第三十二話
黒一色だった周囲が色をまとい、白凰仙府の中庭が現れる。少年の無忌は子ども用に鍛えられた真剣を持っているが、遠春と呼ばれた少年が持っているのは訓練用の木剣だ。見たところ無忌は十二、三歳で遠春は十歳になるかならないかだ。屈託のない笑顔の遠春の前歯が一本抜けているのを見て、万松柏は奇妙な事実を認めざるを得なかった。
万松柏自身、八歳のときに前歯が抜けたのだ。それを気にしないどころか見せびらかすように振る舞って暁晨子に窘められたことも覚えている。そして歯の隙間を見せつけるように笑う遠春に、無忌はこう言った。
「遠春、師尊の前ではあんまり笑うんじゃないぞ? 特に今日は大切な試験があるんだから、笑わずにしっかりやれよ」
「ええ~、なんで? スカスカで面白いのに」
「面白くてもやっちゃだめ! また礼節がなってないって叱られるぞ?」
どうやら遠春はかなり天真爛漫な性格のようだった。兄弟子の無忌も二人の師も、遠春の気楽すぎる性分には手を焼いているらしい。
「
少年たちの笑い合う声に深く落ち着いた声が割って入る。二人の少年は途端に居住まいを正してやって来た人物に向き直った。真っ白い道袍に身を包み、悠々と歩いてくるのはまたしても万松柏の知る人物――それも今から訪ねる相手その人、暁雲子だ。
万松柏の記憶の中の暁雲子は、雲のような銀髪を半分だけ結い上げ、残りを背中で遊ばせていた。叡智にあふれる額は晴天のように明るく、しかし双眸は底なしの井戸のように深い知恵で満ちている。生き仙人とまで言わしめたこの仙師は常に微笑を浮かべ、語り口も柔らかく、全ての門弟から慕われていた。
目の前に現れた暁雲子もまた、万松柏の記憶と変わらない出で立ちをしている。背中に回された手が明かされると、そこには長さだけの木の枝が握られている。
「遠春、套路は練習したかい?」
「はい、師尊!」
暁雲子がにこりと笑いかけると、遠春は無忌の忠告も忘れて歯を見せて笑った。が、暁雲子は満足そうに頷いただけだ。
「よろしい。では、早速始めよう。合格すれば、無忌と同じ格好いい剣を持たせてあげるからね」
やはり遠春が受けるのも、万松柏が幼くして突破したものと同じ試験らしい。暁雲子の合図で木剣を構えた少年はしかし、先ほどまでの爛漫さはどこへやら、俄然生真面目で落ち着いた表情になった。
そうして行われた試験の様子を、万松柏はじっと見つめていた――どこかで見たことがあると思っていたが、無忌の部屋で見た夢のひとつがこれだった。だがそのときは、万松柏が遠春だったのだ。
まるで他人の記憶を覗き見ているような気分だった。それも全て、夢の中で見た別の誰かの記憶だ。
場面が変わり、二人はぐんと背が伸びていた。十代の後半だろうか、二人は前線で魔偶を制圧する堂々たる仙師になっていた。やはり目の前の光景はいつか夢で見たもので、あのときは望遠春だった万松柏が外側に追いやられている。
それにしても、成長すればするほど、見ず知らずの望遠春という仙師は自分そっくりになっていく。不可解に思いつつも、万松柏の中では今までずっと無視していたある仮定がいつになく頭をもたげていた。
――己が、望遠春なのではないか。
無忌の態度と夢の中の名前を合わせてみると、出てくる答えはこれだった。だが、望遠春という仙師は、見識もなければ名前すら聞いたことがないのだ。だからそんなことはあり得ない、思い違いをしているのだとずっと自分に言い聞かせてきた。
しかし、こうして見ると、万松柏という己と望遠春は同一なのではないかと思えて仕方ない。
風景が巡り、二人が成人すると、望遠春は万松柏とまったく同じ容貌になった。父親は万姓の別人だというのに、生き写しのようにそっくりだ。
そしてついに、忘れもしない風景が現れた――望遠春と無忌が荒廃した戦場に立ち、魔偶に四方を取り囲まれている。
二人ともすっかり疲弊しており、魔偶を見回す目には諦観すら見て取れる。それは己がここで命を捨てて相手を生かすという、覚悟にも似た自己犠牲の面持ちだった。
「師兄、ここまでみたいですね」
望遠春が剣の柄を握り直す。対する無忌は魔偶の群れをじっと見つめたまま、背中合わせに立つ弟弟子には目もくれない。無忌はしばらくしてから口を開き、望遠春に逃げろと告げた。
「お前は逃げろ。白凰山に戻り、私に代わって皆を率いるのだ」
「……何ですって? 師兄の代わりって……一体何をおっしゃっているのですか」
「そのままの意味だ。我らが二人とも欠ければ白凰仙府の戦力にかかわる。お前は師弟たちからの信頼も厚く、名実ともに白凰山の二番手だ。お前なら輝かしい功績を築ける——私にできることは、お前を生き延びさせることくらいだ」
望遠春は困惑の眼差しを無忌に向けた。夢の中で万松柏がしたのとまったく同じだ。
「師兄——」
しかし、無忌は望遠春の説得も顧みず、一直線に魔偶の軍勢のただ中へと飛び込んでいく。望遠春は慌てて兄弟子を追いかけたが、黒い影に阻まれて距離が拓く一方だ。
「師兄、待ってください! 師兄――」
望遠春は必死に剣を振り回し、無忌の背中を追いかけた。そして、背後から襲い来る影に全く意識が向いていなかった。
望遠春の身体を黒い影が貫く。望遠春は動きを止め、訝しむように腹に刺さった影を見た。
次の瞬間、望遠春の口から大量の血が噴き出した。望遠春はそのまま影に放り出され、声も上げずに倒れ伏した。
「ほう、仙師がかかったか」
他人事のように呟いたのは閻狼摩だ。遠巻きに魔偶に囲まれた仙師を見ていた彼は、羅盤のような道具を手に興味津々といった様子だ。
「初めてにしては上手くいったか。あれも多少は役に立つことを考えたものだ」
「貴様、
無忌が怒鳴り声とともに閻狼摩に斬りかかる。誠実さにあふれた鳶色の目は怒りに歪み、大きく吊り上がっている。
閻狼摩は両手で印を結び、己を守らせるように大量の魔偶を差し向けたが、無忌は片手で狂ったように長剣を振り回し、もう片方の手で印を結んで閻狼摩に突進していく。目を見開き、食いしばった歯をむき出しにした形相はまさしく鬼神のそれだった。やがて全ての魔偶を蹴散らした無忌に閻狼摩は舌打ちし、印を組み替えてどす黒い触手のようなものを召喚した。
触手が無忌に襲いかかると同時に、無忌が剣指を走らせて宙に紋様を描く。無忌は倒れたままの望遠春に向けて術を放ち、丹田を狙った一撃を真正面から受けた。
望遠春の身体は青白い光に包まれて消え去った。残された無忌はぐったりと倒れ伏し、閻狼摩が新たに呼び出した魔偶たちに抱え上げられた――
ドボン、と水音がした。ゆっくりと現実に引き戻された万松柏が見たのは、こちらに向かって泳いでくる無忌の姿だった。
気が付けば息がなくなっている。おぼろげな視界に映った無忌は必死の形相で泳いでいた。やがて無忌は万松柏に泳ぎ着き、抱き寄せて顔を覗き込んだ。
(師、兄……)
無忌はすぐに水面を目指して浮上し始める。今まで使ったことのない呼称が頭に浮かんだのを最後に、万松柏は意識を手放した。
***
肌を撫でるひんやりしたそよ風。静かに歌う梢に鳥のさえずり、虫の鳴き声が耳朶をくすぐる。
ぼんやりと目を開けると、広げられた暗幕いっぱいに小さな灯がともされている。久しぶりに見た星空にようやく合点がいった万松柏は、ついに人間界に帰ってきたのだと気がついた。
がばりと身を起こすと、太くて逞しい老木が目に入った。その根本には無忌が寄りかかり、焚火の番をしながら船を漕いでいる。
コクリ、コクリと頭が落ちるたびに無忌は眠そうに目を瞬き、自らを覚醒させるように焚火に枝を入れては目を閉じてしまっている。相変わらずの姿にほっと安堵したのも束の間、知らないはずの記憶がにわかに閃いた。
他の仙府の仲間とともに野営している記憶だった。万松柏は無忌とともに焚火を囲み、火の番をしながら落ちてくる瞼に抗えない無忌に交代するよう必死で説得しているのだ。
万松柏ではなくて望遠春の記憶だろうか。それであれば合点がいくが、今や万松柏の頭の中では似たような風景が濁流のように溢れ返っていた。あまりに大量の情報に頭痛がするほどだ——思わず呻き声を上げた万松柏に気づいたのか、無忌はぱちりと目を開けた。
「大丈夫か」
何の気もない問いかけがしかし、かえって万松柏の混乱に拍車をかけた。仙師と魔偶、ふたつの姿が重なって見えて、どちらが本当の無忌なのか分からない。
「無忌……ッ、俺……いや……違うはずなのに……どうなってるんだ……?」
万松柏はこめかみを押さえて呻く。無忌は沈痛な面持ちで万松柏を見つめていたが、やがてふっと目線を逸らせた。
「幽川は霊魂の姿を暴く」
無忌はぽつりと呟くと、瞼を閉じてため息をついた。その顔は、何もかも始めから分かっていたと暗に言っているようだ。
「師尊には全て話した。まもなく迎えに来られる」
「師尊って、暁雲子師伯……」
「師伯」と口にした途端、強烈な違和感が沸き起こる。万松柏は一際強烈な痛みに呻き声を上げたが、助けを求めて見上げた無忌は彼に背を向けていた。
「無忌……」
「赦してくれ。……お前が生きていて良かった」
無忌は振り向きもせずに告げると、黒い長袍の裾を翻して歩き出した。
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