010 二日目

 夜が明けて、赤い空の向こうで太陽が昇った。

 以前として、結界は展開されたまま。


 日付が変われば、明日になれば元の世界に戻る——なんていう淡い期待は、見事に裏切られた。


 

「みんなには悪いけれど、俺は今が一番落ち着くよ」



 駅前にあるタワマン。その屋上に俺はいた。

 五〇階あるこの建物の屋上が、深江市で一番高い。

 そこで俺は、眠気を払いつつ市内の状況を俯瞰していた。


 と言っても、感知や視認できるのは今いる中央区のみ。それ以上は流石に届かないから、どうなっているかは足を運ばないと確認できない。



「思った以上に生存者は多い。魔力を垂れ流して惹きつけた甲斐があったな。しかし、大量発生した屍人ゾンビは厄介だ」


 

 昨日のうちに中央区内の魔物は狩り尽くしたが、今度は死体が蠢き始めていた。


 死体の群勢が家屋をしらみ潰しに襲い、生存者を喰らい、仲間を増やして進軍している様は妙に現実味がない。まるで映画の世界……いや撮影のようにもみえる。



「屍人を斃しレベルアップを狙って人命救助ってところか。ただ、人間だったモノをやれるだけの気概があるかだが……」



 ともかく、一旦戻ろう。

 みんな起きているはずだし。


 創法と剛法の印を結び、地上から数百の鎖を出現させる。

 それらは蛇のように屍人の体に巻きつき、その場で固定した。



「これでよし」



 微動だにしない屍人の姿を確認してから、俺は自室へ転移した。

 見慣れた自分の部屋へと戻った瞬間——俺は正面から飛来した塊に押し倒された。

 


「お兄さんどこ行ってたの、心配したじゃん!」

「ご、ごめん。ちょっと外の様子を見に……あの、離れてくれません?」

「えぇ〜? いいじゃん。安心させてよ」



 俺の首筋に顔を埋めて頬擦りするノアちゃん。シャンプーの爽やかな匂いがきめ細やかな金髪から流れてきた。

 


「か、髪の毛くすぐったいんだけど」

「ノアに内緒でどっか行っちゃうからだよ」

「退いてくれません?」

「退きませーん」

「誰かに見られたらどうするんだよ」

「お兄さん、捕まっちゃうかもね」



 にひひと耳元でノアちゃんが笑った。

 塞がっている引き戸の向こうからまな板を叩く音が聞こえてくる。

 おそらく、文枝さんが朝食を用意してくれているのだろう。ほのかに味噌の匂いが漂ってきた。

 


「でも、いーんじゃない? どうせケーサツなんて機能してないんだから」

「そ、そういう問題じゃなくて、俺とノアちゃんはそういう関係じゃないから……っ」

「あ、お兄さんはそういうの気にするタイプ? でも時間なんてカンケーないよね。明日が来る保証なんてなさそうだし、今のうちにきもちーことしよーぉ?」

「ぅ……っ!?」



 隙間もないほどに密着したノアちゃんの体がさらに押し付けられる。

 豊満な胸の感触に意識が向かった瞬間、左耳にぬるっとした柔らかい感触が襲ってきた。それと同時に、熱い吐息が吹きかけられる。


 思わず声が漏れた。そんな俺の反応をおもしろがって、ノアちゃんが耳に唇を押し当てた。



「お兄さんって、シタことある?」

「ま、待って、くれ。まずいって、流石にこれは……」



 耳の穴から直接ささやかれるノアちゃんの声で、脳髄が震える。

 背筋に走る甘い電流。

 全身が熱くなってきた。



「ねーえ。ノアは、どうだと思う?」

「っ、どう……とは?」

「ケイケン済みだと思う?」



 そんな言葉と同時に舌が耳たぶに触れた。

 俺の頭の中で、考えたくもないのに勝手にイメージが膨らんでいく。

 


「すっごい遊んでるかも。ほんとはお酒だめだけど、こっそり飲んでたりしてて。大学生に誘われて、宅飲みとか」

「っ」

「酔ってきたら肩とか触れちゃって。最初はイヤがってても、だんだん頭がまわらなくなって、いっぱい触られて。気付いたら口にも下にも……」



 膨らんでいく淫らなノアちゃんの姿と、実際に感じる彼女の体温と囁き声に俺は頭がどうにかなりそうだった。


 

「どう? 興奮する? どっちだとおもう?」

「わ、わからない……」

「じゃーあ」



 そこで、ようやくノアちゃんは顔をあげた。

 蕩けるような表情。

 ほんのりと上気したノアちゃんが、ぷっくらとした桜色の唇を震わせた。



「カクニン、してみる?」

「———」


 

 薄く目を閉じて唇を近づけてくるノアちゃん。

 長く繊細なまつ毛が揺れる。

 俺は動くことも抵抗することもできず、激しく跳ね回る心臓の音を聴きながら彼女の唇が触れるのを待った。


 二人の距離がゼロに届くその瞬間、なんの前触れもなく引き戸が開かれた。



「朝食、できたけど……?」

「——っ」



 困ったように顔を崩す文枝さん。

 俺たちはしばらくの間、固まって動くことができなかった。





「ごめんなさいね。うちの子、とんでもなくスケベだから」

「うるさいなあ。べつにいいでしょ、わたしだってやる時はやるわよ」

「ノアったら、男の子みたいにエッチな漫画読み漁ってて。女子高に入ったのが悪かったのかなあ。それとも今の子はこれが普通なのかしら。どう思います、湊さん?」

「さ、さあ……どうでしょう」

「そんなこと言ったらお母さんだって——」

「二人とも、準備できました?」

「「はぁーい」」

 

 

 あれから一時間ほど経ち、現在は午前七時。

 文枝さんの朝食をいただいたのちに外へ出る準備を終えた俺たちは、一階に向かった。


 エントランスに着くと、そこには十五人の男女が集まっていた。

 全員、俺が昨日のうちに助けた人たちだ。

 

 マンションさえ出なけれ魔物に襲われることはないので、マンション内限定で自由行動を与えていた。

 


「わたしたちが最後みたい」

「あらあら。皆さん、早いですね」

「そ、そりゃあ、こんな状況だからねえ。アンタたちみたいに呑気にやってられないわよ……」



 豆腐屋のおばさんが肩をすくめる。その横で、旦那さんが煙草に火をつけた。



「こういう状況だからこそ、いつも通りに徹してるんだろ」

「あ、アンタねえ……室内でタバコはやめてって言ってるでしょう?」

「みんな、目の前で人が死んでるとこを見てんだ。平静でいられるわけがない」

「無視かい、アンタ」

「だからこそ、だ。いつも通りに振る舞ってなきゃ、壊れちまうだろうがよ」

「アンタ、この短時間で何本吸ってるんだい。肺が壊れちまうよ。正気に戻りな」



 豆腐屋の夫婦漫才に苦笑しながら、俺はノアちゃんを見た。

 旦那さんの言うとおり、平静でいられるはずがない。

 目の前で、仲のいい友達が何人も死んだのだから。

 


「な、なぁに? そんな見つめないでよ、勘違いしちゃうよ?」

「ご、ごめん」

「ま、まあいいけど。……また今夜、ね?」

「いや、そういうつもりじゃ……」

「湊さん? なんの話ですか? 私も混ぜてくださいよ」

「お母さんはいいってば。年齢考えて」



 今度はこっちの親子が俺を挟んで言い争いを始めたが、すぐに二人とも口を閉じた。

 


「きたか」



 マンションの目の前で六台のトラックが止まる。

 そこから降りてきたのは、昨日の自衛隊員、中村だった。



「お待たせしました。早速ですが皆さん、荷台に乗ってください。何が起こるかわからないので急ぎましょう」



 中村の指示で、全員が荷台に登り始めた。

 荷台にはそれぞれ三人の武装した隊員も乗っていて、周囲を警戒している。



「湊くん、道中の護衛を頼みます」

「ええ。任せてください」



 文枝親子があたふたしながら荷台に足をかけている姿を見ながら、中村の言葉に頷く。


 これから向かうのは、深江駐屯地だ。

 幼稚園、小学校、スポーツジム、市役所を経由し、生存者を回収しながら向かう。



「お兄さん、乗って!」

「湊さん、お手を」



 荷台の上からこちらに差し伸べてくる二つの手。

 少し照れくさいけれど、俺は平然を装って二人の手を掴んだ。

 


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