第四章:再聚
第三十三話
小さな庵に朝日が差す。朝日とともに起きる比連がどたどたと走り回り、いつの間にか朝の仕事を始めている暁雲子を探し回る物音を聞きながら夢うつつを彷徨うのがここ最近の万松柏の暮らしだった。
この日は比較的寝覚めの良い朝だった――少なくとも見た夢の内容を思い出せないのは良い兆候だろう。幽川で望遠春の記憶を覗き見てからというもの、万松柏は寝ても覚めても記憶の混濁に悩まされている。ふとしたことをきっかけに、自分のものか望遠春のものか定かではない記憶が大量に溢れてくるのだ。そのたびに頭痛やめまいに襲われて、ひどいときは立っていられない。暁雲子の庵に来た当初はずっと横になり、誰とも言葉を交わさない日も少なくなかった。折り合いが付けられるようになったのはふた月が過ぎてから――つまりごく最近のことだ。
無忌が万松柏を置いていったのは白凰山のふもとだった。それも万松柏が事前に言っていた暁雲子が住んでいるかもしれない側のふもとに、わざわざ暁雲子に話を付けて置いていったのだ。おかげで万松柏はすぐに暁雲子に助けられ、なんと比連とも再会することができた。比連は白凰仙府が襲撃を受けた日、万松柏に言われたとおりに逃げるうちに暁雲子の庵に迷い込んでしまったのだという。とはいえ、万松柏がそれを知ったのは暁雲子に助けられて半月が過ぎたときだった。万松柏の状態を重く見た暁雲子が、万松柏と極力会わないよう比連に言っていたのだ。
師弟関係ではないものの、暁雲子の力添えで比連はほとんど邪気を発さなくなっていた。そればかりか暁雲子を追いかけて庵じゅうを駆けまわり、「せんせい」こと暁雲子を捕まえてはあれこれ質問攻めにしている。万松柏と極貧生活を送っていた頃よりも身長が伸び、肉付きも良くなって、金色の瞳を除けば仙門の年少の弟子たちとそう変わらない。
今だけのものとはいっても、満たされた環境でのんびりと時が過ぎていく。何も気にすることなく療養に専念できるのは悪くはなかった――だが、朝起きたとき、夜寝る前に、ふと孤独を感じることが増えた。万松柏を守り、寄り添い、世話を焼いていた無忌の姿がないことが言いようのない空虚さを生んでいるのだ。比連ともう一度暮らせていることも、暁雲子と再び過ごせていることも願ってもないことなのに、そんな中にぽっかりあいた小さなうろが気になって仕方がないような、今まで感じたことのない感情だった。
「せんせい! せんせーい!」
比連の声と足音が右から左へと抜けていくのを聞きながら万松柏は寝返りを打った。いつもならごっちゃになった記憶から生まれた悪夢にうなされ続けて起きるに起きられず、二度寝を決め込むところだが、今日は不思議と気分がいい。万松柏は布靴に足を入れると、扉を開けて比連に声をかけてやった。
「比連!」
「おじさん!」
比連がぱっと振り向き、嬉しそうに頬を染めて引き返してくる。胸に飛び込んできた少年を抱きとめると、万松柏は久しぶりに比連のくせ毛を撫でてやった。
「おはよう、比連。今日も元気そうだな」
「おはよう、おじさん。おじさんは元気?」
暁雲子のおかげで、比連はより人間に近い話し方ができるようになっている。万松柏はほのかな喜びを噛みしめながら「俺も元気だよ」と答えた。
「おじさん、今日は夢、見た?」
「見たような気がするけど、忘れたな。きっと大した夢じゃなかったんだ」
万松柏は比連の頭に手を置いたまま、にこりと笑ってみせた。本音であってもありきたりな言葉だったが、それでも比連は満足そうに笑顔を見せる。心配させていたのだと思うと心苦しくはあるが、無事に修行を積めていることを喜ぼうと万松柏は自分に言い聞かせていた。
「松柏、いつもより早いな。よく眠れたか?」
ふと、廊下の向こうから暁雲子が現れた。長く豊かな銀髪に物腰柔らかな話し方、真っ白い道袍、年齢を感じさせない瞳は、最後に会った八十年前と全く変わらない。
そんな暁雲子の言葉に、万松柏は「はい」と答えながら拱手して一礼した。
「久しぶりに夢らしい夢を見ませんでした」
「それは重畳。お前の中で整理がついてきた証拠だ」
暁雲子はそう言うと、飛びついてきた比連を軽く撫でた。
「比連、朝餉を用意してあるから食べておいで。終わったら『妖修』の続きを読んでいなさい。昨日止めたところは覚えているね?」
「はい、せんせい!」
比連は元気よく頷いてぱたぱたと走り去っていった。
「松柏、私の部屋に来てくれるか」
小さな背中が消えると、暁雲子が静かに告げた。
「話したいことがある」
***
暁雲子の居室はほとんどが蔵書で埋め尽くされていた。それも暁雲子自身が書き記したものがほとんどで、仙府の蔵書を書き写したものはほんの一部なのだという。比連が勉学に使っているのだろう、ぎっしり詰まった棚には所々に隙間があったが、そんなものは気にならないほど書物だらけだった。机の上には書きかけの紙束がうず高く積まれていて、丸めた書き損じがひとつだけ床に落ちている。
万松柏と暁雲子は本の山の中に身を寄せて座った。その実、万松柏は暁雲子の居室には入ったことがなかった。が、この本の山を見ていると、思わず片付けてくださいと言いたくなってくる――そんな万松柏の胸中を見抜いたのか、暁雲子は脈診もせずに今何を感じているかと聞いてきた。
「懐かしさ、ではありませんが……相変わらずだなあ、と。それから、次に山が崩れたら師叔が本気で怒られますよ、とも」
ないはずの記憶が湧きおこり、言ったことのない言葉がすらすらと口を突いて出てくる。師であるはずの暁晨子を師叔と呼んでしまうのも今に始まったことではない。
「これも望遠春の記憶なのでしょうか?」
万松柏が尋ねると、暁雲子は重々しく頷いた。目線を逸らしている様子は、何やら考え事にふけっているようにも見える。
「そうだな……実は、今日はそのことを話そうと思っていた。望遠春の生涯と、お前が生まれたときのことを」
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