第5話 推しの衝撃
くらり、一瞬足元が揺れた気がしたが、ドレスの中でなんとか足を踏ん張った。至近距離にいる王子殿下をまじまじと見返す。
オリーブ色の髪。
金色の瞳。
整ったお顔立ち。
間違いない、この人は、推し……いや最推しの、乙女ゲームのキャラクター!
……つまりここはゲームの中の世界で、私は、私は……?
そうだ、王子の婚約者、最後の最後にヒロインと決闘を行う公爵令嬢、アルスリーナ・ロッテンバーグ!
美しい豪奢な銀色の髪、宝石のようにキラキラと輝く青い瞳を象る長い睫毛、スッと通った鼻筋、ふっくらと桜色の頬、愛らしい口元。その美しさたるや、すれ違う誰もが振り返らずにいられない。
絶世の美少女(と世間では言われているらしい)、アルスリーナ・ロッテンバーグとはまさに私のこと……!
前世(?)の黒髪眼鏡の冴えないアラサーOL姿からはまるで想像もつかないが、確かに朝から王城へ来るために準備をしてきたのは大層美しい銀髪碧眼の少女だった。いやこれ別に自画自賛じゃないですから、ゲーム中の表現ですから。石は投げないでください?! じゃなくて!
えっ、て、転生……って……コト……?! い、いや待てそう決めつけるのは早い。夢だ、これはたぶん夢……きっと寝る前にゲームをしていたからそのせいで夢を見ているんだ……。
殿下は……最推し・トラヴィス様は固まる私を前に不思議そうに首を傾げている。さっき少し体が揺れたせいか、大丈夫か? と聞いてくれる始末。ウッ、優しい……。推しが目の前にいる……? 信じられない、夢なら覚めないでほしい……。
そうだ、夢だとしてもこれだけは、これだけは言っておかないと。
「トラヴィス様!」
私はずずいとトラヴィス様に詰め寄った。自分としては一歩前に出ただけのつもりだったのだけど、勢いが良過ぎて詰め寄った感じになった。トラヴィス様もたじろいで、一瞬身を引いていたくらいだ。
しかし私は気にせず両の手をぎゅっと胸の前で握りしめ、
「わたくし! 殿下がお幸せになられますよう、全力で頑張ります!」
私の最推しトラヴィス殿下は、王子という立場上、常に危険と隣り合わせ。実はゲーム本編が始まる前に暗殺未遂事件なんてのがあって、人間不信になってしまう。
その心を癒すのがヒロインなんだけど、私としてはその悲しい事件ごと消し去ってやりたい気持ちでいっぱいだった。もしこれが夢であっても、本人を目の前にするならばヒロイン以外にも貴方の幸せを願う人間がいると知ってほしい……。
そんな気持ちで私は全力でトラヴィス様を応援するつもりで言ったんだけど、あとでユマに聞いたら「側から見たらただの熱烈な告白でしたよ」と言われた。
仮にトラヴィス様とヒロインが恋に落ちた場合も円満に、円滑に婚約を辞退することも含めて、なおかつこの先の暗殺未遂事件なんてものも未然に防いでみせるという決意を含めての言葉だったんだけど、もちろん周囲にそんなことはわかるわけもない。
トラヴィス様の後ろに控えていたお付きの侍女さんたちからあらあらウフフと微笑ましい目を向けられている気がする。
呆気に取られていたトラヴィス様が気を取り直し、照れ隠しのようにごほんと咳払いをした。
「そ…そういうことは本来、僕が先に言うべきなんだが…」
「えっ?」
推しの健やかな成長と幸福を守るという意味合いだったんだけど、なんのことやら……? 後ろに控えていた侍女さんたちの笑いが微笑みから噴き出しに変わる前に、トラヴィス様が笑った。
ウワァァ~~神降臨……! こんな綺麗に微笑む男児おる? 国宝にしたい。守りたい、この笑顔。いや王子だしもう国宝だったわ。
あまりの衝撃で天の国に召されかけたけど、柔らかでまだ小さな手に両の手を握られて現実に引き戻された。
「まぁ、いいか! これからよろしく、アルスリーナ」
これからよろしく、アルスリーナ。
これからよろしく、
これから…よろ…し…
私はトラヴィス様の言葉を反芻しながら、目の前の笑顔と、少年に握られた手を交互に交互に見た。開いた口が塞がらない。いつもは注意してくれるユマも何も言ってくれない。
固まったまま振り子人形のようになっている私に、トラヴィス様が不思議そうに首を傾げる。その間も手を握ったままだ。それどころか何故かにぎにぎと手を動かし始めている。何故だ。触り心地でもいいですか殿下。わかります子供の手ってぷにぷにで気持ちいいよね、触りたくなる気持ち、わかる。
だって殿下の手もぷにぷにだもの。ゲーム内では大剣や長槍を振り回して戦う武骨で大きな手でしたけど、今はまだ鍛錬だって始まってませんものね! 柔らかーい! 小さーい! 可愛い~!!! 好き!!!!! それはそうとその手が握っているのは自分の手だが?!?!
ていうか夢だと思うようにしてたけどめちゃくちゃしっかり手の感触あるな?! いやわかんないよモフモフの夢を見て目覚めたら犬とか猫が一緒に寝てたとかあるもん、私もぷにぷにのトラヴィス様のおててだ~って思って目覚めたらショタっ子がいつの間にか一緒に寝てるかもしれな……ンなわけあるか一人暮らしだわ。誰かいたほうが怖いわ! 甥も姪もいないしぷにぷに触感のクッションだのぬいぐるみだのも基本持ってないわ!
……考えないようにしてたけど、これってやっぱり夢じゃなくて、所謂……転生……?
視線を下げるとトラヴィス様のおててがいまだに私の手を握っている。かっわい……子供の手ってなんでこんな可愛い……? いや違うそうじゃない、いつまで握って……
「ヒェ……で、で、殿下…お、お、お手を……」
『推しにおてて握られた……握手会でもないのに……』という事実を受け取れきれず、私は蚊の鳴くような声で絞り出した。いや鼻血を噴いて倒れなかっただけでも褒めてほしい。はたまた腰を抜かしてもおかしくはないのに踏ん張っていることを褒めてくれても良い。
しかしながらトラヴィス様はもちろんユマも侍女たちも褒めてくれるわけもなく、それどころかトラヴィス様ときたら
「殿下はダメだ。トラヴィスと呼べ。敬称もなくて良い」
「ヒェッ……そそそそんな恐れ多い」
「未来の妃なんだから気にしなくて良い。敬語もいらないし、そうだ、トールと呼んでもいいぞ。僕もアルと呼ぶから」
「とととととととんでもない、あっ、もちろんわたくしのことはアルとお呼びください」
距離の詰め方陽キャか? こちとら社交界デビュー前だし前世も腐女子のオタクだしでそんなコミュ力持ち合わせてないんだけど? と言うかそれ以前に流石に自国の王子相手にそれは無理すぎる。
いくら公爵令嬢で婚約者であっても会ったその日に王子相手に愛称呼び敬語なしはハードルが高すぎる。本人は良くても周りの大人に不敬だと騒ぎ立てられでもしたら溜まったものではない。
「嫌なのか?」
「嫌なわけありません! ですが…」
「ですが?」
「ゆ……ゆっくりにしてください!!」
ゆっくりってなんだよ。どこからかツッコミが……聞こえてくるわけはないのだが、心の声にそう言われた気がした。
いやオタクは特にそう言うの慣れてないから。初見で呼びタメOKですって言われても古のオタクはちょっと受け入れられないから。徐々にでお願いしたい、徐々にで。
あと、オタクの心臓的にも推しにそんなグイグイ来られたらもたないから。アルスリーナ的にも格上の王太子殿下にそんな勢いで距離を詰められたらたまらんから。
総合して「ゆっくり仲良くなりましょう」の意を示すしかなかった。
トラヴィス様は少し不思議そうだったが、私の心からの叫びが伝わったのか、「わかった」ととりあえず了承はしてくれた。本当にわかっているのかは、分からないけれども。
さ、先が思いやられる…
幼少期ですらこの推しの破壊力だ。こんなのお年頃になって最推しイケメン姿なんて見たらどうなってしまうのだろうか。
その後のお茶会中度々昇天しそうになりかけた私は、帰宅後も将来を思いながら、一人頭を抱えることになるのだった。
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