第四十三話
時が止まったような沈黙の中、無忌の荒い息遣いだけが響いている。万松柏は目を固く閉じていたが、覚悟した終わりは一向に訪れない。
おそるおそる目を開けると、無忌が鬼神もかくやという形相で万松柏を睨んでいた。首筋にぴたりと当てられた剣は微動だにしないが、殺意に彩られた金色の瞳が戸惑いの色をわずかに帯びていた。
「……無忌……?」
万松柏が絞り出すように呼びかけると、無忌は何かを思い出したようにハッと目を見開いた。が、すぐにまた眉をひそめ、深く考え込むように万松柏を睨む。封印された記憶の奥底から万松柏の姿を探し出そうとしているようだと万松柏は思った――ここで手を止めたということは、まだ無忌を取り戻せるのではないか。「魔鋒」の中に眠る遼無忌の自我が、彼の中で目覚めようとしているのではないか。
「何故、俺を殺さない?」
万松柏が問いかけると、無忌は何かに抗うように大きくかぶりを振った。唸り声とともに剣が強く押し当てられ、鋭い痛みとともに本能的な警戒心が走る。
「無忌、分かるんだろう? 俺が誰か……俺がお前にとってどんな存在か、まだ覚えているんだろう?」
万松柏はたたみかけながらも素早く周囲を見回した――思った通り、遠くの屋根に閻狼摩が烏のように立ち尽くしている。必死の形相で印を結んでいるあたり、どうやら無忌の支配を弱めさせまいとしているのだろう。
一方の無忌は冷や汗を流し、いよいよ苦悶の表情を浮かべ始めた。歯が欠けそうなほどきつく食いしばり、目をきつく閉じて何度もかぶりを振っている――首に当てられた剣は小刻みに震え、万松柏を壁に縫い留めていた手もいつの間にか外れて黒髪を鷲掴みにしていた。そして、震える息とともに呟かれた言葉の中に「違う」と聞こえたのを万松柏は聞き逃さなかった。
「違う? 何が違うんだ? 何も違わないだろう……お前が今思っていることは何も違わない。俺は、」
「違う!」
無忌が唐突に声を荒げた。
「違う……違う、違う、違う! お前は違う……お前は……!」
「いいや。違わない」
胸の奥底から絞り出すような慟哭の声を、万松柏は静かに遮った。大切な無忌が哀れなほどにかき乱されているというのに、万松柏の心は不思議と凪いでいる。
「何も違わない……俺は、あなたの望遠春だ。師兄」
そう告げた刹那、無忌が涙の滲む目をハッと見開いた。力の抜けた手から剣が落ち、澄んだ音を立てて地面にぶつかる。
万松柏はその隙を見逃さなかった――痛みはあるが右手は動く。指を繰って桃の樹皮でできた呪符を取り出すと、万松柏は無忌の胸の中心にそれを押し当てた。
「少し我慢していてくれ」
小声で告げ、軽く無忌の体を突き飛ばす。されるがままに後ずさり、ぺたんと座り込んだ無忌に意識を集め、万松柏は印を組んだ。
ようやく十分な呼吸を取り戻した肺にもう一度息を吸い込み、限界が近い心身を奮い立たせる。精神を統一し、内功の巡りを確かめると、万松柏は朗々と詠唱を始めた。
「万物は陰陽に
頭を垂れた無忌が結界に覆われ始める。バチン、と何かが弾かれる音がしたが、万松柏は閻狼摩の方にちらりと目線を向けるにとどめ、詠唱を続けた。
「森羅万象陰陽に由れど、その源は太極
桃の木には
詠唱とともに印を組み替え、胸の前で構えてさらに意識を集中させる。今や丹田から巡る気の流れは濁流のように激しくなっており、少しでも油断すれば途端に反噬を引き起こすところまで来ている。調息に気を付け、限界を訴える身体に心の中で喝を入れて、万松柏は術を続けた。もう止めるという選択肢は残っていない。成功させて無忌を取り戻すか、失敗して最悪の結末を迎えるか、たどれる道は二つにひとつだ。
やがて、結界の中の無忌の姿が揺らぎ始めた。無忌の身体から白と黒が入り混じった影のようなものが浮き出てくる。万松柏がさらに印を組み替えると、影は万松柏の動きに応じて位置を変え、もう一度無忌の体内へと沈んでいった。
影が完全に消え、結界そのものが不安定に揺らいでいる。術の完成が近いのだ――あとはこの結界を安全に消滅させれば陰陽倒転法は完成する。あと一歩、そう思って全神経を集中させたそのときだった。
ドッ、と後ろから突き飛ばされるような衝撃があった。にわかに生じた痛みがじわじわと全身に広がっていき、鉄錆の臭いが鼻を突く。
目線を下げれば、白い胸元に赤い染みがじわじわと広がっているところだった。その中心にはぎらりと光る刃がのぞいている。
「こんな大がかりな方術を使うなら、護衛ぐらい用意しなよ」
呆れと嘲りの入り混じった声が背後でする。閻南天だ、そう思った万松柏の身体はしかし、持ち主の言うことを聞ける状態にはなかった。
滞った内功が体内で暴発し、激痛が全身を駆け巡る。耐えきれずに開けた口からは大量の鮮血が溢れだした。
おぼろげになっていく視界の中で無忌が身じろぎし、黒衣に何かを吐くのが見えた。しかし倒れることはなく、ふらつきながらも万松柏に近付こうとしている――
万松柏に見えたのはそこまでだった。
急速に冷えていく身体が地面を打ったとき、万松柏はすでに意識を手放していた。
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