第三十話
万松柏は歯ぎしりした——結界に閉じ込められてしまったのだ。仙術を使えば簡単に破れるのではないかと思ったものの、前のような消耗は避けなければならない。この場はなるべく体力を温存しなければ、今度こそ閻兄弟に捕まってしまう。
「君がいる間に学ばせてもらったけど、無忌って思ったよりずっと単純だね。やり方さえ心得れば魔丹がなくても好きに動かせるかもしれない」
閻南天は迷い出た飼い犬を見つけた子どものようににこにこ笑っている。万松柏は彼のこの態度が引っかかっていた。閻狼摩と違って、怒りや敵意が感じられないのだ。騙し討ちにあったことも殴られたこともすっかり忘れているかのような——あるいは、歯牙にもかけていないような笑顔。閻南天にとっても失態だったはずなのに、そのことにまるで意識が行っていないようだ。
「閻南天。何が狙いだ」
万松柏は丹田に力を込めた。内功で増幅された声が結界を刺激し、殺風景な景色が波を打って揺れる。
「お前らがほしいのは無忌だろうに、俺を捕らえてどうするんだ?」
「それはもちろん、無忌を従わせる餌にさせてもらうのさ。兄さまの強硬手段は無忌には効果がないからね。だから君を餌にしてあいつの反抗心を抑え込む。なんなら二人揃って魔偶にしてもいい……彼と添い遂げたいなら、魔偶になるのも悪くないんじゃない?」
閻南天は名案だとでもいうようにポンと手を叩く。もちろん万松柏にとってはたまったものではない。
「だが、誰でも魔偶になれるわけでもないんだろう。特に修為がある者は反噬を起こして死ぬことが多いんじゃなかったか?」
万松柏は毅然と言い返した。お前の論で行くならば、俺が死んだら無忌を従わせる術がなくなるぞと暗に脅しをかけたのだ。
が、閻南天は万松柏の期待とは裏腹に、大声で「ハッ!」と笑い飛ばした。
「それも良いじゃないか! 信条を失えばあいつはただの操り人形だ。それこそ真に完成された魔偶だよ! 兄さまが求めてやまないものだ!」
万松柏は無意識に後ずさった。哄笑する閻南天には、かつて抱いた好青年の印象はかけらも見られない。狂っている――そう思わずにはいられなかった。兄の閻狼摩に対する盲信と執念が、彼の中にあった真っ当な考えを吹き飛ばしてしまったようだ。
「なら、俺をどうするつもりだ」
苦々しい気持ちを押し殺して万松柏は問うた。ろくな答えが返ってこないと分かっていながら投げる問いほど嫌なものはない。
「もちろん、連れて帰るのさ。できれば兄さまが無忌を捕らえるより先にね。あいつを完全に従わせる術があるなら兄さまは満足なさる。このままじゃ怒りのあまりあいつを殺しかねないし、魔界としてもそれは困るわけだよ。だから落ち着いてもらわないと」
――それで上手く事が運んで閻狼摩の気が済んだ暁には、俺は晴れて魔偶の仲間入りってことか。
万松柏はぐっと奥歯を噛みしめた。気性の荒い飼い犬をなだめるような口ぶりがかえって厄介だった――閻南天の動機が怒りでない以上、一時の衝動を利用して逃げる手が使えない。
「……こいつ、あんな兄貴が本当にいいのかよ」
万松柏はため息とともに独り言ちた。軍の指揮官たる風格はあるのかもしれないが、衝動的で暴力的な兄など願い下げだ。万松柏には血のつながった兄弟はいないが、もし自分が弟になるならば、閻狼摩は絶対に縁を切りたい手合いだ。
ところが、閻南天は小声で呟かれたこの言葉をしっかり聞き取っていた。
閻南天の顔からすっと温度が消えたと思うと、次の瞬間には崖下の方陣の中に飛び降りていた。膝を軽く払って立ち上がった閻南天は、先ほどまでの笑顔はどこへやら、骨の髄まで凍らせるような凶悪な目付きで万松柏を睨んでいる。
「兄さまを悪く言ったな?」
朗らかな声が一転、地獄の使者のような低さで唸る。万松柏がまずいと思ったのも束の間、閻南天は一直線に襲いかかってきた。
だが、ぶつかり合うときには万松柏は分かっていた。内功や経絡、医術の知識こそあれど、振りかざす拳は武芸を研鑽した者のそれではない。
閻南天が唸り声とともに放った拳を万松柏は軽々と払いのけ、下から突き出された小刀を容赦なく叩き落とした。顔をしかめる閻南天の鳩尾に全力で拳を叩き込むと、閻南天はウッと呻いて崩れ落ちてしまった。
閻南天が倒れると同時に、周囲を取り巻く邪気が不安定に揺れた。万松柏は深く呼吸をして気を練ると、空に向かって剣指を突き上げた。
青白い光が結界を突き抜け、鈍色を裂いてほとばしり、花火のように爆ぜる。仙門の救援信号だが、万松柏は、無忌ならきっと見つけてくれるという自信に満ちていた。
ふと、足元の閻南天が身じろぎした。万松柏は内力を込めたままの剣指で閻南天の経穴を数か所、立て続けに強く突いた。
声にならない呻き声とともに閻南天が倒れ伏す。かなり内力を込めたからしばらくは解けないだろう――万松柏が一息ついたそのとき、結界がはらりと瓦解した。
背後に万松柏のよく知る、黒くも温かい気配が立ち尽くしている。軽功を駆使して急いで駆けつけたのだろう、肩で息をしているのがまるわかりだが、ためらうように無言を貫いている。万松柏は少し笑うと、自分からゆっくり振り返ってみせた。
そこには無忌が立っていた。絹糸のような黒髪は乱れて広がり、呼吸を落ち着けている真っ最中だ。金色の瞳に急速に広がる安堵を見届けると、万松柏はにかっとと笑ってみせた。
「俺も捨てたもんじゃないみたいだな」
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