第四十二話
「無忌! 無事だったんだな!」
万松柏は思わず顔をほころばせた。生きてまた会えたという喜びがどっと押し寄せ、戦いの緊張を溶かしていく。
ところが、無忌は何も答えなかった。それどころか瞬きもせず、柳眉もぴくりとも動かさず、霊魂が抜け落ちたような顔で万松柏をじっと見つめている。
何かがおかしいと気付いたとき、無忌が黒い袖を一振りした。空を裂いて現れたのは彼がいつも使っている長剣だが、やはり気配が尋常ではない。
「鋒よ。己の本分は分かっているな」
閻狼摩の問いかけに、無忌は平坦な声で答えた。
「
言い終えると同時に無忌は屋根瓦を蹴って飛び出した。万松柏は慌てて剣を構え、間一髪で最初の一撃をいなした。
——強い。初めて剣を交えたときよりも段違いに、信じられないほど強い。剣がぶつかり合い、掌が触れ合うたびに、黒く重たい邪気が万松柏を圧倒する。かつては鋭く澄んでいた剣戟の音はひび割れて耳障りな騒音に成り代わり、万松柏を狙う金色の瞳は叡智を持たない野の獣のようだ。獲物を捕らえ、命を奪うことだけを考えている眼差しだった――一度狙われたが最後、簡単には逃れられない。そしてそこに人間らしい感情は残されていない。
「無忌、俺だ! 万松柏……遠望春だ!」
万松柏はどんどん後ろに下がりながら、剣戟の合間を縫うように必死で叫んだ。が、声は届いているはずなのに、無忌はまるで耳が聞こえていないかのように何の反応も示さない。声に反応して瞳が収縮することすらないのだ。
無忌の攻勢にすっかり押されている今、万松柏は、内功が乱れないよう保つことしかできずにいた。攻撃の穴を突こうにもほころびが見当たらず、少しでも技を仕掛ければたちどころに封じられてしまう。唯一の救いは、無忌が技を仕掛けようとするたびに万松柏も封じられていることだった。だが、これがいつまで持つかは万松柏も分からなかった。今はまだ身体が反応できているが、ひとつの動作、一度の息遣いを見逃したら最後、たちどころに捕らえられてしまう。
人と剣が緻密に絡み合う中では、一方が他方を何かで凌がない限り、どちらにも勝ち目はない。一撃を受けるたびに腕が痺れるような衝撃に襲われている今、このまま打ち合いを続けても消耗するだけだということはすでに分かりきっている。おそらく無忌は、わずかに残っていた意識をも支配されている状態なのだと万松柏はあたりを付けていた。その点では先ほどの槍使いの魔偶と同じだ――身体に染みついた駆け引きはできても、意表を大きく突いた動きには対応しきれないはずだ。
万松柏は意を決すると、乗っている屋根を蹴って後方に大きく飛び上がった。無忌もすぐに反応し、万松柏を追って飛び上がる。万松柏は追いつかれるまでの一瞬の隙に剣を構え、湖の真ん中に浮かぶ仙府に向けて救命弾を投げるように打った。
地面に向かって落ちていく万松柏とは裏腹に、無忌は剣を構えて勢いよく迫ってくる。が、わずかに高さが足りなかった――無忌が刺突を繰り出したとき、万松柏は剣を持った手を背中に回し、切っ先にトンと爪先で着地した。
これは完全に予想外だったのか、金色の瞳がぐっと見開かれた。怒りに歪む瞳にツキリと胸が痛んだが、万松柏はそれを押し隠し、逆に口角をぐいと持ち上げた。
「どうした? お前らしくもない」
「……ッ、黙れ!」
獣が唸るように無忌が言い返す。勢いよく払われた剣から降りると、万松柏は落ちるに任せて地面へと降り立った。
空中で一回転して落下の勢いを殺し、軽功も使って着地する。無忌は一度屋根に降りてから、もう一度万松柏に向かって飛び降りた。
万松柏は剣を横たえて構え、迫りくる刺突を正面から受けた。霹靂に打たれたかと錯覚するような衝撃が全身を貫いたが、万松柏は歯を食いしばり、全力で踏みとどまった。駄目押しのように掌気を放てば、白刃が軽くしなって無忌の一撃を跳ね返す。万松柏は反動を利用して後方に飛び退いた。どうにか凌いだが、刃が粉々に折れてもおかしくない場面だった。一方の無忌も同じだけ飛ばされており、二人の間には十分すぎるほどの距離が開いている。ここから巻き返す、万松柏は乱れた息を整えながら心に誓った。
無忌は不意を打たれたことでかなり調子が狂ったらしく、今や剥き出しの敵意を万松柏に向けている。今までは閻狼摩とその手先に向けられていた眼差しが己に向いていると思うとまた胸が痛んだが、万松柏は即座に剣を構え直した。今の無忌は冷酷無比という言葉も当てはまらない、本物の殺戮人形だ——一瞬の判断の迷い、一瞬の気の緩み、一瞬の感情の揺れが死に直結する。
無忌は剣を構えなおすと同時に足を後ろに引いた。万松柏もすぐさま同じ構えを取り、二人は同時に前に飛び出した。
二振りの剣が同時にぶつかり、火花を散らす。砂塵が巻き上がり、全く同じ歩法と剣術が衝突する。一進一退、次の手は考えずとも体が勝手に取っている——二人がともに学び、習得した雲歩剣だ。
無忌は数手で違和感を覚えたように眉をひそめたが、さらに数手でその正体を見破ったらしい。驚愕の色を浮かべ、攻撃の手を強める無忌に食らいつくように万松柏は剣を振るった。
が、俄然威力を増した無忌に万松柏は少しずつ押されて始めていた。汗が目に流れ込み、剣を握る指は柄の形に固まっている。虎に喉笛に噛みつかれたような気分だった——このままでは押し切られてしまう、万松柏はほとんど無意識のうちに舌打ちをしていた。
その一瞬で、剣を持つ手に強烈な衝撃が走った。剣が手を離れ、大きく弧を描いて飛んでいく。手首から先を切り飛ばされたかのように感覚が消えたが、血の臭いがしないということは本当に尋常でない強さで打たれただけのだろう。
万松柏に得物を失わせたことで、無忌はさらに攻勢を増してきた。空手に切り替えて数手しのいだ万松柏だったが、すぐに体勢を崩されてしまった。
首元を掴まれ、そのままの勢いで壁に叩きつけられる。衝撃に息を詰まらせた万松柏の首筋に、とどめとばかりにひやりと冷たい殺気が押し当てられた。
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