第二章 鬱

 青年は朝の支度を終え、家を出た。

「行ってきます」

 少し大きな声で言うと、庭にいた母親と、二階にいた父親がそれぞれ顔を出し、「行ってらっしゃーい」と朗らかに返してくれた。

 いつもと変わらぬ日常に、青年は少しほっとする。思わず軽く微笑み、それをごまかすために、走って学校へと向かった。


 高校が見えてきたところで、青年は走るペースを落とした。やがて、いくつか伸びた道から、同じ制服を着た学生たちがわらわらと出てきたので、青年は歩き始めた。

 歩いているうちに、青年はいつしか下を向き、今朝見た夢のことを考え始めていた。

(近頃、同じ夢ばかり見る。なんでいつも、お母さんとサオリが死ぬ夢ばかり見なきゃならないんだろう。それに、お母さんはこの世にいて、俺と一緒に住んでるっていうのに)

「わっ!」

 後ろから誰かが叫んで青年の背中を押したので、青年の考えごとは中断され、青年も驚いて「わっ」と叫んだ。

 青年が後ろを振り向くと、そこには同級生の関口クミが立っていた。

「やっほー、ケンジ」

「なんだ、クミか。脅かすなよ」

「だって、あんたがぼーっとしてるんだもん」

 青年とクミは、並んで校舎へと入っていった。三階まで上がったところで、角を曲がり、靴を履き替える。

「クミ。お前は、人が死ぬ夢って、見たことある?」

 誰もいない教室に入ったところで、青年は尋ねてみた。

「何よ、突然。あるわよ。大事な人が死ぬ夢」

 そこで、クミはじっと青年を見つめたのだが、青年はふいっと無視して黒板を見た。

「そっか」

「もう、ケンジ! あんたって、ほんと鈍感ね!」

 クミに怒鳴られ、ケンジは「え?」と彼女を見た。

「何のことだよ」

「もういい。何でもないわ」

 クミは鞄を机上に置くと、膨れて教室を出ていった。

 クミが見えなくなると、ケンは無表情で席につき、乱暴に鞄を置いた。

「何が鈍感だよ、気持ち悪い。俺に近寄るんじゃねえよ」

 ケンジは、ぼそっと呟いた。


 キーンコーン、カーンコーン。

 やがて生徒全員が集まった教室で、ホームルームが始まった。

「はーい静かにー。じゃ、出席とるぞー」

 生徒の名前が呼ばれる中、ケンジはサオリとの日々を思い出していた。

 サオリは物静かでしとやかで、ケンジの話をいつも微笑んで聞いていた。ケンジが近頃の楽しかったことを話すと、サオリは母親のように微笑んで、「そうなのね」と嬉しそうにうなずいた。愛に満ちあふれた二人の素晴らしい日々は、絶えず続いていた。あの悪夢のような日が来るまで。

 ベンチについた赤い血、ヒヤシンスに飛んだ赤い血、彼女を抱きしめた自分にべったりとついた、赤い

「ケンジ!」

 斜め後ろの席のクミが、ケンジの背中をペンケースで叩いて名を呼んだ。ケンジは驚いて、思わず立ち上がった。

「鈴本。お前は何のために学校に来てる? そんなに考えごとをしたいなら家に引きこもってろ」

 叱る担任に、ケンジは「すいません」と頭を下げた。教室の至る所から、冷たいクスクス笑いが起こった。ケンジは無表情で席についた。担任は何事もなかったかのように、出欠確認を続けた。


 キーンコーン、カーンコーン。

 一日の授業と帰りのホームルームが終わり、ケンジは鞄を持って立ち上がった。教科書を乱雑に詰め、さっさと教室を出る。

 クミも教室を出ると、ケンジが廊下の角を曲がるところだった。

 クミはケンジを呼び止めようと思ったが、角を曲がるときにケンジの険しい顔が一瞬見えたため、開きかけた口を閉じざるを得なくなった。クミは口をぎゅっと結び、鞄を持つ手に力を込めた。


 曇り空の下を独り歩きながら、ケンジは考えていた。

(サオリを殺した犯人が、絶対にいるはずだ。必ず見つけ出して、そいつを苦しめ抜いてやる)

 拳をぎゅっと握り、固く淋しく心に誓った。やがて雨が降り出したが、構わず歩いて家路を目指した。

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