003 VSミノタウロス

「これは、魔王につけられた傷だ」



 指先で傷跡をなぞる。

 魔王の刺突を受け止めた時にできた傷だ。

 腹部に穴が空いて、死にかけた。



「これも魔王にやられた傷だ。これも……これは、フレデリカにつけらたキスマだ……」



 肩、胸、足、首。

 大小のさまざまな傷が浮かび上がってくる。

 その一つひとつを指でなぞるたびに、あの頃の思い出と熱が甦る。



「想いの強い傷はなかなか消えないって誰か言ってたな。それにしても消えない傷の数が多過ぎる」



 ものの数分で、俺の体は傷物になってしまった。

 さっきまでのカッコイイ筋肉美が霞む。

 しかし、鏡に映る俺の表情はとてもうれしそうだった。

 


「どういうことだよ、これ。まるで俺が全盛期に戻っているような……なんだ、停電か?」



 シュッとして少しはまともになった俺の顔をさすっていると、洗面台の電気が点滅した。

 停電?

 いや、これは――



『■■■■――ゥゥゥッッ!!』


「……この咆哮……魔物か? いやでも……」



 人間のものとは思えない叫声。

 犬や猫とはまったく違う毛色の低音だ。


 さらに、今度は人間の悲鳴と絶叫が鼓膜を揺さぶった。

 


「なんだ? 何が起きてる……!?」



 胸騒ぎがする。

 外で何かが起きているのは明白だった。


 色々と理解が追いつかない。けれど、行かなければならないという使命感のようなものに駆られて、俺は洗面所を出た。

 


「なんか着るもの……!」



 クローゼットからワイシャツと黒ズボンを引っ張り出し、急いで袖を通す。

 その間にも、けたたましく咆哮や助けを乞う声が耳に突き刺さっていた。

 ワイシャツのボタンを留めるのも焦ったくて、俺は前が開いたまま部屋を飛び出す。



「―――」



 そして、目に飛び込んできた光景に絶句する。

 五階建てのマンションの三階。

 そこから見える光景が、いつも目にする光景と違っていた。



 まず、空が赤い。

 夕焼けとか、黄昏とか、そういうきれいなものじゃない。

 もっとどす黒くて、不吉で。

 不安に苛まれるような、赤。

 

 次に視界に入ったのは、逃げ惑う人々と、ソレを追う怪物の姿。

 


『グゥぉぉぉオオおおおッ!』



 叫び、成人男性三人分ほどの分厚さを誇る棍棒を振りまわす牛の怪物。

 二メートル以上の体躯に搭載された筋肉は威圧感で満ち溢れ、漂う闘気が可視化できるほど。

 CGとかホログラムとかそんな次元のクオリティではない。

 あれは本物だ。

 そして俺は、アレを知っている。

 


「ミノタウロス……ッ」



 準二級魔獣、ミノタウロス。 

 一介の冒険者では太刀打ちできないような化物が、建築物や人を無作為に破壊しながら進軍していた。



『ゴぉぉぉォォぉぉッ!!』

「い、ぃ、や……っ!」

「……っ」



 どうして魔物がこの世界に――と。

 考えるよりもさきに体が動いていた。

 

 欄干らんかんに足を乗っけて、跳ぶ。

 一メートルほど空を飛んで、やがて襲ってくる位置エネルギーの変換に俺は絶叫した。



「ぅぅぅ――っ!」



 どうして三階という高さから跳んだんだよ、俺。

 数秒前の俺を激しく憎む。

 下から噴き上げてくる冷たい風に白目を剥きながら、俺は地面に激突した。



「……いってえッ! で、済んでマジ良かった……ッ!」



 尻から着地してほぼ無傷なことに驚きながら、俺は急いで立ち上がる。

 


「クソ、落ち着いて色々考えたいんだけどな……っ!」



 俺の視界――三十メートルほど向こう側で、一人の女性がへたり込んでいた。

 彼女が見据える先には、ミノタウロス。

 ミノタウロスもまた、標的を彼女に見据えている。


 あと十メートルも距離が縮まれば、ミノタウロスの攻撃範囲だ。

 一般人はヤツの攻撃に掠っただけでも肉片となって転がる。

 それはミノタウロス自身が証明していた。


 このままでは、彼女もヤツの後方で控える肉片と化してしまう。



「俺の目の前で好き勝手やってんじゃねえぞ、牛野郎……っ!」



 意図せず出てきた言葉が、過去の記憶と重なる。

 普段の俺なら絶対に言わない言葉。

 まるで俺の中に誰かが入ってきたかのような――



 ああ、そういえば。

 ミノタウロスの集団が町を襲っていると報せを受け向かった際にも、今と同じ言葉を吐いたっけ。


 少しだけ、若返った気分だった。

 いや、あの頃の俺を取り戻している……と言った方が正しいのか。

 それは肉体だけではなく、精神的にも。

 


『グぅお!?』

「っ!」

「……っ」



 ともかく、ミノタウロスと女性との間に割って入ることに成功した俺は、背中で棍棒を受け止めていた。



「ち、くしょ……ビビって背中で受けちまった……」

「あ、ぁ……そんな、あなたは……」

「十年も経ってるんだから、仕方ない……ってこと、で」



 いくら肉体が全盛期に戻りつつあると言っても、メンタル的な部分はやはり弱い。

 多少、肉体に引っ張られてはいるようだが、咄嗟に背を向けてしまったのはここ十年で染みついた社畜魂だったり負け犬根性だったりが俺にそうさせたに違いない。


 とはいえ、



「頑丈な体でよかったよ、ホント」



 昨日までの俺だったら確実に死んでいるであろう暴威を受けて、血を吐く程度で済んでいる。

 少しだけ頭がクラクラしたり、背中が痛かったりもあるが、今はどうでもいい。



「誰かこの状況を説明してほしいが、まあわかったこともある」

『グォォォッ!!』



 一撃で殺せなかったことにたじろいでいたのも一瞬。

 何かの間違いだと拭うようにして、再び棍棒が振るわれた。

 しかし――



「魔力が戻ってきてる」

『!?』

「魔力が、使える」



 棍棒は俺に届くことはなかった。

 俺の手前で制止し、それ以上進むことができない。

 何故か。 

 単純だ。俺の放出した魔力が、棍棒を先に通さない。



「懐かしい感覚だ。久しく、忘れていた感覚。だから気付けなかった」



 この世界に、魔力は存在しない。

 だから俺は、この世界に戻ってきてから全ての力を失った。


 元から魔力を生成する器官を持たない俺は、外から魔力を拾うことでしかソレを扱うことができなかった。


 だから向こうの世界に召喚されてからは、まず魔力を感知する修行から始めたのだが、今はそんなことを思い出している場合じゃない。


 ともかく、この世界に突如として流れ出した魔力を、無意識に俺の体が吸収していた。そして吸収した魔力が俺の肉体に補充され、どういうわけか全盛期の力を取り戻していると仮定する。



「まあつまり、何が言いたいかというとだな」

『ぐ、グォォォォォォォッ!?』

「魔力があれば、おまえ程度に苦戦なんてしない」



 印を結ぶ必要もない。

 拳を握りしめた俺は、棍棒ごとミノタウロスを打ち抜いた。

 

 

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