第二十八話
どのくらい走ったのか、ふと無忌が万松柏の肩を叩いた。弱々しい合図だったが、万松柏はすぐに速度を落として立ち止まった。
二人がいるのは細い峡谷の一本道だ。道も分からない魔界で、とにかく閻狼摩から距離を取ることだけを考えて飛び込んだのだ。その間無忌は一言も発さず、ぐったりと万松柏に全身を預けていただけだ。
ところが、立ち止まった途端に無忌は万松柏から距離を取り、よろよろと膝をついてうずくまってしまった。
「無忌、どうした⁉ 大丈夫か?」
万松柏は驚きと心配のあまり谷中に響く声で叫んでしまった。慌てて駆け寄って起こそうとしても、無忌は頭を垂れたまま動こうとしない。あまりに頑なな態度に、万松柏は違和感を覚えた――先の一戦で怪我をさせてしまったのか、閻狼摩とのせめぎ合いで重大な傷を負ったのか、様々な不安が頭の中で渦巻いているが、どうもそうではないらしい。
何事かと首を傾げる万松柏の耳に、小さく掠れた声が届いた。
「すまない。万松柏」
「……なんだって?」
思わず聞き返す万松柏。無忌は垂れていた頭をようやく起こすと、万松柏を見据えて言った。
「我を失った。お前を殺そうと……すまない」
無忌は謝りながら、緩慢に頭を下げていく。ようやく合点が行った万松柏は慌てて無忌を起こさせた。
「そんな、やめてくれ! あれは仕方がなかった、だろ? お前が最後まで抗っていたところはちゃんと見ているし、俺は何も怒っちゃいない」
伏せられた目をあえて覗き込むと、無忌は罪悪感のあまり泣き出しそうな顔になっている。万松柏に醜態をさらした己が、万松柏を危険にさらした己が、恥ずかしくて恨めしくてたまらないのだろう。
「なあ、そんな顔しないでくれよ。せっかくの
万松柏がわざと軽い調子で言葉をかけても無忌の表情は変わらない。万松柏はため息をつくと、うつむいたままの無忌をぎゅっと抱きしめた。
逞しい肩がぴくりと跳ね、続いて震える吐息が聞こえてくる。無忌は腕を伸ばして抱擁を返すと、涙の混じった声で謝罪の言葉を繰り返した。
二人が旅を再開したのは無忌が落ち着いてからだった。
切り立った崖に隠されて太陽の位置は見えないが、周囲がまだ明るいあたり日はまだ落ちてはいないらしい。
先導の役は再び無忌が担い、万松柏は半歩後ろをついていく。万松柏の懸念どおり、でたらめに退路を進んだせいで当初の道からは大きく逸れているようだった。無忌は最初こそ地面に手を置いたり、日光や風の向きを読んだりしていたが、やがて諦めたようにかぶりを振ってこの峡谷を出るとだけ告げた。万松柏は大人しくそれに従った――道の両側の崖は日の陰りもろくに分からないほど切り立っている上、無忌はまだ先の戦いを引きずっている。そもそも魔界の地理が全く分からなくてこうなったのだから、下手に口出しするわけにもいかない。
無忌は何もないふうに振る舞っているが、足取りがまだ不安定で、ちょっとした小石につまづいては転びそうになっている。やはり内傷を負っているのだと万松柏はすぐに気付いた。夜になる前にどこかで休息を取るよう促してみよう、万松柏はそう決めて口を開きかけた――
そのとき、胸に刺すような痛みが走った。息が詰まって目の前が白飛びし、その場に倒れ込んでしまう。とっさに口元を覆った手には生温かい感覚が触れ、口いっぱいに鉄錆の味が広がる。
手足が急に重く冷たくなったように感じられる。気の流れが滞っているのがいやでも分かった。
「万松柏!」
無忌の慌てた声がした。手首に無忌の指が触れ、崖に上半身をもたせかけるようにして起こされる。胸の中心に無忌の手が当てられ、力強く温かい内功が注がれた刹那、万松柏はもう一度悪血を吐いた。
「内傷が重い。気が足りぬ」
「……やっぱり……やりすぎたか……」
目の前にいるはずの無忌もぼやけて見える。ただでさえ消耗する術を陰の気が満ち満ちた空間で無理やり展開したのだ、万松柏も覚悟はしていたが、思ったよりもひどい状態らしい。
混濁した意識の中、万松柏が最後に感じたのは膝と腰を抱かれて持ち上げられる感覚だった。
***
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