第二十九話

 漆黒の闇が徐々に薄れ、鈍色の朝がやって来た。思いのほかすんなり目が覚めた万松柏は、横たわったまま洞窟の中を見回した。

 まだだるさは残るものの、昨日のような強烈な虚弱感はない。ひとまず安堵した万松柏だったが、途端に、昨晩暗闇の中で無忌と繋がったことを思い出してしまった。


 体の奥深くがうずき、彼と繋がった場所が記憶を主張する。万松柏は首元から耳の先端までが瞬時に赤くなるのを感じた。身体の中心までもがわけもなく反応してしまう。


 なんてこった、と万松柏は心の中で悲鳴を上げた。無忌なりに策があるのだと納得して身を任せたのに、そのせいで今までにないほど強烈な心中の魔に襲われているなんて! 万松柏はたまらず起き上がると、しつこい羽虫を追い払うようにかぶりを振って、両頬をバチンと打った。

 衝撃と痛みは一時的に熱を退かせ、万松柏は戻ってきた正気に全身を馴染ませようとぎゅっと目を閉じた——


 そろりと目を開けると、洞窟の隅に一人佇む無忌の姿が見えた。胡坐をかき、背筋を伸ばして、深く長い呼吸を繰り返している。調息で内功を整えているのだとすぐに分かった。

 それを見ているうちに、万松柏は無忌の意図がなんとなく読めてきた。立ち上がることすらできないほどに消耗した万松柏をどうにか回復させるべく、自らの精と陽気を明け渡したのだ。こうして休んでいる間にも閻狼摩たちが迫っていることを思うと、時間をかけてゆっくり回復するのはたしかに非現実的だ。

 それに、房中術のことは万松柏も知っていた。仙術の体系にはないが、男女が陰陽の気をやり取りすることで互いの生気を保つというものだ。龍陽にも当てはまるのかは定かではないが、今体内を無忌の気が巡っていると思うと、何ともいえない温かい心地がした。


「なあ、無忌……」


 万松柏が声をかけると無忌は静かに目を開けたが、すぐに顔を背けてしまった。まるで万松柏を見ないようにしているかのようだ。


「無忌」


「私を見るな」


 ぼそりと返ってきた言葉は、卑下と後悔に塗れていた。


「だが、」


「民間の邪法にかこつけてお前を襲った。私は……私は、犬畜生も同然だ」


 無忌はかたくなに目を逸らし、絞り出すように自分を罵る。金色の目が水鏡に映った月のように揺れているのを万松柏は見た。

 その目は、昨夜と同じ、取り返しのつかない過ちを犯した者の目をしていた。


「……でも、おかげで俺は回復したぜ。普通なら丹薬を飲んで数日は養生しなきゃいけないところを、たったの一晩で」


 万松柏は静かに反駁したが、無忌はかたくなに首を横に振る。


「そりゃ、最初に気付いたときは驚いたし、怖かったけど。でも、お前が方法がどうとか言うのを聞いたらどうでもよくなった。また俺を助けてくれたんだろ? それでちゃんと助かったんだから、それでいいじゃないか?」


 一瞬、金色の目が万松柏を見た。しかしすぐに視線は外れ、閉じた瞼から一筋の涙が流れ落ちる。

 万松柏は立ち上がり、以前のように無忌を慰めようとした――しかし、


「来るな!」


 霹靂のような声が万松柏を打つ。驚いて固まった万松柏には目もくれず、無忌は立ち上がってさっさと姿を消してしまった。


 独り残された万松柏は、無忌が立ち去ったあとをなすすべもなく見つめていた。

 万松柏を一刻も早く回復させるために、失望される覚悟で、拒絶される覚悟で、人の道を外れることを選んだ。そんな自分を赦そうとしている万松柏がかえって牙となり、無忌の心に刺さっているのだ。


 一人を守るために劫を背負うと言った無忌の声が、なぜか耳にこだました。別の誰かのことだとずっと思っていたが、実は無忌は万松柏のことを言っていたのではないか。道を外れ、悪鬼羅刹に堕ちようとも、万松柏を生かすことが無忌が己に課した使命なのではないか――そう思い至ったとき、今度は万松柏を「遠春」と呼んだ無忌の声が脳裏によみがえった。


「……まさか。そんなわけない」


 ふと思い浮かんだ可能性を万松柏は一笑に付した。今「遠春」という人物について考えると、どうしようもなく悲しくなってくる。

 万松柏はゆっくりと立ち上がると、気分を入れ替えるように大きく伸びをした。声とともに息を吐き、「よし!」と気合を入れる。足元は少し頼りないが、歩けないほど弱っているわけではなかった。


 念のために剣を背負い、洞窟の外を見回す。地面には砂利を踏みしめた足跡が残っていた——きっと無忌のものだ。

 万松柏は息を吐くと、足跡を追って歩き出した。



***



 足跡は進んでいた方向に向かって伸びている。他に行く先もない一本道だからと、万松柏は迷わずに足跡を追いかけた。どこまで続くのか、回復しきっていない身体が疲労を訴えはじめたころ、谷がぱっと開けた——


「無忌?」


 万松柏は周囲をうかがいながら一本踏み出した。


 その瞬間、足元で弾けるものがあった。まずいと感じたのもつかの間、万松柏の足を起点に地面を緑色の線が紋様を描き出す。

 方陣に囚われてしまったのだ。すぐに引き返そうとした万松柏だったが、振り返った途端に目の前で邪気が弾けて後退りした。


「やっと追いついた!」


 場違いなほど上機嫌な声が頭上から降ってきた。見上げると、喜色満面の閻南天が崖の上に立っている。茶色の前髪がふわりと浮くと、無忌に殴られた紫色の跡が見え隠れした。


「無忌の奴も手こずらせてくれたものだよ。でも、僕に言わせれば、あいつは君がいればどうとでもなる」

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