002 追いついた過去

 忘れる 

 一つ奪うたびに 息を殺すたびに

 私は忘れる なぜ 戦うの?

 その理由すらも 今は白



* * *



 朝の九時に出勤して、退勤は二十三時。計十四時間の労働。


 休憩は十五分。昼飯をたべたらすぐに工場へ戻り、パッキング作業に入る。

 従業員は五人。俺より一つ年上の社長と出張でほぼいない専務。パートのおばさんが二人。そして社員である俺。



みなとくん、つぎ二百八十個ね」

「はい」

「ダンボールそこに置いてあるから。あとシールもこれ使って」

「わかりました」



 社員といっても、三ヶ月前に雇ってもらったばかりだから、一番下っ端だ。

 パートのおばちゃんに言われるがままに、俺は商品を箱に詰めていく。

 ダンボールに入れて、運送会社の伝票を貼って、また詰める作業。

 これを朝から晩まで繰り返す。



「じゃあ、あとはよろしくね~」

「お疲れ様でした」


 

 十八時には全員帰り、工場に残った俺はひたすら同じ作業を繰り返す。

 そのうち二階にある事務所から足音が降りてきて、



「おれも帰るから、あとよろしく」



 無愛想な社長がドアの隙間からそれだけ告げて帰っていく。

 とうとう一人になった俺は、無音のなか、凝り固まった肩をまわす。

 


「あと、三時間か……」



 忙しいのは今だけ。大口の発注が来たから、今だけこんなに忙しいの。

 毎日のようにおばさんが繰り返す言葉だ。


 パートは納品が危うくとも時間通りに帰る。けれど、社員である俺はそうじゃない。

 そうじゃないらしい。


 納品日を守るのは当然のことなのだけれど、どうして俺一人が……と思ってしまうのは、俺がまだ子供だからだろうか。



「……もう二十六なんだけどな」



 作業音に混じって、辟易とした俺の声が響いた。

 なんとか二十三時過ぎにノルマを仕上げ、タイムカードを切る。

 工場と事務所の鍵を閉めて、俺は外に出た。

 

 昼間は喧騒に満ち溢れた国道も、この時間帯になると救急車しか走らない。

 赤く不気味なサイレンをやり過ごして、横断歩道を渡る。

 ほぼ同じタイミングで、反対の歩道にいた若い男も足を前に出した。



「―――」

「………」



 季節は秋。十一月。

 肌寒くなってきた季節で、夜になればいっそう寒さが強まるというのに。

 向かいからやってくるその男は、Tシャツに黒ズボンという格好だった。


 ポケットに手を突っ込みながら、猫背の彼はこの冷えた空気が心底心地よいとでも言いたげに鼻歌を口ずさんでいる。

 

 あまりジロジロ見るのも悪いから、俺は視線を下にずらして、



「久しぶりだね、百女鬼どうめきみなとくん」

「え――?」



 すれ違った直後に耳元でそう囁かれ、俺は弾かれたように振り返る。

 彼は、何事もなかったかのように横断歩道を渡り終えていた。

 


「ちょ、ちょっと待ってくれ、アンタは……」

「心配しなくてもまたすぐ会えるよ。だって僕たち、友達じゃないか」



 信号機の真下。点滅を繰り返す青の下で、男はわずかに首をこちらに向けた。

 その顔に、表情に、笑みに。

 俺は、見覚えがあった。



「おまえ……まさか、宇合うまかい……なのか?」



 絞り出した声に、男は口角を歪め――瞬間、クラクションとハイビームが俺に突き刺さる。


 信号の色はすでに赤。横断歩道のど真ん中で棒立ちになっていた俺は、慌てて歩道まで走った。走って、振り返った。


 赤い車が走り去る。

 向かいの歩道には、さっきまでいたはずの男の姿はどこにもなかった。



「……宇合」



 十年も口に出していなかった名前。

 中学時代の友人。普通の中でたったひとり異質に輝いていた少年の記憶がよみがえる。

 ただ、彼は。

 八幡裏宇合やはたりうまかいという男は。



「…………いよいよ、疲れで幻覚まで見ちまったか」



 止まっていた足を動かす。

 いま見たのは、幻だ。

 疲労とストレスが俺に見せた、幻想。

 なぜなら、彼は。

 とうの昔に死んでいるから。


 



 そんな幻を見たからだろうか。

 家に着くなり意識が朦朧としてきて、シャワーを浴びるのも辛くてベッドに倒れ込んだ。

 そしてすぐに、ヤツが現れた。

 宇合だ。

 ただ、さっき見た幻とはちがい、幾分か若い。

 あれが大人になった姿なら、いま目の前でノートに向かっている彼は、高校時代の姿。

 


 病弱そうな蒼白の肌。やつれた顔。灰色の長い髪。

 真剣な表情で鉛筆をノートに走らせ、たまにニヤついたり、よだれを拭う姿ははっきりいって気味が悪い。


 しかも教室のど真ん中で、嫌に目立つ容姿もあいまって薄気味悪がられ、誰も近づこうとしなかった。


 ただ、俺だけはそんな彼が好きだった。

 何故なら……



「……なんで、だっけ」



 気がつくと目が覚めていて、体がとても軽かった。


 スッキリした……というより、カフェインが効いてきた時のような万能感、とでも言えばいいだろうか。


 よくわからないが、昨日まで寝ても取れなかった疲労がなくなっていた。

 呼吸が苦しくない。

 清々しい気分で迎える朝に、俺は感動すらしていた。

 ただ。

 閉め忘れていたカーテンの向こう側が、やけに騒がしい。

 


「サイレンが多いな。それにこの声は一階の佐藤さん? なんか怯えてるな。……なんで聞こえるんだ?」



 サイレンはともかく、二つ下に住む大家さんの声がかすかにだが聞こえてくる。

 それに……



「……視界がボヤけてない」



 歳をとるのと同時に、悪くなっていた視力。

 十メートル先の文字すらボヤけてなんとなくしか読めないくらいの視力だったはずなのに、今では十五メートルほど離れた壁に張ってあるカレンダーの六曜が視える。


 

「一晩寝てすっきりしすぎだろ、俺。そもそもいま何時――十時、だと……?!」


 

 スマホのロック画面を見て戦慄する。

 時刻、十時二十分。

 俺の出勤時間は、九時だ。 

 一時間二十分の遅刻。

 

 嘘だ。

 これは何かの間違いだ。

 きっとそうに違いないと、涙が溢れそうになるのを堪えてスマホのロック画面をもう一度開く。


 

「やっぱり遅刻だ……ッ!」



 絶望。

 遅刻は、社会人にあるまじき愚鈍な行い。

 時間を守れないヤツに生きる資格はないとまで言われるほどだ。

 この日本という国は、時間にうるさい。

 特に年齢を積み重ねた大人たちは時間にシビアで、敬われて当然だとすら思っている。



「あー……変なこと考えてないで急いで準備しないと……」



 心の中で溢れてくる文句だったり言い訳だったりを一掃して、俺は服を脱いだ。

 とりあえずシャワーを浴びよう。

 どうせ遅刻なんだ。


 一分でも早く出勤しないと! なんていう社畜魂は、不思議と湧かなかった。あるいは枯れてしまったのか。思ったほどメンタルにダメージはない。


 クビになったらなったらで別にいいや。

 どうせ十年後には潰れてる会社だ。弱小企業に骨を埋めるつもりはない。

 


「あれ……引き締まってる」



 脳内でカッコよく社長にマウントをとっていた俺は、洗面所の鏡を見て目を疑う。

 


「久々に腹筋が見えてる。それに胸も、肩も膨らんでるような……」



 まるで枯渇した筋肉に栄養が張り巡らされたかのような。

 随分と分解され、だらしない体に成り果ててしまった俺の肉体が、何故か全盛期に戻りつつあった。


 

「なんだ、何が起きてる? ちょっと寝たからってこんなことあり得るのか?」



 蛇口を捻り、熱いシャワーを浴びながら体を見渡す。

 まだ夢を見ている、というわけでもなさそうだった。

 頭から注がれるお湯の温かさと、手のひらから伝わってくる筋肉と肌の感触が、これは現実だと言っていいる。


 シャワーを止め、バスタオルで水滴を拭った後に、もう一度鏡を見る。

 きれいな逆三角形。

 一種理想と言ってもいいくらいに鍛えられたその肉体に、うっすらと何かが浮かび上がってくる。

 


「これは……この、傷は……」



 腹筋の上に浮かび上がった傷跡。脳裏で、痛みと共に記憶がよみがえる。

 久しい記憶だった。

 苦々しくもあり、心躍る記憶。

 血液が沸くような感覚が甦った。



「これは、魔王につけられた傷だ」


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