第四十四話
怒号と悲鳴が聞こえた。
戦いのような音、雄叫びのような叫び声、そして断末魔。全てが止んだと思うと、足早に近付いてくる足音がした。
「……柏、松柏! 万松柏!」
動かない身体を誰かが抱き起こし、必死に名前を呼んでいる。ぽた、ぽたと熱いものが顔に触れ、万松柏はうっすらと目を開けた。
「松柏……」
ぼやけた視界の中、黒髪に金色の瞳を持つ男が己を見下ろしている。顔は汗と血と涙で汚れ、唇の両端が真っ赤に切れていたが、その優しく誠実な眼差しは万松柏のよく知るものだった。
「……師、兄……」
思い浮かんだ言葉を口にしたが、掠れた息しか出てこない。それでも無忌は万松柏をしっかりと抱き寄せ、大丈夫だと繰り返し話しかけた。
――そうか。成功したのか。
万松柏は薄れゆく意識の中でそう悟った。
(良かった……)
そう思った途端、胸の奥に温かい感情が湧いてきた。全身の感覚が痺れているのに、安堵だけはいやにはっきりと感じられる。もう思い残すことはない、万松柏は心からそう感じていた。無忌が何か言っているが、無忌の声だということしか聞き分けられないほどに万松柏は弱っていた。
(だけど、惜しいな。せっかく元に戻せたのに、俺はこいつとはいられない)
視界は再びぼやけ、もう無忌の顔も分からない。それなのに、両目に涙がいっぱいに浮かんでいることはよく分かる。
(……でも、悪くはないか。望遠春の分の恩まで返せたんだから、よくやったもんだ……)
意識が再び薄れ、暗闇に飲まれていく。力の入らない口角がわずかに持ち上がったような気がしたが、万松柏はそれ以上のことは分からなかった。
***
ふと気が付くと、万松柏は民家の前に立っていた。質素な柵で囲われた中に小屋が一軒、柵が途切れた入り口らしき部分には両端に松の木と柏の木が植えられている。
生家だ、そう気付いたときには足が動いていた。門の敷居をまたぎ、息せき切って駆け込むと、小屋の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
万松柏は呆然と立ち尽くしていた。これは果たして夢なのか、それともとうの昔に旅立ったであろう両親が迎えに来てくれたのか――進みあぐねていると、小屋の戸が開いて若い男が出てきた。
万松柏はどきりとした。男のはっきりした目元と眉が自分とそっくりだったのだ。
「父さん……?」
思わず言葉が口からこぼれた。しかし男はそれに気付いていないのか、驚いたように顔を輝かせて万松柏に深々と頭を下げた。
「仙人様! 来られていたのですね!」
万松柏は一瞬ぽかんとしてしまった。今まで仙師としての活躍を感謝されたことこそあれ、姿を見せただけで敬われることはほとんどなかったのだ。
「気が付かずに申し訳ございません、松柏がちょうどぐずってしまいまして……そうだ、せっかくですから顔だけでも見てやってはくれませんか? 妻も喜ぶと思いますし、何より今日はあの子の一歳の誕生日なのですよ! 仙人様のおかげであの子が生まれてちょうど一年が経ったのです」
「……分かった」
万松柏は乾いた喉から返事を絞り出した。昔の夢は嫌というほど見てきたが、これはどうにも居心地が悪い。
しかし、男はお構いなしに小屋に万松柏を招き入れた。頭上すれすれの戸をくぐった中は、質素な竃、古ぼけた卓と椅子、古物市でしか見たことがないような箪笥、それに年季物の牀ひとつでほとんどの空間が埋まっている。赤ん坊用と思しき小さな寝台だけがまだ新しく、この貧しい家の中で唯一豪華と言い表せるものだった――この寝台に寝かされる子がどれだけ愛されているかを思い知らされた気がして、万松柏は慌てて上を向いた。
男の妻は牀の上に座って赤ん坊をあやしていた。万松柏を見てぱっと笑う顔がまた自身にそっくりだ。
「仙人様……! ろくなお出迎えもできず申し訳ありません、ちょうどこの子が泣き出してしまいまして……」
ぺこぺこと頭を下げる夫婦に、万松柏は気にしていないと伝えた。二人は揃って胸を撫で下ろし、そんなことはお構いなしに赤子が母親の腕の中で泣き叫ぶ。
「はいはい、大丈夫、大丈夫……ちょっとあなた、ぼんやりしてないで仙人様にお茶を出して差し上げて!」
「今やろうとしてるだろ! やかん持ってるのが見えねえのかよ? ……ああ、仙人様、どうぞお掛けになってお待ちください。今茶を沸かしますので」
赤ん坊を抱いたまま動けない妻に代わって、夫の方がせわしなく動き回る。口々に小言を言い合っているものの、二人の間には悪意や嫌悪は欠片も感じられない。むしろこれが普段の彼らなのだと万松柏は思った。それに、くたびれた着物の二人を見ていると、何となく伏魔師をしていた自分が思い出される。
「ほーら、泣かない、泣かない……今日は
母親があやすうちに赤ん坊は泣き止み、あぶあぶと意味不明な声を上げ始めた。それがまた愛らしいのだろう、母親は満面の笑みで赤ん坊に応えている。
「そうだ、松柏を仙人様に会わせてやれよ。だから泣いてたのかもしれないぜ?」
ふと、竃から夫が声をかけた。妻は「そうね」と答え、赤ん坊を抱いたまま椅子を引いて万松柏の隣に腰かける。
「仙人様、どうぞ松柏を抱いてやってくださいな」
万松柏は言われるままに差し出された赤子を受け取った。ややくすんだ萌黄色の着物を着せられた赤ん坊は、くるりとまん丸い目で万松柏をじっと見上げてきゃあと笑い声を上げた。
「嬉しいね~、小松柏。仙人様好きだねえ。仙人様も、お誕生日おめでとうって来てくださったのよ。ありがとうしないとねえ」
母親が高い声で赤子に応える。無邪気に笑う赤ん坊を見ているうちに、万松柏も次第に幸せな気分になってきた。
同時に、ここにはいられないとも思った。この赤ん坊は、己の辿る道筋はおろか、経てきたものも何も知らない。ならば尚更、この一家には万松柏の入り込む隙間がなかった。無知であることで団らんと幸福がもたらされるなら、今はそれに任せるべきだ。
「……そうか。一歳か」
万松柏はぽつりと呟いた。途端に夫婦が顔色を変え、仙人様の次の言葉に全身全霊を傾ける。
「この子は、たくさんの人々に愛されている。これから出会う人々にも、これまでに出会った人々にも。……やがてあなた方の手を離れても、この子の行く末は最後まで守られています」
万松柏は心に浮かんだ言葉をそのまま伝えた。夫婦が腑に落ちない表情で顔を見合わせたが、万松柏は気にせず赤ん坊を妻の腕に返した。
「私はもう行かねばなりません。お二人の歓待に感謝します。……それと、松柏のお誕生日おめでとうございます。今日という日に来られて本当に良かった」
夫婦は呆然と目を瞬いていたが、やがて二人して大慌てで立ち上がった。戸口を開け、松と柏の門までいそいそと万松柏を案内すると、二人はまたぺこぺこと頭を下げて慇懃に礼を述べる。
「松柏と亀鶴はその齢千年、か」
万松柏は門代わりの気を見つめ、ぽつりと独り言ちた。行かねばならない、発たねばならないという思いが今や全身をせっついている。
「……あの、仙人様。また、松柏に会いに来てやってはくれませんか?」
妻がおずおずと口を開いた。万松柏は心からの笑みを浮かべると、
「縁がそうと命じれば、私はいつでもここに来ます。その時が来れば、またいずれ」
と告げて、小屋と家族に背を向けた。
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