第三十一話
無忌は一目散に万松柏に向かって駆けてきた。上背のある黒い影が目の前を塞ぐと同時に、万松柏はがっしりと逞しい両腕に抱かれていた。涙混じりの吐息を漏らす背中を軽く叩くと、無忌は細い声でぽつりと言った。
「探した」
「俺だって探したさ。お互い様だな」
万松柏は軽い調子で言うと、無忌の腕の間から地面に転がされた閻南天を盗み見た。
身動きを封じられ、口も利くことができない閻南天が万松柏の視線を捉える。烈火のごとき怒りに燃えた青年は、目線だけでもと言わんばかりに万松柏を睨みつけていた。
「しかし、お互い様と言えばこいつもだ。殴ったり罵られたりしているのに、あそこまであの兄貴を慕えるなんてな。思いもしなかった」
「同じだ。魔界でも不思議がられている」
二人は閻南天を見下ろし、もう一度目を見合わせた。
「こいつは置いていこう。閻狼摩への置き土産にはちょうどいいだろ」
万松柏がそう言うと、無忌は即座に頷いた。
***
無忌の案内で逸れた道を正し、二晩の野宿を経て、二人はようやく黄泉にたどり着いた。
昼か夜かも分からない薄暗がりの中、一面に広がる裸の野。枯れ木の一本、枯草の残骸もないそこには当然生き物の気配もなく、陰鬱でうらぶれた、物悲しい空気だけが何を満たすともなく漂っている。一緒に旅をする仲間がいなければ、たちまちのうちに寂しさに憑りつかれて正気を失ってしまいそうな空間だった。
「……本当に何もないんだな……」
思わず小声で呟いた万松柏だったが、蚊の鳴くような声でさえ虚空に吸い込まれるように消えていく。無忌は無言のまま頷くと、ただひたすらに前進した。
一面の虚無に囲まれているというのに、話してはいけないような重圧が感じられる。二人は静謐の中を無言で進んだ。何に出会うこともなく、ただ無為に続く荒野――なるほど気配と足跡を隠して移動するにはもってこいだ。
無忌は時折地面に手を当てて、何やら測っては道を変えていた。万松柏が興味津々に覗いていると、無忌は聞こえないほど小さな声でこう言った。
「幽川は陽界と接する。ゆえに幽川から陽気が流れてくる」
万松柏はぎこちなく頷くと、無忌の真似をして地面の気の流れを感じ取ってみた。
最初に感じたのはどんよりと濁った陰の気だ。しかし、その中に薄く――中がたっぷり入った巨大な水がめに墨を一滴だけ垂らしたように、ほんのわずかな陽の気が漂っている。万松柏は納得したものの、同時に気が遠くなった。たったこれだけの陽の気をたどって虚無の世界を進むことと思うと、藁山に落とした一本の針を探す方がまだましだ。
「……いつか、終わりが来る」
万松柏の絶望を感じ取ったかのように無忌が呟く。
「陽界に戻れる」
無忌なりに自分を励ましているのだと万松柏は思った。万松柏は笑顔で「そうだな」と答えると、無忌が導く方向へと再び歩き出した。
時間すら止まってしまったような旅の中、二人はついにかすかな水音を聞いた。はっと顔を見合わせて地面の気を探ると、最初とは比べものにならないほど陽の気が濃くなっている。
そして陽の気は、万松柏にも分かるほどしっかりした流れを持っていた。幽川が近い――二人はにわかに盛り返した気力のままに足を進め、ついに川岸にたどり着いた。
墨で塗りつぶしたような漆黒の流れに、木の葉のように頼りない小舟が幾艘か浮いている。言うまでもなく、これが陰陽の世界を繋ぐ幽川だった。
小舟は岸に繋がれるわけでもなく、ただ流れに合わせてぷかぷかと揺れているのみだ。一番近くに浮いていた小舟に乗り移ると、川とは思えないほどもたついた波が足元から伝わってきた。それでも小舟は二人分の渡し木と櫂がついていて、人を乗せて操縦できるようになっている。獄卒たちが死者を連れてくるのに使うのだろうか――万松柏は思わず浮かんだ考えを慌てて打ち消した。そんな不気味な想像をするのは今でなくてもいいはずだ。
無忌は慣れた手つきで解を取ると、流れに逆らって小舟を動かし始めた。万松柏はただ座っているだけになってしまったが、かといって楽しめる景色も黄泉にはない。話題も思い浮かばず、相変わらずの破れない沈黙が小舟の二人を支配している。
そんなとき、ふいに無忌の表情が険しくなった。同時に万松柏もあるはずのない気配を感じた。
黒く重くのしかかる、邪にして闇の気配。影から忍び寄るような奇妙さを持つその気配に気付いたそのとき、小舟が突然大きく揺れた。
「魔偶か⁉ でもどこに……」
無忌が櫂を必死で握り、万松柏はあたりを見回す。が、両岸に広がる一面の虚空には魔偶の姿は見当たらない。
まさかと思った瞬間、もったりした水の中からか細い腕が伸びてきた。一直線に手を掴んできた黒い腕に万松柏は思わず声を上げ、振り払う要領と同時に掌気を見舞う。砕かれた細腕がぽちゃぽちゃと水に落ちる中、一瞬、青白い光が暗い水面を照らし出した。
万松柏はぎょっと目を見開いた。上澄みだけしか見えなかったとはいえ、金色の目を鈍く光らせた大量の魔偶が水中にひしめき合っていたのだ!
「こいつら、水中に⁉」
驚きの声を上げる万松柏に、無忌がはっと振り返る。無忌は櫂を取り上げて一振りすると、内功を込めて水中に叩きつけた。
暗い光が水中でひらめき、物悲しげな悲鳴とともに魔偶が砕けて泡となる様子が一瞬だけ見えた。しかし魔偶は仲間の破片を押し退けるように群がり、無忌が櫂を振り回し、万松柏が手当たり次第に掌気を放ってもなお数を増やし続けている。危険を冒してでも仙術で一掃するべきか、万松柏は思案した――その一瞬の隙を突いた魔偶が、化け物じみた細腕で万松柏の腕を捕まえてしまった。
万松柏は細腕を払い、反対の手で打とうとしたが、いやに力が強くて振り払えない。躍起になって一足飛びに掌気を食らわせた万松柏だったが、その反動で大きく船が揺れた。
無忌が櫂を突き立てて耐える中、万松柏は船べりに手をついて体を支えようとしたが、間髪入れずに別の細腕が襲ってきた。
身をよじって避けた途端にぐらりと嫌な浮遊感がした。次いで身体が水を打つ衝撃。まとわりつくような嫌な感触から逃げようと、万松柏は必死に水面を目指した――
「遠春!」
よく通る、しかし落ち着きのある子どもの声が響く。何事かともがくのを止めた万松柏の目に映ったのは、こちらに向かって手を振る鳶色の目をした少年だった。
いつか夢に出てきた無忌だ。万松柏ははっと目を見開き、思わず少年の方に手を伸ばした。
「師兄!」
すると、後ろから別の少年の声がした。無忌のものよりも溌溂として明るく、まだ幼さを感じさせる男児の声だ。
振り返った万松柏は、笑顔で手を振り返す少年を見て絶句した。
髪を後頭部で丸く結い上げ、仙師の制服に身を包んだ、元気を絵にかいたような少年。それは紛れもなく、幼い頃の万松柏だったのだ。
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