第89話 模擬戦ってレベルじゃない

 その日マオは、着たくもなかった服を着ていた。

「うう、なんでこんな服を着なければなりませんの!」

 冒険者用の服である。

 この日はキリーやホビィと一緒に格闘術の練習を行う事になったのだ。魔法使いも接近戦に持ち込まれる事がある。その時に相手をいなせなければ、待つのは死だけだからだ。

 マオは悪魔なので翼がある。だから、空中に逃げる手もあるが、いつも場所が広いとは限らない。身に付けておくべきだとヴァルラからも念を押されたので、仕方なく従ったというわけなのだ。

 で、格闘術を習うにも、普段のドレス姿では動きづらい。というわけで、繋ぎで購入した冒険者の服の出番となったわけである。マオの憂鬱は最高潮である。

「ふっふっふっ、ホビィとご主人様が丁寧に教えるので安心するのですよ」

 ホビィの鼻息が荒い。

「ホビィ、気合い十分なのはいいですけれど、マオさんは素人なんですから手加減してあげて下さいね」

「それを言うならご主人様もなのです!」

「えー?」

 メイド服をきっちり着こなしているキリーが、ホビィに注意を促す。すると、あっさりホビィに言い返されてしまった。

 仕方のない話である。キリーはなんでも一生懸命打ち込んでしまうタイプなので、練習での手加減が難しいのだ。それが原因でマオを翌日に魔力性筋肉痛にした事を忘れているようだ。

 魔力性筋肉痛は、初期の魔法使いなら時々起こす症状である。急激に体内の魔力を動かした事で、体の筋肉が刺激されて炎症を起こしてしまうというものである。通常の筋肉痛とは違い、体内の魔力の流れを整えてやれば早ければ数時間もあれば治まる症状だ。ただ、炎症中の激痛はかなりやばい。その日のマオも起きようとして動いた途端に激痛でのたうち回ったほどである。ヴァルラがすぐに駆け付けたので事なきを得たが、キリーは簡単にお説教を食らった。……ほんの数日前の事である。

 それはそれとして、この日は格闘訓練である。

「というわけでマオさん。これから僕とホビィが手本を見せますので、見てて下さいね」

 そう言って、キリーとホビィが向かい合う。

「ホビィ、長めの詠唱をするからどこからでも攻撃して下さい」

「任せるのです」

 というわけで、棒立ちになって詠唱を始めるキリー。こういう時のための見せかけだけの派手な魔法の詠唱である。キリーは保有魔力が多すぎるので、たまにこうやって魔力を逃がさないといけない体質らしいのだ。このためだけに開発した魔法というわけである。

 だが、逃した魔力が何を引き起こすのかは何も分かっていない。これもヴァルラの立派な研究対象なのだ。

「行くなのです!」

 棒立ちして詠唱するキリーに、ホビィが襲い掛かる。

 ホビィの攻撃手段は、その飛び回る脚力を持った脚から繰り出される蹴りである。その蹴りは岩をも砕く。

 魔法使いは常に冷静であれ。キリーはヴァルラのその教えを元に、詠唱しながらでも周りの状況をよく見ている。目の前にホビィの蹴りが迫ってくるが、それを詠唱しながら難なく躱す。

「さすがご主人様なのです。いつまで躱せるのです?」

 着地をしたホビィは、切り返して再びキリーに蹴りを繰り出す。キリーが今使っている魔法はとにかく詠唱が長くて、まだ終わりそうにない。そこへホビィが機敏な動きを使って蹴りを連続で入れるが、どれもこれも躱されてしまう。

「むむむ、さすがはご主人様。これはホビィもちょっと本気を出さなければならないのです」

 あれでいて、まだ手を抜いていたらしい。マオの目の前で繰り広げられる高速の攻防。正直、今まで一回も見た事のない光景である。マオは目を白黒させてその様子を見守るしかできないのである。

「えいっ、なのです!」

「ぐふっ!」

 着地からの後ろ回し蹴りが、ようやくキリーの腰を捉えた。しかし、同時に詠唱が完了して魔法が放たれてしまった。勝負は引き分けのようである。

「ぬう、詠唱中に攻撃を当てられなくなってしまったのです。悔しいのです」

「いや、結構詠唱を邪魔されましたよ。中断にならない程度に、何度間延びさせられた事か分かりませんよ」

 話の内容のレベルが高すぎて、マオはまったく反応ができなかった。キリーとホビィは、そのマオの様子にまったく気が付かない。

「どうですか、マオさん。分かりましたか?」

 と、キリーが顔を向けたところで、ようやくマオがドン引きしているのに気が付いた。顔色が非常に悪い。

「どうしたんですか、マオさん」

 しかしながら、キリーの鈍さは健在である。まったくマオの心境に気が付かない。不思議そうな顔をして、マオを心配して顔を覗き込んだ。

「ふあっ!?」

 マオが驚いて変な声を出す。

「わっ!?」

 それに反応してキリーも驚く。まったく状況が分かっていないようである。

「どうしたんですか、マオさん。急に大きな声を出して」

「き、キリーさんがいきなり顔を覗き込むからじゃないですか! お、驚かさないで下さいまし」

 マオが胸のあたりを押さえながら、キリーから離れて身構えている。相当に驚いたようである。

「そ、そうですか。でしたら、すみませんでした」

 キリーはわけが分からないなりにも一応謝る。こういうところはメイドっぽい行動が身に付いてしまっていた。

「体調がよろしくないようなら今日の訓練は取り止めますけど、どうされますか?」

 顔色がよくなさそうなマオを見て、キリーは心配してそう進言してくる。ところが、

「だ、誰がやめるものですか。私だって強くなりたいのです。遠慮は要りませんわよ!」

 マオはあくまでやるつもりのようである。

「はぁ、そこまで仰るのでしたら……。ホビィ、手加減をお願いしますよ」

「任せてなのです!」

「僕はあえて詠唱を優先して躱していましたが、マオさんは隙があればホビィに反撃しても構いません。その方法も問いませんので」

「わ、分かりましたわ」

 というわけで、いよいよマオの武術訓練が始まったのである。

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