015 覆う影
「順調に〝眼〟へと近づいてるな。ユウキたちもいい動きをしているし……え、沢奈さん? マジ?」
同調している分身の状況に思わず声が漏れた。
スポーツジムへと向かっていた分身が、トロールに襲われていた高校の同級生を助けた。それは別にいい。向こうは覚えていないだろうが死なせずに済んだのは喜ばしいことだが、しかしなぜ――
「どうして、よりによって彼女なんだ……」
苦い思い出がよみがえる。
スマホを取り出して日付を確認した。なんの因果か、あるいは運命か。
十年前のちょうど今日……俺は彼女の顔面に拳を叩き込んだ。
当時の俺は異世界から戻ってきたばかりで、魔力を失っていたとはいえ培った戦闘技術はそのままだ。背後に立たれたその瞬間に、ほぼ反射と言ってもいい。俺は彼女の顔面を殴りつけ、鼻血が床に落ちる前に捻り倒した。
無論、停学。退学にならなかっただけマシだと今では思うが、当時は退学になっていた方がマシだと思うくらいに辛かった。それもそのはずで、彼女は当時から人気のあったグラビア女優だ。そんな彼女を容赦なくぶん殴ったのだから、俺に向けられる視線は半ば憎悪に近かった。
「……あーああーあああー、思い出したくねえええ」
とは言ったものの、分身の俺はすでに出会っていて。かつての罪滅ぼしのつもりか、残存する魔力の大半を使って慣れない治療を行なっていた。
トロールに弄ばれ死ぬ寸前だった彼女の体がゆっくりと着実に再生している姿が視える。意識は失っているようだが脈拍は正常。命に別状はないってヤツだが、そのあとが怖い。
「……俺のこと、忘れてくれているといいんだが」
特に顔。十年も経ってるし、顔つきはだいぶ変わったはずだからワンチャン勘付かれないと願いたい。
「はぁ……。……いや、起きてしまったことは仕方ない。忘れよう」
そして、目の前のことに集中しよう。
「やっぱり気持ち悪いな、おまえ」
ギョロリと眼球が動き、俺を見つめた。宙に浮かぶ巨大な〝眼〟。バランスボールよりも大きいそいつは、血色の光沢を帯びた瞳孔を静かに震わせた。魔力が虹彩に集まっている。瞳孔の奥で、何かが蠢く気配――
出産だ。〝眼〟という母胎から、今まさに何かが産み落とされようとしていた。赤茶色の細長い手が突き出し、こちらに現れようと必死にもがいている。耳障りな産声がだんだんと大きくなり、それと同時に全体の輪郭もわかるくらいに露出していく。
やがて、悍ましい猿のような顔が〝眼〟から落ちた瞬間――母胎ごと左右に分かたれた。
溢れ出る血潮が武道場を、さまざまな死骸を染めていく。
人、魔物。
前者のほとんどは大学生で、現れた〝眼〟を討つべく戦ったのだろう。しかし、低級とはいえ戦いに挑む覚悟の違う魔物に返り討ちにあったのは、現場を見ればわかる。いくら柔道や格闘技を学んでいるとはいえ、相手は本気で殺しに来ている。生半可な精神で敵うはずがない。
「とはいえ、よく戦ったよ。仇は討った。せめて、安らかに眠ってくれ」
亡骸に火が灯る。それは広がる血液を伝って死体へ燃え移り、やがて武道場はオレンジ色の熱で満たされた。
校舎の至るところで大学生たちの死体が転がっている。だから俺は、弔いを込めて校舎ごと焼き払うつもりだった。
「――っ」
突如として、校舎の半分が粉砕された。俺の十メートル先から向こうが、なにか得体の知れない触手に押し潰された。ついで、こちらに向かって轟く一二の触手。その一つひとつがそこらの一軒家より太くデカく、また先端は針のように鋭利。
俺の感知を掻い潜ってとんでもない質量のそれが、屋外に逃げた俺を追って校舎を踏み潰す。たったの三秒足らずで大学のキャンパスが瓦礫の山と化した。冷汗が背中を伝う。
「なんだこの魔物――見たことがないッ」
まるで山だった。山の中でも小さな部類に入るだろう大きさではあるが、それでも人と比べることすら烏滸がましい巨大な――巨大な、
「いや……蛸、なのか……!?」
巨体とは思えない速度で振り回される触手を回避しながら、眉根を寄せる。なぜなら、そいつに翼があったから。一対の黒い翼。いや、それだけじゃない。爪があった。蛇のような尾もある。そして今し方、六つの眼が一斉にこちらを見た。
イメージとしてはプレデターが近いだろう。エイリアンと戦ったアレだ。アレに蛸らしさと触手と翼を授けて巨大化させたような魔物。
『■■■■■―――ッッ!!』
「っ、く、そ……!」
猛威を振るう一三の触手を躱すのが精一杯だった。そして躱すごとに周囲の地形が変わっていく。かと言って受け止めきれる威力ではないし、相殺できるほどの膂力は今の俺にない。
分身があだとなった。まさか、麒麟と立て続けに一級以上の魔物が現れるなんて……!
唇を噛み、計り知れない被害を更新し続けている目前の怪物に、防戦一方な俺に腹が立つ。
なにが勇者だ。なにが異世界を救った英雄だ。
目前の怪物に手も足もでず、歯噛みすることしかできない雑魚じゃないか。
「せめて、十秒でも時間を稼げれば——」
周囲の魔力をかき集め、今なせる最大威力の術を叩き込めれば勝機はある。
だが、触手を躱すので精一杯な俺は、背を向けることもできなければ印を結ぶこともできない。
このままでは死ぬ。分身体である俺が死ぬのはいい。しかし、これが避難所に向かえば——
「ちくしょう……!」
『■■■ッ!!』
明滅を始めた蛸の瞳。急速に膨れ上がっていく魔力。殺気。
まずい、なんて言葉では片付けられない災厄が放たれる。そう確信して、しかし俺にはもはやどうすることもできなかった。
俺の背の方角には、市役所がある。
今さらアレの射程をずらすほどの時間はないし、そもそも触手が邪魔で近づけない。たとえ障害物がなくとも、魔力の少ない今の状態では、もう——
「——いや、諦めるなよ俺」
無理とかできないとか、そんな弱音はもういい。
「絶対に止めるんだよ……ッ!!」
俺が守る。そう決めたのだから。
瞬間、放たれた紅の閃光が俺を呑み込み——
「手伝ってあげようか、湊くん」
アドルフォリーゼの唄 肩メロン社長 @shionsion1226
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