真夏の陰鬱
あすなろ まどか
第一章 血
「ママー!」
三歳くらいだろうか、小さな男の子が、母を求めて家の中を走り回っていた。
「ママー!」
愛する母の元へ。
「ママ、どこにいるの?」
母の元へ、ゆこうとしていた。
「ママ?」
家のどこを探しても、母はいなかった。
その夜。父親が、泣きながら帰ってきた。
「ママが死んだ」
たった一言、父は子供に呟いて、崩れるように別室へと去っていった。
子供の足が震えだす。子供は、柔らかな笑顔で自分を抱きしめてくれた、昨日の母親を思い出した。たまらなくなり、大声で叫んだ。
「ママ!!」
子供は、真っ暗な家の中で、風呂にも入らず、夕食も食べず、たった独りで眠りについた。
十年後。
かつて母を失い、悲しみのどん底に叩き落とされた小さな男の子は、逞しい少年へと姿を変えていた。
「サオリ。のど、乾いてない?」
少年はガールフレンドとともに、自分の家の庭のベンチに座り、彼女にそう尋ねた。ベンチは、父親が造ってくれたものだ。
「少し乾いたわ。でも、大丈夫。死にそうなほどじゃないわ」
「駄目だよ。少しでも乾いてたら、飲まなくちゃ」
少年が言うと、少女は微笑んだ。
「そうね。じゃあ、買ってくるわ。すぐそこに、駄菓子屋さんがあるから」
「ああ、いいんだよ、いいんだよ。サオリは座ってて。俺が買ってくるから」
少年は言い、勢いよく駆けていった。セミがジリジリと鳴いていた。
「いつも来てくれて、ありがとうな」
少年は、サオリのぶんと自分のぶんのラムネを二本買い、駄菓子屋の主人からお釣りを貰うと、走って愛しいサオリの元へと戻った。
「サオリ。買ってきたよ。サオリの好きな」
ガシャン!!
少年は麦茶とラムネを落とし、ラムネの瓶が割れてしまった。
「サオリ」
白いベンチは、赤く染まっていた。
「サオリ…」
真っ赤な血が、紫色や青色のヒヤシンスにも飛んでいた。
「サオリ! 嫌だ、死なないで! サオリまでいなくなるなんて嫌だよ!」
少年はサオリの死体を抱きしめたため、白いワイシャツが赤く染まってしまった。そんなことは構わず、少年は愛しいサオリの体を揺さぶり続ける。
「サオリ! サオリ!!」
「嫌だ!!」
そう叫んで、青年は目を覚ました。背中にじっとりとした汗があふれ、寝間着もシーツも濡れている。
青年は息を整えながら、しばし無言で天井を見つめた。
やがて、ゆっくり、ゆっくりと、青年は身を起こした。
「また嫌な夢見ちゃった」
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