第6話
先に言わせてもらいたいのだけど、僕は、決して運動神経は悪くない。
本格的なトレーニングを止めて一年半がたつが、それでも腹筋はまだ薄っすらと割れているし、腕の筋肉はそれなりに隆起したままだ。
長距離は苦手だが、十キロくらいのランニングなら今だって軽くできるし、百メートル走のタイムは十三秒と、そう悪くはない。
剣道部と道場で約五年間鍛えていたんだから、それも当然だ。
だけど、どういう訳か球技が絶望的に苦手だった。
サッカーに、バレーに、バスケット。野球にテニスに卓球、果てはボーリングまで、球を使った瞬間に、僕はかなりのポンコツになる。
もしかすると、僕がモテない理由の一端は、この『球技が出来ない』という部分にあるのかもしれないが――ともかく、そういう訳なので、僕は今日の体育のバスケットボールが憂鬱だったのは言うまでもなく、一応こなせるディフェンダー(ボールを殆ど扱わない)は精一杯頑張ったものの、相手からボールを奪い取った瞬間に別人レベルで使えなくなって、第一ゲームを終えた。
「あはははっ、宗介ってマジ面白いよな。ボール触るまでは普通にプレーできるのに、持った途端に運動神経悪くなるんだから。もう呪いだよな、それ」
清々しく、爽やかな声と笑顔で、嫌味なく言う頼親は、当然のごとく大活躍だった。バスケ部員なんだから、当たり前か。
「話には聞いていたけど、マジなんだな。そんなことってあるのか……」
隣で見ていた東も、そんな風に言う。
「こればっかりは僕にもよくわからないんだよ。練習しても、特訓しても、ボールを持つと急にね。ちなみに、球技に嫌な思い出とか、トラウマがある訳でもない」
そんなことを話しながら、僕は広い体育感を見渡す。
今日の体育は、二クラス合同な上に男女とも同じバスケであることから、向こうのコートでは、隣のクラスの女子が同じようにバスケのゲームをしていた。
栗花落を見たのは、百パーセント偶然だったはずだ。
ああ、栗花落鳴華だ、と思ってそのまま視線を逸らそうとしたら、まんまと目があった。
向こうもそれに気づいたようで、ふっと目を大きくしてから、小さく微笑んだ。
そして、これまた小さく胸の前で手を振ったのだ。
「…………」
僕はそれに反応しなかった。
というか、それが僕に対してだとは、到底思えなかったのだ。自分に手を振られたなどと勘違いをするほと、僕は愚かでも思い上がってもいない。
ただゆっくりと、僕は後ろを見渡した。
うん、誰もいない。
となれば、隣にいる頼親か東か。
東の可能性は……まずないな。ならば、頼親か。
「なぁ、栗花落さんらしき人が、お前に向かって手を振っているように見えるが」
頼親が言った。
「僕じゃないだろう」
「え? もしかしてオレ?」
東が言うと、
「心当たりがあるなら、可能性はゼロじゃないと思うけど、あるのか?」
頼親が問いかける。
「ん~~ないな。まったくない」
「なら違うだろ。なんで自分かもって思ったんだよ。東って案外自己肯定感強いよな」
「モテることが日常のお前と違って、せめて自分だけでも認めてやらないとやっていけないんだよ、オレたちは」
「『たち』っていうのに僕が含まれているのなら、訂正してくれ。僕はそこまで自己肯定感がつよくはない」
頼親にぼやく東に一言入れながら、
「頼親じゃないのか。この中で栗花落さんに手を振られる可能性が一番高いのは、間違いなく頼親だ」
何だか、アイドルのライブに行って、こっちの方角を向いて特別なメッセージをくれるパフォーマンスに、『今のは自分に向かってやってくれたんだ』って言い合う痛いファンみたいなやり取りを三人でしているうちに、栗花落は手を振るのをやめて、違う方を向いてしまった。
「あ、オレ次だ」
東が言って、バスケのゲームへと向かう。頼親と僕は同じチームだが、東は別のグループに分けられているのだ。
東の姿が少し遠くなったタイミングで、僕にだけ聞こえるように頼親が言う。
「振り返せばよかったのに」
「そんな滑稽な奴にはなりたくないよ」
「手を振られて振り返すのがそんなに滑稽か?」
「自分に対してではないのに振り返すのは、滑稽だろ?」
すっとぼけている訳でも、鈍いふりをしている訳でもない。
ただ僕は、可能性として低い結論を悉く排除しているだけだ。
その際、状況的にどうか、なんてことは二の次なのだ。
栗花落鳴華と僕の接点はたったの二回。
過ごした時間は三時間にも満たないし、その間で手ごたえらしきものも全く感じなかった。
ならば、僕と彼女は知人の域を越えない。
友達ですらない僕たちの間に手を振り合うなんてことが当てはまるだろうか。
答えは『否』だ。
だから僕はそれに反応しないし、それが自分に対して行われたものだなんて思わない。
そんな思い上がりや、自分に都合の良い勘違いは、いつだって僕に絶望を味わわせてくれる。
好かれることや、慕われること、信頼されることへのトライ&エラーは、すでに何度もやってきた。それでも未だに続けるほど、僕の心は、強くはないのだ。
「悲観し過ぎも、お前の言う滑稽な勘違いの一つじゃないのか」
「頼親……」
僕は続けようとしていた言葉を飲み込んだ。
彼が普段から、どれほどの努力をしているかは分からないが、少なくとも持続可能な努力で人並み以上に好かれる頼親のような人間には、僕のこの感覚はわからない。生物的に異なる種類のように、根本的に理解が出来ないことなのだろうから、仕方がない。
「……いや、なんでもない」
僕はそう言って、立ち上がった。
「どこ行くんだよ?」
「水を飲んでくる」
ゲームが行われているコート内を横目に、僕は体育館を出る。
すぐ近くの水飲み場まで行って水を飲むと、背後から気配を感じた。
「運動が苦手な体格ではないと思っていたけど、バスケットボールはあんまりなのね?」
栗花落 鳴華とその友達らしき女子が、二人連れ立ってそこにいた。
「球技全般が苦手なんだよ……絶望的にね」
「なぁに、それ」
小さく笑いながらそう言うと、何かを思いついたように隣の女子を手のひらで示す。
「彼女は、伊瀬 薫。私の小さい頃のからの友達。幼馴染よ」
紹介された少女は、「どうも」と言いいながら、朗らかに笑って会釈をする。
「話はめーかから聞いているよ」
話?
僕の話を?
栗花落から、僕のどんな話を聞いているのか疑問に思ったが、それがあまりにもネガティブなものに思えて考えるのをやめた。
「さっき、なんで無視したの?」
「え?」
「さっき。手を振ったでしょう? なのにあなたは振り返さなかった。気づいてはいたわよね?」
「それは……僕に振ってると思わなかった」
「どうして? 確か、手を振ったのを確認してからあなた、後ろを見て、両隣をみたわよね? 後ろには誰もいなくて、隣は……ええと、クラスメイトでよく一緒にいる……友達?」
「まぁ、そうだね」
「私とあなたの友達との接点はない。ならば、あなたに振ったに決まっているじゃない」
「そうか……それは、その通りだ。悪かったよ。人生で、誰かに手を振られた事なんて、なかったものだから」
僕が言うと、隣の伊瀬が「あははっ」と笑った。
「聞いた通りの変な人。面白いね、キミ」
「でしょ? 白峰君は、理屈っぽくて面倒くさい人なの」
伊瀬に続いて、栗花落が言う。
「それで、なにか僕に用事?」
栗花落は、肩を竦めるような仕草をしてから、伊瀬と顔を合わせた。
「用事というか、そうね。用事は今さっき終わったわ」
「さっき?」
「白峰君が、手を振ったのを無視したから」
「ああ、それで」
「今度からは、ちゃんと振り返してよね?」
「それはハードルが高いな」
「そうなの?」
クリクリとした目を輝かせながら、少し距離をつめてそう問いかける栗花落。
近づいた分、その綺麗な顔がよく見える。
高校に入って、化粧を始める女子もそれなりに増えると聞いたが、この感じだと彼女はすっぴんのようだ。それとも、この距離でもわからないくらいに、巧妙なナチュラルメイクをしているのだろうか。
それにしても、こうして見ると、いや、こうして見なくてもだけど、栗花落はつくづく可愛い女子だった。
「僕は陰キャでコミュ障だからね。そんな僕には、君のような人間に手を振り返すのは、難しいんだよ」
「そうかな。私は難しいとは思わないけど。こうやって……」
栗花落は実に穏やかな表情で、右手を上げる。
「それで、こうして、こうする」
手を開いて、僕に向かってひらひらと振った。
「これだけでしょ?」
そんな何でもない仕草ですら、優雅に見えて、様になる。僕はそれを、殆ど無表情で見つめていた。
無表情でも、ほんの少しだけ目を細めて、僅かにだけ口角を上げていれば、不思議と相手を不快にはしないで済む『無表情』を作れるのだ。
そこにどんな感情を隠していても、逆になんの感情も興味もなくても、その表情は、全てを飲み込んで可もなく不可もないフラットな好感度を生むことが出来る。
「あー、その顔。今、感情をオフにしたでしょ? どうしてこのタイミングで感情をオフっちゃうかな」
なかなかに鋭い。
なんだ?
概ね美人やイケメンや、クラスの話題の中心にいるような人間というものは、相手を察するスキルが著しく低いか、または自分本位な勘違いにも似た察し方をするか、はたまた自分に都合の良い解釈しかしないと思っていたが、意外だ。
「あの、いや、僕は……」
何か言い訳を考えようとしたが、咄嗟に出てこない。
「他のみんなは騙せても、私は騙せないのだよ、白峰君」
「めーかはこう見えて、人間観察得意なの。案外よく見てるんだよ。最近はなんだっけ? 推理小説読み漁ってるせいで、洞察力も上がっててさ」
なぜか本人以上に、伊瀬が得意げに言う。
あー、これ、何の時間で、何の話だ?
「その話、深掘りされると面倒だし、本気で話そうとすれば、長くなるから、今じゃない気がするんだけど……授業に戻らなくちゃいけないし」
強引に話を切り上げようとすると、
「そう? じゃあ、それは今度にするわ。それじゃ、またね」
「ばいばーい」
それぞれがそう言って、去っていく。
「今度があるのかよ」
僕は小さく呟いた。
「はぁ……いったいなんの冗談なんだ」
決して遠ざかる彼女たちには聞こえないように、更に続けて、自分に疑問を問いかける。
何に関してかと言えば、きっと一連の栗花落鳴華の言動に関してだ。
合同授業で一瞬目があえば手を振り、僕が体育館を出れば、付いてきて声をかけてくる。
突然隣のクラスの僕へと話しかけてきたのも、図書室の前で本を勧めてくれと言ったのも、すべて栗花落の気まぐれではないのか。
悪意や嫌がらせなどの意図はないようだが、ならば、尚更、気まぐれ以外の理由が見当たらないのだ。
それに、人間観察能力に優れているのなら、僕が彼女に抱いている警戒心も、とっくに察しているはずで、この前の書店巡りの対応だって、より顕著に感じたはずだ。
退屈でそっけなく、味気ない。
興味を示さず、関心を抱かない。
そんな僕の本心を、十分に分かっているはずなのに、それでも声をかけてくる理由はなんだ?
疑問が解決しない気持ちの悪さと、何か、きっとよくないものが静かに動き始めている気味の悪さを抱えながら、僕は体育館へと戻っていった。
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