第五章:春望
第四十話
かつて、浄蓮仙境にて魔族の将軍が捕らえられた――各地に仙府が建つよりも、魔界の主戦力が魔偶となるよりももっと前のことだ。陰陽倒転法によって浄化され、記憶を持たない五歳の少年として生まれ変わった将軍は、当時の掌門の指導のもと仙師として成長し、弟弟子とともに魔界との戦いの最前線で活躍していた。
ところが、ある日、弟弟子が負傷し邪気に侵された。将軍は弟弟子を救うために陰陽倒転法を使い、邪気を全て自身の経絡に取り込んだ。それにより抑えられていた魔性が再び目覚め、結局は魔界の将軍としての記憶をも取り戻してしまったのだ。この内患によって仙門は大きな損失を受け、最終的には弟弟子が自らの命と引き換えに将軍を討ち取ったという。
万松柏が受け取った書物に書かれていたのは、かつて浄蓮仙府で起きた事件の記録だった。陰陽倒転法が禁止される原因ともなったこの大事件はどの仙府でも語り継がれているものだが、どうやら暁晨子が持っていたこの書物こそが元となった一冊らしい。
白凰仙府だった場所の隅――半ば朽ち、早くも苔が生え始めた瓦礫に腰かけて、万松柏は注意深く頁をめくっていた。魔界の将軍を浄化したときの陣の様式、費やした時間、儀式に臨んだ人数などが事細かに記してあるあたりはさすが現場の知識というところか。かなり大がかりなものだったらしいということを改めて読み取ると、万松柏は目の前にぽっかり広がる空き地を見渡した。
うららかな陽光に鳥の声が響く廃墟は相変わらず手つかずだ。浄蓮仙府で聞いた話では、白凰仙府が堕ちたせいでどの仙府も警戒態勢を強めており、白凰山から非難した面々も浄蓮仙府の警備に当たっているという。特に浄蓮仙府は白凰山から近いこともあり、次の標的にされるのではないかと皆がピリピリしていると沈萍は言っていた。
「……俺が閻狼摩なら、どうするかな」
万松柏はぽつりと独り言ちた。最後に無忌が出撃したときに沈萍たちと遭遇したことを考えると、やはりこの近辺を狙っているのではないだろうかと思えてくる。問題は、この次に魔偶が現れたという知らせがないことだ。
無論、その間無忌が現れていないことに関しては説明がつく。しかし、東西南北を問わず狼藉を働いてきた魔界がここまで静かなことは初めてだ。
「松柏」
ふと、暁雲子の声がした。今の白凰山は彼が一人で守っているに等しく、魔界からすればすでに殲滅したも同然だ。
「……師伯」
「随分と考え込んでいるな。それほどまでに魔界の動向が知りたいか?」
万松柏は暁雲子に、暁晨子の無事を告げに戻っていた。壊れた鈴の代わりとなる通信手段を届け、また浄蓮仙府に戻る手筈になっている。
暁雲子は真っ白な道服をそよ風になびかせ、尻が汚れるのも構わず万松柏の隣に腰かけた。陽光を浴びて白銀に輝く衣は、はたから見れば本当に天から舞い降りた神仙を思わせることだろう。
「長らく前線に立っていない私が言うのも何だが、次に浄蓮仙府が狙われるという読みは間違いではないように思う。神出鬼没のようでいて、奴らの進軍には共通している点も見られるからな――大がかりな拠点に挑む前後に必ず無力な民を襲う、というのが共通点の中でも最もたるものだろう。奴らが略奪によってしか戦力の損失を補えないのであればなおのこと、仙府への襲撃に前後して近隣の村落や町が襲われるのは理にかなっていると言える」
万松柏は暁雲子の言葉に素直に頷いた。数え切れない年月を生き、戦ってきた暁雲子にとっては、八十年の空白期間などあってないようなものなのだと改めて思い知らされる。
それと同時に胸騒ぎがした。またあの悲劇が起こるのかと思うと居ても立っても居られない――それに、比連や沈萍たちが二度も危機に晒されるかと思うと不安でたまらない。
「だが、災厄の相はまだ出ていない」
暁雲子が天気の話でもするようにぽつりと言った。
「気が急くなら戻りなさい。今なら浄蓮仙府で皆の守りに加われるだろう」
そう告げた暁雲子は、晴れた空をじっと見つめていた――まるで青空に溶け込んだ兆候を見極めようとしているかのようだ。
「ありがとうございます、師伯」
万松柏は礼を述べて立ち上がり、両手を胸の前で合わせた。そうと決まれば一刻も早く戻らなければ、そう思っていた万松柏だったが、暁雲子が思い出したように言った言葉にぎくりと固まってしまった。
「それと、もし無忌を思うのであれば」
ドクンと耳元で脈が鳴る。無忌との個人的なことは言っていないはずなのに、見透かされたような気分だ。
「無理に術を弄そうとは考えるな。戦場での取り返しのつかない過ちは、救える者と救えない者の見極めを誤ったときほど生まれるものだ」
「……はい、師伯。それではお暇いたします」
万松柏は歯切れの悪い思いを抱えながらも、深く一礼して踵を返した。
浄蓮仙府への道は相変わらずのどかで、惨劇が迫っているとは思えない。それでも万松柏は、澱のように胸の底を漂う予感に急き立てられるように道を急いでいた。
浄蓮仙府が襲われることは何としても避けたい。避けられないとしても、被害を最小限に留めなければならない。閻狼摩が出陣の指揮を執るのか、無忌が現れるのかは分からないが、そうしなければならないという思いはいつにも増して強かった。
――あるいは、己が最前線で戦えば、どこにいるともしれない無忌の気を引けるかもしれない。陰陽の境目を超えて分かたれた今、無忌と万松柏を繋ぐものは戦しかないのだ。再び巡り会うことさえできればと祈っても、それが戦場であることは避けようがなかった。
暁雲子の言葉も引っかかっていた。自らが天塩にかけて育てた弟子だというのに、必要とあれば見捨てることを決めているかのような言い方だ。あの言葉が彼の叡智から来ていることは分かっているが、簡単には従えない、受け入れられない自分がいる。
果たして、己に無忌を救うことはできるのだろうか。そう思ったとき、初めて戦いを嫌だと感じた。できることなら、浄蓮仙府にも戻らずに、このまま行方をくらませてしまいたい。無忌なら、たとえ逃げたとしても見つけ出してくれるのではないか、そんな願望さえ抱いてしまう――。
一週間の道のりを二日で踏破した万松柏は、再び浄蓮仙府に続く湖の渡し場に立っていた。夕暮れが近く、空も水面も松明のように赤く燃えている。
船頭を呼び、この湖を渡る。いつもと同じ選択をするべきだと分かってはいたが、どうしても足を踏み出せない。
「船が入り用ですか?」
夕日を反射して煌めく水面を見つめていると、櫂を操る水音とともに若い男の声が近付いてきた。顔を上げると、笠を深くかぶった船頭が万松柏に向かって船を進めている。
「ああ。この先の浄蓮仙府まで……」
いつもの調子で答えてから、万松柏はしまったと思った。同時に船頭が口の端を意地悪く持ち上げる。
「そう。それは良いことを聞いた」
人当たりの良い、しかし底冷えするような残忍さを孕んだ声。穏やかだった空気が一変し、悪意と邪気があたりに広がっていく。
万松柏はここで初めて、先ほどの声が目の前の男から発されていないことを悟った。そして案の定、笠を持ち上げた船頭に顔はなく、一面の暗闇がそこにあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます