スラム街


     ◇


 ノエル=ベヒッドはスラム街の出身である、と、一部の情報筋では囁かれていた。

 どの街にも、必ずと言って良いほどに、情報屋という者が存在するもの。

 彼らは、世間が握るコトを赦されない、そういう裏事情のようなものを、密かに、水面の先で取り扱う職業である。

 世間を騒がすほどの事件であれば、断片的にとはいえ、情報の一つは入ってくる。

 そういう星の数ほどの情報を集め、繋ぎ、求める答えへと辿り着く。

 調査とは、本来、そういうやり方で成り立っているのだ。


「あの情報屋のおじさん。随分と。怒っていたわね?」

「……――ノエルの影響を受けて。デクレという街そのものが『危ない場所』として認知されている。ハッキリ言って迷惑以外の何物でもないんだろう」

「こんなにも楽しい街なのに。勿体ないわ。本当に」

「だからこそ。神様はノエルを処断対象にしたんじゃないか。きっと」

「ええ。神様は本当に世界想いの方々ですもの。当たり前だわ」

「(……――ソイツは。さて。どうだろうね)」


 肯定はしない、口にも出さない、ユキトはただ静かに目を伏せていた。

 世界想い。

 果たしてそうだろうか。

 彼らは、傲慢且つ独善的であり、気まぐれで殺すべき理由と存在を選んでいる。

 ユキトには、そう、思えてならなかった。


 世界を本当に守りたいのであれば、世界に神々自身が顕在し、そのまま頭にすげれば良いだろう。

 顕在が不可能であるとするなら、神の遣いであるアリスたちを、世界の操作者に選べば良い。

 なぜ、こんな回りくどいコトを、アリスたちに強要しているのか。

 ユキトには理解が及ばない。

 それが神々の、神々たるゆえんであると言われれば、やはり無能であると言わざるを得ないのだが。


「とにかく。だ。ノエル=ベヒッドの件についてだけど」

「うんうん」


 ユキトは、そこまでを考えてから、一旦思考を現実へ戻す。

 そうだ。

 今は、神々への不信感をあらわにしている場合ではない。

 仕事を完遂する。

 神々のためではなく、アリスのために、ひいてはユキト自身のためにも。


「ノエルはほぼ間違いなくこのスラム街を根城にしている。情報屋の意見と照らし合わせれば。まず間違いないだろう」

「ふぅん。その。具体的な根拠は?」

「ノエルがこのスラム街を出身地としていて。且つ。その境遇を酷く憎んでいたからさ」


 二人が佇む、暗い、細い路地への入り口。

 即ち。

 この場所こそが、スラム街、その地域への入り口である。

 そして――。

 ノエル=ベヒッドは、そのスラム街の中で生まれ育ち、〝這い出てきた〟というのが、恐らく、この事件の真相であるのだろう。


「このデクレという都市自体が、非常に高い貧富の差を生み続ける、いわば〝格差社会〟の象徴とも言える街なんだよ。アリス」

「ふむむ……?」

「分からないかい?」

「分かるような。でも。分からないような」


 形の良い小さな顎に手を当てながら、ふむふむ、と、アリスは考え込む。

 考えようとするだけマシかな。

 ユキトは、くすりと小さく笑いながら、補足の言葉を付け加える。


「自由と文明の急発展。その裏にあるのは。取り残された人たちという陰がある」

「陰?」

「そう。陰だよ。時代に乗ることが間に合わず、また、乗り込むコトさえも許して貰えなかった。そういう人たちが少なからずこの世界にはいるのさ。アリス」

「それは。つまり。差別……?」

「とも言うね。運が悪かったとも言えるし。あるいは。先見の明がなかったとも言える」


 ともかく、と、ユキトは言葉を続けていく。


「ノエル=ベヒッドはそういう境遇の家庭に生まれ育ち、そして、その境遇であるコト自体に非常に強い憎しみを抱いていた」

「つまり――。その境遇を理由に。表の住人に復讐をしてやろう。と?」

「そういうコトだね。要約すると」


 ノエルは幼少の頃から残虐性に富んでおり、加えて、被害妄想的な側面が強かった、と、一部の情報屋から昔話を聞いている。

 生まれついて、己の不幸は、決まっていた――。

 そう考えるタイプの人間の、破滅的思考、典型的な〝壊れ方〟であった。


「馬鹿らしいわね。本当に」

「そうかい?」

「自分が不幸になったのは。他でもない。自分自身のせいだもの。他の場所に理由を求めるだなんて。力ない愚かな存在がするコトだわ」


 なるほど。

 確かに、アリスのような力を持つ存在からすれば、愚かな姿に見えるのだろう。

 だが、相手は、神々の世界の住人ではなく、一人の、一個の人間なのだ。


「アリスのように生まれついて強い力を持つ存在というのは。この世界じゃ。ごく僅かなものさ。力のない矮小な存在は――己の境遇を嘆くコトしか。できない場合だってある」

「あら――。珍しい。貴方はノエルに同情をしているの?」

「違うさ。ボクはむしろ。アリスの側に近しい存在だから」

「確かに。貴方は。生粋の権力者だものね?」

「元。だけど。ね」


 公爵という家柄に恵まれた存在。

 ユキト=フローレスという人間は、ある国において、高い権力を誇る家柄の嫡子だったハズなのだ。

 アリスという少女が現れなければ。

 今頃は。


「結局のところ。家の生まれなんて。ソレが幸せに繋がるとは思えないけどね」

「そうなの?」

「ああ。だって――。少なくともボクは幸せじゃなかったからね」


 檻のような場所だった。

 自分の、不必要な才能は、なんのために存在するのだろうか。

 そんな、自問自答を繰り返す、意味のない日々だった。


「……――今の貴方は。幸せ?」


 少し、目を伏せながら、アリスはユキトに問いかける。

 くすり。

 ユキトは笑いを交えつつ、そして、明確な意志を持って答えた。


「こんな可愛い子と旅ができるんだ。不幸な訳が。ないだろう?」

「そ、そうなの……?」


 頬を赤らめたアリス。

 ちょろいなぁ。

 ユキトは心の中で小さく微笑んだのだ。


「ほら。アリス。早くしないと置いて行くよ?」


 ユキトは、既に、細い路地の中へ足を踏み入れていた。


「あっ……。こらっ。待ちなさい」


 てってってっ、と、ユキトを追いかけるアリス。

 闇の中へ向かって、揺れる黒い影が二つ、闇をかき分けて進んでいく。

 深淵の世界へ紛れ込むように、溶け込むように、黒い二人は静かに歩みを進めていくのだった。

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