えてしまう奏は、きっとその裏の裏に隠された汚さも、大人たちの汚い欲望も、何も知らない。


 僕が知っている汚いを、綺麗な奏は知らない。

 勝手に線引きをした。

 あっち側とこっち側。

 こっち側になどきてくれるな。染まってくれるな。奏の笑顔にそう願った。


「奏は本当にいい奴だね」

「そうかな? でも俺はこの仕事に誇りを持ってるよ」


 キラキラさせた奏はあっち側。

 太陽のように輝く奏はあっち側。


「僕は、誇りは持てないかなぁ…」


 汚いを知り過ぎた僕はこっち側。

 それに染められる僕はこっち側。


 僕のその声は、奏には聞こえなかった。






 勝手に線引きをしていた。

 明日生きてる保証もないようなこの世界で。

 あっち側なら死なぬと、

 あっち側だから大丈夫だと、

 そんなの誰も、保証などしてくれないのに。

 いつの間にか汚いは綺麗を侵食する。

 汚い僕がとなりにいれば、綺麗側の奏が侵食されるのは当たり前だった。

 あっち側がこっち側に迷い込んだんじゃない。

 こっち側があっち側を呑み込んだのだ。






 何度か共に案件を重ねて、奏は決して弱くはなかった。自分より強くはないが、年齢を考えれば尊敬される強さを持っていた。

 弱くは、なかった。






あっち側だから、大丈夫なはずだった。


勝手に線引きをしたのは己だと言うのに、


誰も保証などしてくれないのに。


勝手にそう信じて、馬鹿を見るのは、


自分だと言うのに。











_____________________






 一つ年を越した。

 もちろん奏も僕も、当たり前のように案件漬けだったけど、終わった後に2人で初めて蕎麦を食べた。


「えっ! 響蕎麦食べた事なかったの?! 今まで? 一度も?」


 奏はひどく驚いた様子だった。

 僕は蕎麦を啜りながら気まずそうな顔をしていたと思う。


「う、うん。ほら、忙しくて…」

「まって、もしかしてちゃんとご飯食べてないんじゃない? 響は強いけど細すぎるよ。確かに筋肉もついてるけど、もっと付けたほうがいい」


 奏に心配されてそんな事を言われた。

 その心配が、少しだけ心地よかった。


「そうかな…? でもさ、ご飯なんてとりあえず食べられれば良くない?」


 僕がそう言えば奏は怒った顔をした。


「ダメだよ! ちゃんと美味しいものを食べるのが食事だよ。んー、あ! じゃあこれからは俺と食べようよ。毎日は無理でもさ、出来るだけ時間が合う日は俺と食べよ。たくさん美味しいもの教えてあげる」


 楽しそうにそう話す奏に、僕は少しだけ怖かった。それはまるで憐の時と似ているような気がして。知らぬ間にまたカウントダウンが始まってしまうような気がして。






 一度知った温もりは手放せた。

 それより大事な彼の未来があったから。

 だけど、

 二度目もまた、ちゃんと手放せる__?






 そんな声を振り払うように、また奏が笑う。


「なにその顔。俺と食べるの嫌?」


 僕は慌てて否定した。


「ううん! 違うよ。違うけど…」


 言い淀む僕に奏は困ったように笑って僕の頬を両手で掴んだ。自然と奏に視線がいく。


「響は頭が良いから、難しい事たくさん考えちゃうんだと思う。でもさ、美味しいご飯を2人で食べよう。今はそれだけでいいんだよ」


 目を見開いた。

 潤みそうになる目頭に力を入れて、それでも奏はやっぱり笑うのだ。太陽みたいに。


「ね? 楽しそうじゃない?」

「うん。そうだね。奏と食べるならきっと美味しいし楽しい」


 そう言うと次は奏が目を見開いて、片手で顔を覆った。


「え゛っ………、響って心開いたらこんななの…? 開けちゃいけない扉開きそう……」


 奏が小声で呟いた事はあまり聞き取れなかった。


「うん? 奏? 大丈夫? 具合悪いの?」

「う、ううん。違うよ…。響、知らない大人とかについて行っちゃダメだよ…?」

「それは当たり前だけど…、どちらかと言えば奏の方が着いていきそうじゃない?」

「うん! 全然分かってないね〜! も〜、本当に気をつけるんだよ。変質者に会ったら俺に電話して! それ以外でも危険な目にあったら電話して! 絶対駆けつけるから!」


 変な事を言う奏に僕はおかしくなって笑った。


「あははっ、奏も。何かあったら絶対僕に電話してね? 飛んで行くから」

「うん。約束ね」


 そう言って笑う奏は知らない。

 その綺麗な目に映してる僕はもう既に穢れていることも。自分がどんなに劣悪な環境下に身を置いているのかも。

 そして僕も知らなかった。

 保証されない明日を信じ続けるのが、どんなに愚かな事かを。

 でもそれでも、奏の目には出来るだけ綺麗なものを映したかった。綺麗なものだけをみていて欲しかった。


「あ! そうだ。時間があったら神社に行こうよ。そして3月は響の誕生日を祝うの。次で13歳でしょ?」


 そしてその綺麗が輝けば輝くほど、影も濃ゆくなるなんて知らなかった。


「うん。楽しそう。11月の奏の誕生日も祝おうね。去年は祝えなかったから」


 ただ自分がその影側に立っていることだけを知っていた。


「夏には海に行こう! 響は海、見たことある?」

「ない。だから奏と見に行けるなら嬉しい」

「ゔっ…、響、本当に、素直すぎるよ…」

「奏?」

「なんでもないよ! 僕も響と見に行けるの楽しみ。海って見てみたかったんだ」

「うん」

「都心の海は汚いって言うから、ちょっと田舎の方に行けたらいいね。どうせなら綺麗な海を見に行こう」

「行けたらいいね」


 太陽に照らされた海はキラキラして眩しいと聞く。きっとそれは奏の笑顔と似ている。

 僕は眩しくて目を細めるんだろう。

 きっと少しだけが霞んで見えるのだろう。

 だけど、隣に奏が居るなら、海よりも、太陽よりともっと近くにもっと眩しいものがあるから、僕はきっと綺麗だとちゃんと思えるんだろう。


 たくさん未来の話をして、年相応のなんてことない予定の話だった。

 未来に何か希望を抱いていないと、死と隣り合わせの仕事がお互い辛かったのかもしれない。

 小さな小さな部屋で、小さな小さな希望を語った。

 全部、実現できるはずの未来だった。

 当たり前にその日が来ると、信じていた。






_____________________






 結局、お互い更に多忙になり、神社にも行けず、僕の誕生日もしっかりは祝えなかった。それでも奏と会える日全部が特別みたいに楽しかった。まるで普通の男の子になれたような気がした。


 普通の男の子なのは、奏だけだったのに。






 13歳。9月。


 海にも行けなかったけれど、夏じゃなくてもいいから年内には行こうと話した。

 なんなら日の出を見に行くのもいいね、なんて他愛もない話をした。


「あ、奏、今日も僕のうち来る?」

「ん? あ、もしかして都合悪い? えっ、まさか恋人でも出来た!?」

「いや、違うけど、今人がいるんだ。って言っても人って言っていいのか分かんないけど、なんて言えばいいのかな、うーん…」


 人ではない。でも今のところ害もない。なんて説明をしたらいいのか分からなかった。

 頭を捻る僕に奏は真剣な顔で言った。


「人じゃない? それは、大丈夫なの? 響に危害はない?」

「ないよ」


 そんな僕のなんの保証もない一言を奏はあっさり信じた。きっとこれが奏の美点であり、弱点だった。


「そっか。なら俺も会ってみたいな」


 会ってみたい。その言葉に僕は少しだけ嬉しくなった。


「うん、僕も会わせたいと思ってたんだ」


 きっとシキ達も、奏を気にいるし、奏もシキ達と仲良くなれると思ったから。




「ただいま」


 そう言って扉を開ければ、気配で分かっていたのか4人が玄関まで来ていた。


「おかえり、響。その人間は誰?」


 シキは少しだけ警戒していた。


「おかえり。客人とは珍しいのう」


 ダイラは警戒心を隠していた。


「おかえり、響ちゃん」


 ミョウも笑ってはいたが目の奥は警戒心を滲ませている。

 チョウは無言だった。


「えっ、響ちゃん? 響、ちゃん付けで呼ばれてるの!?」


 場にそぐわないほど明るい声を出したのは奏だった。そんな奏に呆気に取られたように4人の警戒が解かれた。


「え、突っ込むところそこなの?」


 シキがごもっともな意見を言う。


「え、だって響はクールだから、響ちゃんって感じがすごい、なんか親しみ? を感じて…」


 奏がよく分からない言い訳のような事を言う。

 僕はそれに笑った。


「あはは、奏は面白いね。僕が一緒に住んでる“ナニカ”だよ。シキ、ダイラ、ミョウ、チョウ。そして、僕の同僚の奏だよ」


 僕がそう紹介すると奏もシキ達も拗ねたような顔をした。


「家族でしょ! 響」

「そうじゃぞ。そのような説明じゃと、ちと寂しいぞ」


 シキとダイラがそう言った。

 ミョウと、珍しくチョウもうんうんと頷いていた。


「俺たちって友達でしょ? てかほぼ家族みたいだったじゃん! もはや相棒では?」


 奏もそう言って詰め寄った。


「え、えぇ…うーん。…奏。僕の友達で相棒でほぼ家族。シキとダイラとミョウとチョウ。僕の家族だよ」


 僕は素直に説明を訂正した。

 そう言ってくれるみんなに嬉しく思ったから。


「うん! 響は家族が多いね〜」


 奏がそう言った。


「まっ、害もなさそうだし、僕たちより響とは付き合いも長いみたいだし。何より響が信頼してるみたいだし」


 シキは警戒心を完全に解いた。


「そうじゃのう。立ち話もなんだ。中に入ってみんなでゆっくりご飯でも食べながら話そう。ちょうど今日は作り過ぎたんじゃよ」


 ダイラが気を利かせてそう言ってくれる。


「またご飯作ってくれたの? ありがとう。奏も一緒に食べよう」


 そう言えば奏は僕に釣られて靴を脱いで上がった。


「俺もいいんですか? お腹ぺこぺこなんでありがたいです!」

「これまた響とは真逆のタイプじゃのう〜」


 そう言ってダイラは笑った。

 それから皆んなで色んな話をしながらご飯を食べた。

 後半は殆ど僕の私生活がキツキツすぎるというお怒りだったが、僕はその空間が大好きだった。

 それからも何度か、奏も交えてご飯を食べた。




「僕にご飯の美味しさと楽しさを教えてくれたのは奏だったんだよ」


 いつものように皆で食事を済ませて、おしゃべりしている時に僕が言ったことだ。


「そうじゃったのか。ありがとうな、奏。響の友達になってくれて」


 ダイラが親みたいなことを言う。


「奏も料理できるの? 響のご飯も美味しいんだよ〜! 知ってる?」


 シキはとっくに奏と意気投合していた。

 シキ達は人間が嫌いで、奏も本来“ナニカ”を討伐する立場。それは僕も変わらないが。お互いに受け入れたのが嬉しかった。

 大切な人達と、大切な人がいる空間は楽しくて暖かくてしょうがなかった。


「響のご飯美味しいよね。俺も何度か食べたけど、初めて食べた日は驚いたな。俺と同い年の子がこんなご飯作れるなんて、って」

「褒めすぎじゃない? 奏だってご飯作れるじゃん」

「俺のは男飯! って感じじゃん? 響のはアレンジも効いてて、とにかくすごく美味しいよ」

「僕は奏のご飯も好きだけどな。もちろんダイラのもシキのも。誰かが作ったご飯って美味しい」


 僕がそう言えば3人とも嬉しそうな顔をした。

 それで僕はまた、嬉しくなるんだ。






 こんな時間が永遠に続けばいいと思った。

 こんな日常が続くと思っていた。

 あっち側とこっち側。

 その境界線だけは見誤らないようにしていた。

 決して奏をこっち側へ来させないように。

 奏のあっち側を守れるように。

 綺麗なものだけをその目に映せるように。

 汚いものには蓋をして隠せるように。




 それは簡単に綻んで、

 零れ落ちて、侵食していくものだと、

 知っていたはずなのに。

 否、知った気になっていただけだ。











_____________________






 夏の茹だるような暑さが嘘のように、空気が冷たくなって、寒くなり始めた季節。11月。

 その日僕は無理な入れ方をされた案件をこなしていた。

 いつかの暑かった日に感じた警鐘が、また頭の中で鳴り響いていた。


〈討伐完了しました。本日は直帰します。〉


 本部ももう開いていない時間帯。

 僕はそれだけをメールで打って送信した。

 そして横に倒れている死体から鉄の匂いがして、どこかからほんのり、嗅いだことのない匂いがした。そして、遠くにいつかテレビで聞いたような、波のような音がした。

 僕は釣られるようにその方面へ向かった。

 そして森を抜ければ、開けた場所に出た先に見えたのは、視界一面に広がる水。海だった。

 嗅いだことのない匂いは潮の匂いだった。

 月明かりが海に反射して、控えめな輝きから目が離せなかった。

 さっきまでの鉄臭さが嘘のように、五感が海に奪われた。

 だけどそれでも、自分の手を見ればまだ少しだけ血がついていて、また、境界線をハッキリさせる。


 先に見ちゃってごめんね。


 奏と見ようと約束した海。

 これは夜の海だけれど、やっぱり奏と見れるまでとっとけばよかったと思う。

 きっと奏はこの静かな海に似合わないほど明るい声で喜ぶのだろう。

 それがありありと想像できて笑えた。

 あっち側とこっち側。

 その境界線で、見ている景色は変わる。

 奏が見たらきっと海はもっと綺麗に輝くのだろう。

 太陽に照らされる海も、月明かりを反射する海も。

 でも夜の海は、海の漆黒が、全てを覆い隠してくれるような気がした。

 ひどく凪いだ気持ちになる。

 夜の海は寂しさを誘うと言うが、僕はそこに安心を感じた。

 きっと夜とこの暗い海が包み隠してくれるような気がしたからだ。

 一人海を眺めていると、携帯が鳴った。

 だけどそれは僕が取る前にすぐに切れて、次にメールの受信音が鳴った。


「は、」


 そのメールを見て、僕は駆け出した。

 電話を掛け直しても、取る気配はなかった。


 奏は、電話をとることはなかった。











_____________________






 響への第一印象は、優しさを覆い隠してしまうほどの寂しい憂いを帯びた少年だった。

 どこか素っ気なく感じる一つ一つの言葉に、怯えと心配が滲んでいるのはすぐに分かった。

 だって目の奥はいつも、慈愛を滲ませていたから。

 仲良くなって分かったのは、すごく優しいと言うこと。

 響は俺に優し過ぎて死にそうと言っていたが、それは響の方だと思っていた。

 涙が出るほどに純真な優しさを持っていた。

 手料理が上手で、それなのにご飯を食べる楽しさも美味しさも知らなかった響。

 美味しいと言いながら、楽しいねと笑って隣でご飯を食べてくれるのが、ひどく嬉しかった。

 響を守れる存在になりたいと思った。

 既に俺よりもはるかに強く、きっとそこら辺の大人の陰陽師でも勝てやしない。それでも響はまだ強さを隠している。

 きっともっと強いだろうし、もっと強くなるのだろうと思った。

 だから、それが故に孤独になってしまうような気もした。

 だから、俺だけは隣を歩めるように、背中を守れるように、安心して背中を任せて、怯えずに隣を歩けるような、そんな存在になる為に、もっと強くなろうと思った。

 響とこれから先も隣を歩んで行きたいから。






 響に家族を紹介された時は、少しだけ妬いた。

 短期間で信頼される立場になったシキさんに、ほんの少しだけ羨ましく思った。

 でもそれ以上に、響の周りが賑やかになるのが嬉しかった。

 でもそんなの関係なしに、響にはどんどん重めの案件が重ねられた。

 増えていたはずの共に過ごす時間が段々と減った。






 そんなある日、本部へ呼び出しされた。

 俺の所属に関する話だった。


「お前をこちらに引き抜きたいと思っている」


 響の血の繋がった父親である安溟倍浄九導という男が、自分たちの思想を誇り高く語ったのちに、そう言った。

 その言葉を聞いて最初に湧き上がった感情は————怒りだった。


「どうしてですか? 俺だけですか?」


 どうして自分に声をかけた。

 どうして響は今も本部の管轄で働いているのだ。

 そんな誇り高い大義名分を抱えて独立組織を立ち上げたなら、どうして響はそこにいない?


「君だけだ。どういう意味だ? ……あぁ、響のことか」


 まるで今まで覚えてもいませんでした、なんて顔でそう言う響の父親に怒りを煽られた。


 最近シキさん達から聞いて知ったことだが、響はこの人達を守る為に上とセイヤクを結んでいる。それは、あまりに自己犠牲的な守り方だった。

 俺は反対したかった。

 この人が響に言った言葉を知っている。

 『人でなし』と首を絞めたのを知っている。この人達が響にした仕打ちとも呼べる愚行を知っている。

 でもきっと響はテコでも動かない。

 一度決めたことは絶対に覆さない。

 それが大事な人達を守る為ならば、なおさら。

 だからこそ、ゆっくりでいいと思った。いつか、和解できたらいいと思った。

 この人達が何か響に誤解をしているような気がしたから。だって響は噂のような人物じゃない。化け物でも、人でなしでもない。本当は誰よりも優しく強く、慈愛深い子だ。

 自分と同じ歳の男の子が多くを背負っているのに最近気付いて、自分の不甲斐なさに落胆した。

 でもならば、自分は意地でも響の隣を歩き続けようと決めたのだ。

 ゆっくりでいいから、響が普通の幸せを享受できるようになった時、隣で支えてるのは自分であったらいいと思った。


「自分の息子さんのこと、なんとも思わないんですか」

「アイツは既に良い役職を持っているだろう」


 憎しみが湧いた。

 怒りが憎しみになる瞬間を実感したのは初めてだった。

 響が守りたいと大事にしている人達。

 なぜこんな奴らが、響の“大事”の立ち位置にいられるのだ。

 響がどんな思いで今まで守ってきたと思っているのだ。

 朝昼晩。寝る間も、ちゃんとした食事すらできない時期もある。

 出会った頃の響なんて、酷く憔悴していた。

 最近の響も、また体に鞭を打って働き続けている。

 全部全部、こいつらの為に。


「お断りします。俺は貴方達の下には付きません」

「何故だ? 今の所より命の危険もなく働ける。何故拒む?」


 何故?そんなものは明白だ。

 むしろ分からない方がどうかしている。


「響を拒んだ貴方達の下では働きたくないです」


 俺の口から響の名前が出た途端、男の表情が険しくなる。


「愚かな判断だな。あんな人でなしの、どこがそんなに気に入るのか。皆目見当もつかん」


 ああ。ダメだ。

 この人達はダメだ。

 この人はダメだ。

 愚かなのはこの人だ。

 自分のその命と安全が何に保障されているのかをまるで分かっていない。

 でも、教える義理もない。

 もっともっと、重く罪を重ねたら良い。

 そしていつか、己の罪の前で懺悔して、贖罪を吐けばいい。



 響の苦しみよりももっと重い苦しみが、きっとお前らを待ってる。



「話は以上ですか? 案件が入ってるので失礼します」


 俺はそれだけを言い残してその場を後にした。

 これ以上話していたら敵わないと分かっていても手を出してしまいそうだった。

 意味がないと分かっていても、響の事を語ってしまいそうだった。

 だけどそれこそ響への冒涜だ。

 他人の口から語られる己の努力ほど、意味のないものはない。

 だからいつか、もっと強くなって、その時が来たら全てを懺悔してもらおう。

 それだけを思った。






_____________________






 そして翌日。


 九導らの提案を突っぱねて、それを何かの交渉材料にしていた上からお怒りを買った俺は、無茶な案件に当てられた。

 その時そいつらから話を聞いて初めて、響が今まで俺の危険な任務を揉み消して自分が行っていたのだと知った。

 守れる存在になりたかったのに、守られる存在になっていた。

 だから、この案件が終わったらちゃんと伝えたいと思った。響を大事に思っているのも、これ以上自分を犠牲にしないで欲しいのも、お礼も全部。案件が終わったら、ずっと話していた海でも見に行きながら。




 そんな未来、当に来ないことは決まっていたのに。











 九導に反発したこともあって、響の周りに俺がいるのが上は気に入らなかった。全ては響が自分たちの良い駒である為に。響の肩を持とうとする奴が気に食わないのだろう。自分達の考えたシナリオが崩れるから。

 要するに、上の連中は俺を生かす気などこれっぽっちもなかったのだ。

 響の周りを渦巻く強大な理不尽な不幸の前に、俺はちっぽけだった。

 明らかに階級が2つは違うであろう案件。

 左腕は喰われて、右足も折れている。

 もう、逃げ切れない。助からない。

 自分の周りに弱い結界を張るのが限界だった。




『あははっ、奏も。何かあったら絶対僕に電話してね? 飛んで行くから』




 そう言ってくれた響を思い出した。

 今際の際、頭の中は響でいっぱいだった。

 ああ、そうか。シキさんが羨ましかったのも、九導に尋常じゃない怒りを感じたのも、ぜんぶ、響が大切だからだ。

 友達として、家族みたいな存在として。

 それだけではなく、きっとこれは、響が好きなのだ。

 死に際になって初めて自分の気持ちを理解した。

 仕方ないじゃないか。

 初めてなんだ。

 家族以外に誰かを特別に思うなんて。

 こんな、胸が締め付けられて、それでもどこか暖かく感じる感情は、初めてだった。

 自分の何に変えても守りたいなんて、初めてだった。

 この気持ちを、今響に伝えたいと思った。

 気付けば電話をかけていた。

 だけど、すぐにそれを切ってメールを打つ。

 きっと響は優しいから、今から死ぬやつの言葉を一生覚えている。

 そして思い出す度に悔やんでしまう。

 響のせいではないのに。

 響はこれっぽっちも悪くないのに。

 悪いのは全部この世界だ。

 俺にはずっと綺麗に見えていたこの世界は本当はもっと汚かった。

 それを隠すように、綺麗なベールで包まれていただけ。

 そしてそのベールは誰かの優しさでできている。

 響の涙が出るほどの優しさで、できていた。

 メールに何を打つか一瞬考える。

 響は悪くないなんて言っても、きっとそれがまた枷になってしまう。

 響の事をたくさん考えた。

 やっぱり好きだと言う気持ちが溢れる。




『美味しいご飯を食べてね』




 自然と打った文字はこれだった。

 これから先、どんなに辛いことがあっても、家族と美味しいご飯を食べて。楽しいねと笑って。その隣にもう俺は居られないけれど、それは、すごく悲しくて、悔しいけれど、響の幸せはきっとそこにあるから。

 だから、出来るだけ多くの時間を、楽しいと嬉しいで溢れさせて。

 ちょっとずつでいいから、響も、救われて。

 家族に、シキさんに、救ってもらって。

 どうか、響を救ってあげて。

 終わりのない地獄のような苦しみから、苦痛ばかりの辛い人生から、どうかどうか、掬いあげて欲しい。

 その瞬間、力が底尽きて、結界が解かれた。

 そして本物の化け物“ナニカ”が口を開いて待っていた。

 体を持ち上げられて、口に放り込まれる瞬間、その意識が途絶える瞬間まで響の事を考えた。




 月が、すごく綺麗だった。

 最期の瞬間に、大好きな人のことを考えられるなら、この生は幸せだったと思う。

 響がいたから、俺は幸せだった。

 響に出会えたから、俺の人生は幸せだった。

 響は何も悪くない。

 誇りを持って良い。

 響は強くて、誰よりも優しい、普通の男の子だよ。

 美味しいご飯に美味しいと言えて、楽しい会話に笑えて、時々すごく素直で、可愛くて、でも頼り甲斐もあって。

 そんな響が俺は好きだから。


ありがとう、響。

俺と友達になってくれて。

『美味しいご飯を食べてね』

この文に色々な全ての感情を込めた。

届かなくても良い。

どうか、美味しいねって、楽しいねって、笑って。



好きだよ、響。



 俺の意識はそこで途絶えた。

 自分が咀嚼される音が鼓膜に届いた。
















_____________________











 現場に駆けつけて残されてたのは、奏を喰ったであろう“ナニカ”と、奏のケータイ電話だった。

 無心で気付けば“ナニカ”をぐちゃぐちゃにしていた。



誰が保証した?

こっち側とあっち側。

交わることはないと、


誰が保証した?

そんな境界線、

存在しないと言うのに。






 もうきっと、僕は蕎麦を食べない。

 食べてもきっと、美味しいねと、楽しいねと、笑える相手はいないから。

 その思い出を語れる相手は、もう居ないから。



『美味しいご飯を食べてね』



 その言葉に、文字に、全てが詰まってるような気がした。


「……奏…、僕ね…、奏も一緒じゃないと……美味しくご飯…、たべれないよ…」


 奏が教えてくれたんじゃないか。

 ご飯は美味しく楽しく食べるものだと。

 なのに、その奏が居ないなら、意味がないよ。

 あの言葉に一体どれだけのものを込めたのか、分からない。

 もしかしたら何も込められていないのかもしれない。

 でも、この文字を見て、こんなに痛いのは、辛いのは、きっと奏が温かくなるほどの何かを込めたからだと思った。

 たった一人の友人で、家族のように大事だった。











 気付けば空っぽの骨壷を抱えて、眩しい太陽のような笑顔に手を伸ばしていた。


 もう触れることのできない太陽。






 何も知らないくせに。

 ちゃんとした葬式もしてやれない中、奏の事を話す九導達が憎く感じた。

 どうして僕の大事なものを誰も守ってはくれないのかと。

 だから九導達から奏の記憶を奪った。

 僕だけでいい。

 奏のことを知っているのは僕だけでいい。


 太陽を独り占めした代償は思いの外、軽かった。


 僕の中で無意識下で奏との楽しかった記憶に蓋がされ始めた。
















____あの煩い蝉の鳴き声と混じった警鐘だけが、記憶にこびりついていた。










外伝 end.

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