第四十一話

 万松柏が後退するとともに魔偶が陸に飛び移る。魔偶は櫂を槍のように振り回し、距離を取ろうとする万松柏に食らいついて離れない。軽功で飛び退けば軽功で追いつかれ、掌気を打てば櫂で弾かれ、その櫂も万松柏を砕かんと唸りを上げて襲ってくる。反応が遅れた万松柏は、すぐには挽回できないほど魔偶の勢いに飲まれていた――最初の油断に加え、魔偶が槍使いの動きをしている驚愕と衝撃で最初の一撃を許してしまったのだ。ひとたび流れを作られてしまうと、防御を取りながら形勢逆転のきっかけを探らなければならなくなる。


(槍使いの魔偶だと――奴ら、無忌の代わりを本当に作るつもりか!?)


 万松柏は胸の内で毒づいた。修練が長ければ長いほど、武芸者の身体は戦い方を覚えている。この魔偶はまさに、身体に染みついた動きを主人の命令どおりに繰り返しているのだ。万松柏は攻撃を右に左に避けながら、左手を腰に回して剣指を作った。幸い、この魔偶には無忌のように相手の動きを読んで駆け引きをする能はない。繰り出されるのは単純な攻撃のみで、最初の衝撃が過ぎたあととなっては赤子の手をひねるようなものだ。


 騒動に気付いた住民たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。万松柏は魔偶に意識を集中すると、腰で構えた剣指を持ち上げ、剣に気を送り込んだ。邪気と持ち主の闘志に呼応した剣はすぐさま鞘を飛び出し、万松柏の右手に収まる。同時に、万松柏は左手の剣指を構えて魔偶の懐に突っ込んだ。

 袈裟懸けに櫂が振り下ろされる――万松柏はそれを剣で下から受けた。バキッと鈍い音がして、腕が痺れそうな衝撃とともに櫂が二つにへし折れる。魔偶が体勢を崩した隙に、万松柏は左手の剣指で金色の両目の中間点を突いた。

 金色の瞳がぐるりと裏返り、漆黒の身体が仰向けにひっくり返る。とどめとばかりに心窩を剣で貫くと、魔偶は耳を破るような断末魔とともにサラサラと消え去った。


 万松柏は魔偶が消えるさまをじっと睨んでいたが、やがて我に返って湖の方を見た。最後の夕日に照らされる湖は平和そのもので、一見何の脅威も迫っていないように見える。

 今すぐにでも浄蓮仙府に渡ろう、万松柏が夢中で湖に駆けだしたそのときだった。


「成る程。能力に差があるとは聞いていたが、こんなものか」


 独り言のような、しかし聞かせるために発された一言。万松柏が振り返ると、誰もいなかったはずの屋根の上に黒衣の二人組が立っているではないか。


「閻狼摩!」


 万松柏は剣を構えて怒鳴った。隣にいるのは言うまでもなく弟の閻南天だ。


「もとより内功の修為が高い男ではないですから。外功ばかりの渡世人は魔丹にも馴染みやすいですが、やはり仙師を相手取るとなるとどうしても実力不足です。ただ、有象無象を狩るには十分でしょう。より少数でこれまで以上の成果を上げられるはずです」


 閻南天は淡々と報告しているようでいて、勝ち誇ったような空気感を醸し出している。人好きのする双眸が一瞬こちらを向いて意地悪い光を放ったのを万松柏は見逃さなかった。


「ふむ……では、そちらの仙師殿にはより強力な魔偶が必要と申すのだな」


「はい。そうだ兄さま、お望みなら、あれと同程度の魔偶を先に街に放ちましょうか?」


 二人の兄弟は、まるで万松柏がその場にいないような調子で話している。万松柏は改めて、閻南天の本性を見抜けなかった自分を恨めしく思った――盲信する兄に認められるとあれば、この男はどんな悪逆非道にも手を染める。江湖人の魔偶という新たな敵の出現に、ここぞとばかりに見せつけられる恭順は、万松柏が魔界から逃れてからの短い期間で二人がよりになったことの表れだ。

 万松柏は剣を振り抜き、二人に向けて剣気を放った。が、閻狼摩が放った掌気と相討ちになり、小さな爆発音とともに打ち消されてしまう。


「少し待ってはいただけませんか? 我々は今、大切な話の最中なのですが」


 閻狼摩が嫌味な声を朗々と響かせる。万松柏はぐわりと湧き起る怒りを抑え込むと、「ハッ!」と大声で笑い返した。


「何が大事な話だ! 作戦会議なら出撃の前にしてこいよ。ここを襲いたいならお前らで俺に勝つか、俺に競り勝てる魔偶を出すかしろ!」


 言い切ったそばから地面を蹴り飛ばし、万松柏は二人のいる屋根に飛び乗った。閻兄弟は揃って怒りと驚きに目を見開き、軽々と剣を振り回す万松柏を避けるように隣の屋根に飛び移る。万松柏は構わず二人を追撃した――閻狼摩の実力のほどは正直分からないが、武術の心得がほとんどない閻南天ならかすり傷を狙って翻弄することは容易いものだ。それこそ真剣を持つ前の子どもの鍛錬と変わらない。

 万松柏は調息と力の加減に気を配り、裾や袂、毛束の先を切り裂くような攻撃を続けた。閻狼摩こそ掌気を繰って反撃を試みているが、閻南天の方は完全に逃げに徹している。


「下りろ、ウスノロ!」


 苛立ちも露わに閻狼摩が叫ぶ。閻南天は一瞬目を見開いて固まったが、すぐさま地面に飛び降りた。


「貴様は新たな魔丹の威力でも確かめてこい。せめて役に立つ働きをしろ!」


「……はい、兄さま」


 閻南天は悔しそうに小声で答え、すぐさま踵を返して町の中心へと消えていった。

 万松柏は歯ぎしりした――これではかえって無辜の被害が増えてしまう。すでに騒ぎが大きくなり、誰もが逃げ場を探しているが、この中に魔偶を投入されたらと思うとぞっとする。


「どうやら目論見が外れたようですね」


 閻狼摩は調子を取り戻したように得意気な笑みを浮かべた。両手に印を結び、いつか魔界で苦戦を強いられた墨汁を再び召喚している。

 万松柏が身構えた瞬間、墨汁が一直線に襲いかかってきた。人間界にいる分威力は弱いが、それでも切っても切っても付きまとわれる厄介さは変わらない。


「そうだ、懐かしいお相手と会わせて差しあげましょう。こいつも別れを惜しんでおりましたし、再会の場にはちょうどいい」


 万松柏が墨汁の相手を始めて手が空いたと判断したのだろう。閻狼摩は意地の悪い笑顔をさらに歪め、十本の指で次々と印を組んでいく。召喚の術らしいと気付いたそのとき、目の前の屋根を一筋の閃光が貫いた。

 後ろの屋根に飛び退り、剣を構えなおす万松柏の前には、黒衣の男が立っていた。長い黒髪を結わずに遊ばせ、冷淡な金色の瞳にすらりと通った鼻筋が目を引く偉丈夫だ。


「……無忌」


 万松柏は思わず息を飲んだ。

 会いたいと願っていた相手が、ついに目の前に現れたのだ。

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