ある神官の告白

青頼花

ある神官の告白

 神官であるヘルマンが恋をしたのは、禁断の話だ。


 寝室で蝋燭の明かりを眺めながら過去を思い出す。

 ちくりと胸が痛み、わずかに切なく疼いた。

 ヘルマンはやっと指を動かすと、筆を紙に走らせていく。


 二十年も前のことだ。


 村にある旅人が立ち寄った。

 長い金髪と翡翠の瞳が印象的な、その場の景色を塗り替えてしまうような輝きを放っている男だった。


 彼はリーヌスと名乗り、すぐに私の恋心に気付いて近寄ってきた。

 優しく抱き寄せられ、部屋に連れ込まれてしまった。

 有無を言わさず衣服を剥ぎ取られ、寝台の上に縫い付けられて裸をじっくりと観察された。

 恥ずかしすぎて目を閉じてただ「助けて」と呟いていた。

 だが、誰も助けになど来ない。

 村の人間達は皆、操られていたのだ。

 リーヌスは悪人の生気を喰らって生きている、魔の者なのだと嗤った。


 それから五年間、彼は村に滞在した。


 支配した村人達により、周辺の村から悪人を生け贄として差し出され、彼は遠慮なく生気を吸い上げる。

 そして、彼は毎夜、私をまるで玩具のように扱った。

 時に他の男達を交える事もあり自尊心を砕かれた。


 それでも、私は確かに喜んでいたのだ。

 彼に恋い焦がれていたから。


 しかし、リーヌスは、成長した私を見て興味をすっかりなくして、村を去った。

 

 彼は私をさんざん弄んで棄てたのだ。


 ――そこでヘルマンは筆を止める。

 何故、こんな昔話を今更書き記しているのかというと。

 今朝、偶然見かけたのだ。

 リーヌスを。


 ヘルマンは、彼を忘れたくて神官の身となった。

 だが、身も心も魔の者によって穢れたヘルマンを、受け入れてくれる神などいない。

 それでも諦めきれず、世界中を旅して、慈悲の女神が存在する国の神官になれた。

 三十路を過ぎだばかりで神官になれたものの、他国の人間であるヘルマンは、周囲となじめず孤独であった。  


 ヘルマンはもう四十路の半ばになっていた。

 

 王に気に入られたリーヌスは、城の一室を借りてしばらく滞在するらしい。

 神官達は王に呼びつけられ、リーヌスと一言挨拶を交わしたのだ。

 その際に、ヘルマンはリーヌスの姿を見て、胸の奥にしまった筈の焦がれる気持ちを再熱させてしまった。

 視線があうと全身が痺れて硬直して、呼吸さえ忘れるところだった。

 隣にいた神官に小突かれて我に反り、どうにか乗り切ったのだが、不審に思われただろう。


 ――ちゃんとあって話したい。たった一言でもいい。

 

 ヘルマンは、王に許可をもらって、リーヌスの部屋を訪ねた。

 中から「どうぞ」と返答があり、その声だけで飛び上がりそうになるが、たえてみせた。


「失礼する」

「ああ」


 椅子に座る美青年は、あの時のまま変わらない姿の恋い焦がれた青年のまま。

 心臓の音が脳内にまで響く。


「その姿、神官かな?」

「あ、ああ。そうだ」

「何の用だ?」

「……陛下が、貴殿に街を案内するようにと言われたので」


 嘘をついてしまった。

 けれど、こうするしか彼と話す機会を得られない。

 リーヌスは薄く笑うと頷いた。


 それからヘルマンはリーヌスを連れて城下街へと繰り出した。

 

 ――あの、リーヌスとこうして歩けるなんて。


 時々盗み見る横顔はただただ美しかった。

 

 ヘルマンが頼んだ名物の肉料理に、リーヌスは満足そうに頬張っている。


 ――こうして見ると、普通の人間と変わらないのにな。


「ヘルマン」

「ん?」

「ヘルマン、か」


 にやり、とリーヌスが嗤う。


 その笑みで、彼が自分を思い出したのだと直感した。

 ヘルマンはなんともいえない気持ちで、軽く頷いた。


「……思い出したのか」

「ああ。笑えるな、その姿」


 リーヌスは食事を進めながらヘルマンに話しかける。


「若かりしあの時のお前は、美しかったのに。老いとは残酷だな」

「そうだな」

「人間は歳を取るのが残念だ」

「……好き勝手なことばかり言って」

「ん?」

「棄てられた私の気持ちなど、魔の者であるお前には分からないか」

「なんだ? まさか、お前いまだに俺を愛してるのか?」

「ち、違う!」


 思わず勢いよく立ち上がって否定の言葉を叫んだ。

 そうしなければ、心が壊れそうだったからだ。

 リーヌスは面倒だとでも言いたそうにため息をつく。


「食事がまずくなる。お前も神官なら、その執着を手放すべきではないのか」

「……そんなことは分かっている」

「なら、何が目的だ? 金か」

「ば、バカにするな!」

「なら、どうしたいんだ」


 視線が絡むが、ヘルマンからそらせる。

 今になって望む事など……ただ、何も言わなければもう二度と彼とは会えないだろう。

 ヘルマンはリーヌスの傍に立ち、瞳を伏せつつある事を口にした。


「私を、連れて行って欲しい」

「なに?」


 あんぐりと口をあけたリーヌスは、フォークを皿に落とす。

 ヘルマンはたたみかけるように言葉を発する。


「三年だけ、頼む」

「どういう意図なのかは知らないが、俺はお前を抱けないぞ」

「し、知っているそんな事はっ」

「……俺が欲情するのは、若くて美しいオスだ。どの種族でもな」


 露骨に拒絶をされると流石に胸がちくちくと痛む。

 それでも、ここで引くわけにはいかなかった。

 後三年というのは、神官であるヘルマンにとっては貴重な期間なのだ。


「まあ、お前はそこらにいるオヤジよりは綺麗だが、受け付けられないのは変わらない」


 リーヌスは酒の入ったグラスを持つと一口飲み、口の端を吊り上げた。


「それでもいいなら来い、ああ、あと俺には恋人がいるぞ」

「――っ」


 この機会を逃すわけにはいかない。

 ヘルマンは頷いていた。


 三日後には、リーヌスと共に国を出立した。


 リーヌスは潔癖なところがあり、歳をくったヘルマンにさわられるのを嫌った。

 

 いつも彼の隣には、恋人であるダークエルフの少年が連れ添っている。

 ヘルマンに対して、ことあるごとに乱暴な言葉で噛みついてきた。


「なんでリーヌス様にこんなきったないオヤジがくっついてくるんだよ!」

「口を慎めシーロ」

「だってさ~ずっとリーヌス様と二人旅だったのにい!」 

「心配しないでくれ、私はリーヌスと君が嫌がる事はしない。部屋も別々だ。それに、三年の間だけだ」

「長いってば!」

「そうかな? 君にとってもリーヌスにとっても一瞬ではないのか?」

「それは……」

「そうだな。三年くらいどうってことはない、ただし、俺の邪魔をするなよ」

「ほんとうにずっとついてくるの!?」

「……」


 ヘルマンは気持ちが沈むのを感じて、与えられた部屋で考え込んでいた。

 傍にいることはできても、触れることは叶わない。


 結局一睡もできずに考え抜いたヘルマンは、朝食時に二人に導き出した答えを告げた。


「使用人扱いでかまない」

「……それっておっさんをこき使っていいってこと?」

「あ、ああ」

「――ははっ」


 吹き出したリーヌスが、笑い続ける様子を眺めて拳を震わせる。


 仕方がない。自分はいるだけで邪魔な存在なのだから。


「いいぞ! なら、今日からお前は俺とこいつの僕ってことだな」

「し、しもべ?」

「そうだよねえ! じゃあ、さっそく買い物の荷物持ちでも頼もうかなあ」

「……」


 使用人と言った筈だが。

 

 ――リーヌスとただ、思い出が欲しい。


 そんな一心で強引に付いてきたが、三年間、こんな状態で耐えられるか不安だった。


 自ら望んだ事とはいえ、屈辱的である。


 リーヌスとシーロの二人にくっついて、世界を回る旅路にようやく慣れたのは、半月程たった頃だった。

 

「それじゃ、お休み二人とも」

「お休み~」


 いつもの様に、二人に就寝の挨拶をして自分の部屋へ向かう。

 なかなか寝付けないので書物に目を通していると、ふいに扉が叩く音がして顔を上げた。


「どなたかな?」

「俺だ」

「!」


 この声は、リーヌスだ。

 こんな時間に訪ねてくるのは珍しい。

 鍵はあけてあると告げると、静かに身を滑らせて入って来た。

 聞けば寝付けないから話し相手になれという事だ。


「別に構わないが、シーロの方が相手になれるだろう?」

「あいつは爆睡してる」

「お子様だな」


 苦笑しつつ、温めたミルクに酒を足して手渡すと一口啜る。

 実は、彼が寝付けていない夜があるのは知っていた。

 その都度気にしてはいたのだが、リーヌスは自分と会話するのが退屈な様子だったので、声をかけられずにいたのだ。


 向かいあって座り、主導権はリーヌスで話が進む。


「未だに分からないのは、何故おまえが俺に執着をするのかだ」

「そ、それは……分かるだろ、お前が私にした事を思えば」

「憎んでいるのかと思いきや、そうではないんだろ? それどころか、まだ想っているというのは……気持ち悪い奴だ」

「わざわざ夜中に、そんな話をすることはないだろう」


 こうして二人きりになれるのは良いが、嫌味をぶつけられると気分は悪い。

 あからさまに拒絶されているし、どんな反応をすればいいのか困る。


「あとな」

「ん?」


 ミルクを飲み干してリーヌスが率直に聞いてきた。


「三年という期間だ」

「……それは」


 まあ、隠す必要もない。

 ヘルマンは己に課せられた宿命を話した。

 事実だったので、淡々と告げると、目を見開いて息を飲む。

 驚いたらしいので、意外だなと思った。


「それは本当なのか」

「ああ。私の寿命は、四十八で尽きる」


 正確には、女神に命を捧げるという意味でだが。

 もともと穢れた身で、女神の慈悲で神官になれたヘルマンは、当然代償を支払う必要が生じた。

 その代償が、贄としての役目だ。


 本来は禁じられた因習だったが、ヘルマンが受け入れたので、特別に見逃されたのだった。


 だから、あと三年は心身共に浄化する意図もあり、神殿の奥でひっそりと過ごすつもりだったが……リーヌスについていく事を、特別に赦されたのだ。

 女神は、贄をいつどこにいようが関係なく見つけ出す。


 ――思えば、この男に振り回された人生だったな。


 否、勝手な恋心にか。


「同情しろとでもいうのか」

「? リーヌス、何を言って……」

「くだらん。もうお前はついてくるな!」

「!?」


 気分を害してしまったようだ。

 リーヌスが乱暴にカップを机上に置いて、足早に部屋を出て行った。


 ヘルマンは唖然と開かれたままの扉を見つめる。


 ――寿命の話はするべきではなかったな。

 

 浅い眠りから目を覚ましたヘルマンは、窓から差し込む日差しが強い事実に慌てて寝台から抜け出すと、部屋から飛び出た。


 リーヌスの部屋の扉は開けっぱなしだったので、室内を見回したが、誰も居ない。

 ――机上に走り書きがあるのを見つけて、恐る恐る手に取って目で追う。


 "お前とはここまでだ。神殿に戻れ。"


 ヘルマンはその場に膝をつき、瞳を閉じると大きく息を吐き出す。 

 ヘルマンはしばし呆然としていたが、やがて起き上がると荷物をまとめて、宿を出て行った。 


 神殿に着いた時には季節が変わっていた。


 ヘルマンに気付いた神官達が温かい部屋に連れて行ってくれる。

 事情を話すと納得してくれて、神殿の最奥の部屋をあてがわれて、贄となる日まで、自由に過ごして良いと許可を貰えた。


 そこに、珍妙な客がいて目を丸くする。

 小さな黒犬が、寝台の上に鎮座していたのだ。


「どうした、ここはお前の住処なのか?」

『違う』

「ひ!?」


 犬が喋った!?

 ヘルマンは驚きのあまりよろけて頭を壁にぶつけてしまった。

 あやうく足首をひねる所だった。


 犬がぴょんと寝台から降りてヘルマンの傍に走ってくる。

 見た目は犬そのままだ。


『我はお前の監視役として女神から遣わされた』

「な、なんだと?」

『お前が逃げ出さないか監視する為だ』

「……ん? 女神は、贄がどこにいようと命を奪いに来る筈では?」

『ば、馬鹿者! 逃げるというのは、自死しないかどうかと言うことだ!』

「ああ……そうか、確かに自死した魂は女神は奪えないと言われていたな」

『我の役目は、お前の話し相手でもあるのだ』

「話し相手?」

『そうだ。女神様の慈愛だ』


 喜べ、とふんぞり返る黒犬は凜々しい顔つきをしているのに、仕草が可愛くて思わず抱き上げて頭を撫でた。


「よしよし。可愛い犬だな」

『ま、待て! きやすくさわるな!』

「おお、すまんすまん」


 犬は尻尾を振っているのでまんざらではない様子だが、素直じゃない性格のようだ。

 ヘルマンはなんだか久しぶりに楽しい気分になり、暫く犬と語らう事に決めた。


 犬にはミルクを飲ませてやり、膝に乗せてヘルマンは酒をあおる。

 酒は限られた種類しか飲んではいけないので、飽きた味だったが、この犬と喋っていると新鮮な味のような錯覚を覚えた。


 犬はヘルマンの膝の上で、尻尾を振りながらお喋りする。


「……というわけで、私は彼がきっかけで神官になったんだ」

『……わからないなあ、何故、そんな男に惚れて……神官になるのか』

「おかしいだろうな」

『誰が良い人を見つけて、結婚して家族が欲しいとは思わなかったのか?』


 ヘルマンは顔を振る。

 そんな風に切り替えられるなら、神官になどなっていない。


「あのまま、一人で生きていくと決めたが、気が触れてしまいそうになった。危機感を覚えて制約が欲しくなったんだ」

『わざわざ神に身を捧げずとも、別の術があったのでは?』

「……救いを求めたのかもしれないな」

『その神は、お前の魂をくらうんだぞ? 何が救いだ!』

「お、おい、落ち着け!」


 膝の上で暴れる犬を両手で掴み、あやすように頭を何度も撫でてやる。

 すると、尻尾を振るのでひとまずは落ち着いた様子だ。


 ――そうか。私は、一人じゃないんだな。


「刻が来るまで……よろしく頼む」

『あ、ああ!』


 ヘルマンは久しぶりに胸に温かさを感じて、頬が緩んだ。

 その日、犬と一緒に就寝したら、ぐっすりと眠れて有りがたかった。


 いよいよ女神に召される日がやって来た。

 日の出と共に起き出したヘルマンは、隣で一緒に寝ていた筈の犬の姿がない事に驚いて、しばらく探し回ったが見つからなかった。

 お別れの挨拶ができなかったのが、とても残念だ。


 荷物の整理をしていても、不思議と実感がわいてこない。

 今日が本当に人生最後の日だなんて。

 そう考えて過ごしていると、脳裏には彼の姿が思い浮かぶ。

 ずっと彼を想って生きてきた。焦がれ続けて……。


 昼を迎えた頃、疲労感から少し仮眠を取る事にした。



 ヘルマンは色鮮やかな庭園の中にいた。

 足元の周りに花が咲き誇っている。

 天国か、と思い考え込んでいると、誰かが前から歩いてやってくるのが見えた。

 その人物に心底驚く。ずっと焦がれていた人だからだ。

 長い金髪を風に揺らし、翡翠の瞳でヘルマンを見据えている。


 リーヌスが頬を緩めて手を差し伸べてきた。


 ――ああ、これは私の夢なのだから理想とする世界なんだな。


 ヘルマンはリーヌスの手を取った。

 そのまま引き寄せられて、唇を重ねられる。


 ああやはり夢だ、とヘルマンは思った。

 歳を食った醜い男に、こんな恋人のような口づけをするはずがない。


 ゆっくりと花の上に押し倒された。

 衣服を剥ぎ取られていく過程がとてつもなく恥ずかしくて、瞳を閉じていると、頬に優しく触れられて目をうっすらと開く。


 リーヌスが優しい眼差しで見つめていた。

 ……彼が、自分を求めてくれている。

 剥きだしになった肌に柔らかく唇を落とされ、触れられるたびに心が震えて、呼吸が苦しくなり、いつの間にか涙を流していた。

 魂が喜びに震えているのがわかった。

 リーヌスの背中に腕を回し、きつく抱きつく。


 名前を呼び合いながら温もりを感じあった。


 人生最後の日に見れた夢は、ヘルマンに至上の喜びを与えてくれたのだった。



 すうっと目を開けると、身体が冷たいのを感じた。

 それに何も聞こえない。

 目の前には見覚えのある男の背中と、人の形をした、光の渦の存在が相対していた。

 男の方は金髪を振り乱し、必死に光に向かって剣で攻撃をしかけているようだった。


 ヘルマンは、男が誰なのか頭では分かっていたのだが、意識が沈んでいく現実に抗えず、とうとう世界は真っ暗になった。




 見上げた空では、雲が急激な動きで変貌を遂げている。

 まだ慣れない土地をふらつきながら歩いていく。

 不思議な話だ、とヘルマンは自分の新しい身体を改めて確認する。

 女神によって、人間の肉体から魂を取られたあの日以来、この神の世界で新しい肉体を与えられ、使者としての役目を負って生きていた。


 肌の色は褐色で、耳は少し尖っており、ダークエルフを連想させる容姿だ。

 女神はヘルマンの魂を気に入っており、初めから使者として傍で仕えさせるつもりだったらしい。

 この肉体は女神の趣味のようだが、様々な魔術を行使できる上に不老長寿なので、非常に便利だ。

 

 丘の上に設けて貰った家に帰って、寝室で大きな鏡を覗き込んだ。


 そこにはある人物が映し出される。


「リーヌス……」


 女神に頼み込み、リーヌスの様子を鏡に映し出すようにしてもらったのだ。

 少し疲労の色が濃いのが気がかりだ。


 映し出すのは、彼の外出先での行動のみにしてもらった。

 日常生活の全てを見るのは、罪悪感がわいてしまうから。


 覗き見をしている時点で言い訳にもならないが、長すぎる新たな日々に、少しの癒やしを欲してしまった結果である。


 それに、彼にはずっと振り回されてきた。

 時々、人間だった時の最後の日を思い出す。

 あの時に見た、甘い夢と彼の背中が重なり、頭痛がしてくる。


 最近のリーヌスの変化に戸惑う事が多い。

 まず、恋人であったあの少年の姿がなく、代わりにあの黒犬が隣にいるのだ。


 まさか、あの黒犬の飼い主がリーヌスだったとは……女神に聞いても、黒犬の事など知らないと言っていた。



 今となっては犬が喋っていた内容が思い出せず、悔しい限りだ。


 ――あ。


 ふいに、鏡の中のリーヌスと視線があってひどく動揺する。

 こちらの姿など見えていない筈なのに、まるで見えているかのような――。


 〝ヘルマン!〟


 ――!?


 今、声が直接聞こえたような……?


 その瞬間、目の前の鏡にヒビが入り、光輝いた。

 悲鳴を上げる暇もなく、光に包み込まれる。


 光がおさまり、そっと目をあけると……誰かが立っているのが見えた。


 金髪の翡翠の瞳の男。


「リーヌス?」

「やはり、そういう事か!」


 ヘルマンは、爆発しそうな心臓の音が、脳内に響くのを感じて床にはいつくばっていた。

 状況に思考が追いつかない。


 何故、どうして、リーヌスがここへ?

 鏡から覗き込んだ自分の存在に何故気づけた?


「ヘルマンだな?」

「え、え?」

「お前の身体は保管してある、帰るぞ」

「え?」


 ――今、なんと言った?


 伸ばされた手を見つめて、触れようとは思えない。

 顔を振って拒絶すると、強引に手首を掴まれて引っ張られる。

 ヘルマンはリーヌスの手を振り払うと、魔術を行使した。

 二人の間には結界が張られた。


 あの醜い身体に戻るなど、認められない!


「帰ってくれ! リーヌス!」


 ヘルマンは、顔を振りながら声を張り上げた。

 彼の目的が分からないし、何よりもまたあの虚しい日々を繰り返すのかと思うと、泣きそうになる。


「ヘルマン! 何故、拒絶する!?」

「お前こそ! どうしてここに来た!? 私はもう元の身体に戻るつもりはない! 帰れ!!」

「……ヘルマン、結界を解け」


 リーヌスが結界の向こうで静かに言葉を紡ぐ。


 ヘルマンは顔を背けて拳を震わせた。


 ――今更、何を言われても、私は……!


「話を聞け。俺はシーロとは別れた」

「だ、だからなんだ!」

「あの犬には、俺が宿っていたんだ!」

「……まさか、そんな」


 犬とは、あの黒い犬の事であろう。

 ヘルマンは困惑してリーヌスを見据えた。

 この男が分からない……。


「ヘルマン、俺と熱を交わしたのを覚えているか?」

「なんの話だ……?」

「あれは、夢じゃないぞ!」

「……」


 ヘルマンの脳裏には、リーヌスと身体を重ねた甘い夢が蘇っていた。


 ――あれが、現実だと?


「俺は、女神からお前を守ろうと抗ったが、無駄に終わった……でも、こうしてお前を迎えに来る事ができた……」


 すっとリーヌスが手を伸ばした瞬間、結界が砕け散り、淡い光りが霧散する。

 ヘルマンはあとずさるが、リーヌスに腰を抱かれて捕まってしまった。


「は、離せ!!」

「大人しくしてろ!」


 リーヌスがもう片方の手を宙にかざすと、空間に裂け目ができて、ヘルマンを連れて無理矢理入り込もうとする。


 ――このままでは、またあの醜い身体になってしまう!


 怯えるヘルマンの脳内に、突然声がひびく。


 “拒絶しろ!”


「女神様!」

「女神か! また邪魔を!」


 リーヌスが怒声を張り上げ、大きく開いた空間に飛び込もうとするが、ヘルマンは己の意思で拒絶し、力を使って彼から離れた。


「ヘルマン!」


 リーヌスが必死に手を伸ばして、ヘルマンの腕を掴むが、その瞬間、彼は凄まじく身体を揺さぶらせ、絶叫した。


「ぐああああっ」

「リーヌス!?」


 “お前に私の力を流し込んだ、今のお前に触れてもこやつは力を扱えず、激痛に襲われるだけだ”


「そんな……!」


 女神の言葉に愕然としたヘルマンは、リーヌスを引き剥がそうと腕を振ろうとするが、少しも動けない。


「うぐ……があっ……ヘルマンっ来い……!」

「うわっ!?」


 リーヌスは血を吐きながらヘルマンを引っ張り、空間の裂け目へと飛び込んだ。


 ――まさか、女神様の力を跳ね除けるなんて!


 “ヘルマン!”


 女神の声は遠くなり、世界が目まぐるしく変わる。

 やがて身体を何かに固定されたまま、ヘルマンは目を覚ます。


「……ん」


 身体を確認すると、己はリーヌスに抱きしめられているのだと知り、叫んだ。


「は、離せ!」

「そればかりだな……離すか」   

「……っ!?」


 さらにきつく抱きしめられてしまい、ヘルマンは胸の高鳴りに、めまいを覚えた。


「どうした、どこか痛いか?」

「……い、いや。むしろお前の方が!」


 慌てて答えたヘルマンは、我に返り、顔を背ける。

 そんなヘルマンに、リーヌスは頭を撫でてきて、楽しそうに囁いた。


「なんだ、心配してくれるのか」 

「え、そ、それは……」


 リーヌスの態度が以前とまるで違う。

 ヘルマンは戸惑いつつも、喜んでいる己にため息をついた。


 リーヌスのしつこさに折れたヘルマンは、渋々だが、元の身体に戻る事を決意した。


 リーヌスが買った町外れにある屋敷にて、二人で住んで一月経つが、あまり外出はできないヘルマンは、毎日の様に彼から甘い言葉をささやかれて……既に限界だったのだ。


 あまりのリーヌスの変わり様に、ヘルマンの魂は昇天しかけていた。


 ――一度死んだも同然なのにな。


 項垂れていると、リーヌスに腰を上げるようにと促される。


「早く地下室に行くぞ」

「……もう少しだけこのままでいたい」

「今更何をいうんだ? 俺が、元の身体のお前を抱きたいと言ったのを受け入れただろう?」

「そ、それは……」

「早くするぞ」

「ほ、本当に良いのか……? わ、わたしはあんな醜い姿をしているのに……」

「醜くなどない!」

「……ど、どうしたんだ、リーヌス?」


 声を張り上げたリーヌスから必死さを感じたヘルマンは、思わず椅子から立ち上がり、彼に歩み寄る。

 リーヌスはそっぽを向くと何事か呟いた。


「やはり分かってないか」

「リーヌス?」

「いいから来い!」

「うわ」


 何故美しい姿からわざわざ、醜い姿に戻らなければならないのだろう。

 しかも、愛する人の前で……。


 リーヌスの魔術により、元の身体に魂を戻したヘルマンは、久方ぶりの己の肉体の重さにだるさを感じた。

 ため息をつくと、何故か額をこづかれる。


「いい加減、観念しろ!」

「し、しかしだな」

「今まで使っていた身体は、後で女神に返す。寝室に来い」

「うう……」


 己の体は、リーヌスがすでに奇麗にしてくれていたのもあり、すぐさま身体を重ねる事に躊躇はないらしい。

 だが、ヘルマンは身体が重いし、頭がぼんやりして、出来れば寝ていたい。


 寝台に押し倒されて唇を塞がれる。


「んむ……」

「は……ヘルマン……」

「リーヌスう」


 ――この口づけには、勝てない……。


 愛する人との口づけは、この上ない幸福感をヘルマンに与えた。

 甘えるように背中に両腕を回したら、ふいに我に返り、唇を離す。


「ヘルマン?」

「この身体と、こんな真似をして、気持ち悪いだろう」

「気持ち悪くないぞ」

「な、なぜだ? いったい、どうしたんだ? 本当にリーヌスなのか?」


 ヘルマンの問いかけに、リーヌスは短く息を吐き出して、頬を緩めた。


「愛してるからだ」

「……っい、いまなんと?」

「俺は、お前を愛してるんだ」

「――っ」


 ――そんな馬鹿な……信じられない。


 その言葉を吐き出すのをやめたのは、リーヌスの目が、真剣そのものであったからだ。

 きつく抱きしめられて、その温もりに胸の高鳴りは最高潮となる。

 瞳を閉じてしばし抱擁に酔いしれた。


 リーヌスの気持ちが、体温を通して伝わってくる。


「……私も、貴方を愛してる……」

「ヘルマン……」

「私は、貴方を想うあまり、人生を狂わせた……」

「分かっている……これから先は、もう長くはないだろうが、ずっと傍にいる」

「……っ」


 頬をつたう涙を舌で拭われて、微笑む。

 さらけ出した肌をこすり合わせ、熱を交わす。


 ――ああ……幸せだ……!


「ヘルマン」

「リーヌス」


 何度も名を呼び合い、愛を確かめあった。


 最期を迎えるその時、リーヌスに看取られる様を思い浮かべて、ヘルマンは穏やかな気持ちになり、口元を緩めた。












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