第四十五話
どのくらい歩いたのだろう、万松柏の意識はまた暗闇の中に落ちていた。
しかし、今は違った――暗闇の中だと気付いているのだ。そして指一本動かせない身体に誰かが体重を預けている。
ふと、その誰かが身じろぎし、ふわりと匂いが立ち昇った。瞼は持ち上がらなくとも、間違えることのない匂いで誰がいるのかはすぐに分かった。万松柏はほっと胸を撫で下ろすと、再び暗闇に身を預けることにした。
次に気が付いたときにも、その匂いはした。しかも空気に華やかな花の香りが混ざっている。
布団に置かれた万松柏の手を、温かく逞しい手がそっと握る。万松柏はその手を握り返したが、予想以上に力が入らず、ぴくりと痙攣しただけのようになってしまった。
それでも、枕元にいる男を喜ばせるには十分だったらしい。ようやく目を開けた万松柏の前には、愁眉をくしゃりと歪める無忌の顔があった。
無忌が嗚咽を漏らし、万松柏の上にくずおれる。万松柏は思わず笑いをこぼすと、握られたままの手を今度はちゃんと握り返した。
やがて無忌はべとべとに濡れた手を万松柏の頬に添え、愛おしそうに覗き込んできた。金色の双眸は溢れんばかりの喜びと安堵をたたえ、言葉こそ発さないが万松柏の生還を心から祝福しているのがよく分かった。
「やっぱり、お前が俺を救ってくれたんだな」
万松柏は掠れた声で笑いかけた。無忌は何も言わずに破顔すると、静かに唇を重ね合わせた。
「……おい、何か言ってくれよ。あれだけやったのに吻だけなんて水臭いぞ」
唇が離れた隙に言ってやると、無忌は困ったように眉を下げ、万松柏の耳元でそっとささやいた。
「やっと、巡り会えた」
そのあとは上へ下への大騒ぎだった。無忌の泣き声を聞きつけた仙師が万松柏の回復を目撃し、暁晨子たちのもとへ飛んで報告に行ったのだ。
その結果、万松柏は白凰仙府の仲間と浄蓮仙府の仙師の両方に取り囲まれてしまった。浄蓮仙府の掌門の桃千姑に延々と脈診され、体調を聞かれ、霊薬を飲まされ、全身の経絡を針で刺され、ようやく人の波が退いたときには夜がとっぷり更けていた。
「まったく、病人扱いするくせに休ませちゃくれないのかよ」
誰もいなくなった部屋に一人残された万松柏はため息混じりにぶうたれた。
「仕方あるまい。皆がそれだけお前の身を案じていたということだ」
すると、暗闇の中から返事があった――寝台の脇の椅子で一対の金色の目が光り、そこに人がいることを示している。晴れて魔偶の身から解放されたというのに、無忌は闇に溶け込む装いを変えてなかったのだ。おまけに瞳の色が戻らなかったせいで、暗闇から万松柏を見守る無忌の存在に気付かず部屋に入ってしまった世話係の仙師が闇に浮かぶ金色の目を見て何人も腰を抜かしているという話も聞いた。
「今は休め。何も案ずることはない」
どうやら無忌本人には、仙府に迷惑をかけているという自覚は全くないらしい――これも聞いた話だが、無忌はどうやら無理を押し通す形でずっと万松柏の枕元に付き添っているらしい。実際に交戦したことのある白凰仙府の仙師たちが中心となって猛抗議したそうなのだが、無忌があまりに堂々と居座ってぴくりとも動かず、また居座るだけで何もしないことから、桃千姑と暁晨子が何も言わなくなったのだ。掌門二人が黙認したとあっては異を唱えることもできず、以来仙師たちは遠巻きに、おっかなびっくり無忌を見張っているらしい。
とはいえ、無忌が常に隣にいることは万松柏にとって何よりも心強いことだった。目が覚めれば話し相手になってくれるし、必要なものも世話係の仙師に取り次いでくれる。療養生活を完全に把握しているらしいことには少し驚いたが、万松柏はそれも無忌らしいと思い直して甘えることに決めた。これはこれで悪くない、万松柏はそう思っていた――何より、魔界で無忌に匿われ、こっそり暮らしていた頃が思い出されて懐かしい気持ちになるのだ。
***
万松柏が戦いの顛末を聞いたのは、一日中起きていられるまでに体力が戻ってからのことだった。
その実、万松柏が知らせる前から浄蓮仙府は臨戦態勢に入っていた。万松柏が放った救命弾が飛んできたときには、すでに救援に向かう仙師たちが出発していたのだという。
救命弾に反応したのは沈萍だった。骨折が治っていないために仙府での待機を命じられていたが、救命弾を放ったのが万松柏だと察するなり、制止も聞かずに飛び出していったのだ。万松柏とともに例の魔偶がいるに違いないと息巻く沈萍はしかし、止めようとして対岸まで来てしまった他の仙師たちとともに、異様な光景に遭遇した。
そこにはたしかに、沈萍の腕を折ったあの魔偶がいた。が、魔界の指揮官と思しき男を鬼のような形相で追い回し、指揮官の方は方術でどうにか耐えているといった状況だったのだ。唖然と立ち尽くす沈萍たちは、戦いから少し離れたところに血まみれで倒れている万松柏と、万松柏よりもひどい出血で倒れているもう一人の青年を見つけたという。
万松柏はこれを聞いたとき、陰陽倒転法が成功したのだとすぐに感じた。おそらく無忌が襲っていたのは閻狼摩で、先に倒れていたのは閻南天だろう――無忌の体内の陰陽が逆転し、魔丹の支配から逃れられたのでなければ、絶対服従が本能の魔偶が主と交戦するなどあり得ない。
とはいえ沈萍たちは閻兄弟の顔を知っているわけではない。沈萍たちが見たものは魔界の内輪もめに過ぎず、閻狼摩の首が切り飛ばされて決着がつく瞬間に過ぎなかった。
問題はそのあとだった。閻狼摩を討ち取った無忌が大慌てで倒れている万松柏に駆け寄ったのだ。ついさっきまで修羅のごとき戦いを見せていた魔偶が、今度は狂ったように人間を介抱している――何が何やら分からないまま状況を見守っていた沈萍たちだが、万松柏が魔偶に何かされるのではとようやく我に返り、慌てて二人に駆け寄った。
すると今度は、沈萍たちを仙師と認めた無忌から万松柏を救ってほしいと懇願されたというのだ。まだ息がある、治療してくれと涙を流して訴える魔偶にますますわけが分からなくなりながらも、とにかく仙師たる万松柏が瀕死の重傷を負っているのは間違いないと、沈萍はすぐさま居合わせた仙師に指示を出し、万松柏を連れて帰ったというわけだ。
「あなたのそばに倒れていた男はとうの昔にこと切れていました。争った痕跡も首筋の傷を見るに、おそらく先にあの魔偶に斬られて即死だったのではないかと」
沈萍は腕の怪我もとうに治り、相変わらずの渋面で説教じみた回想を語ってくれた。心なしか白髪が増えているように見えたのは、きっとそのあとの騒動と気苦労のせいなのだろう。
一方で町に救援に向かった仙師たちが見たものは、それまで蟻の群れのように押し寄せていた魔偶が突然砂と崩れていく光景だった。それまで戦っていた敵がみるみるうちに消えていくさまに誰もが呆然とし、何が起きたのかと困惑していたという。
突然消えた魔偶に首領格らしき二人の死人、瀕死の万松柏と万松柏にぴたりと付いて離れない魔鋒――そこからは浄蓮仙府じゅうが大混乱に陥った。暁晨子が閻狼摩を覚えていたことでようやく、首領たる閻狼摩の死とともに彼の操る軍が丸ごと消滅したという結論に至ったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます