第二十七話
閃光が走り、先頭の墨汁が真っ二つに裂けて波と消える。無忌が縦横無尽に剣を振るう横で、万松柏も布に包んだ剣を構える。が、最初の攻撃は全て空振りに終わった。閻狼摩が操る怨念は姿形こそあるものの、流水を殴っているように手応えがない。無忌が切り裂いた怨念も地面に落ちたそばから形を取り戻し、打ち寄せる波のようにあとからあとから湧いてくる——万松柏は剣を背中に直すと、代わりに掌気を駆使して怨念を浄化することにした。蟻のように湧き続ける魔偶も厄介なことこの上ないが、少なくとも踏めば潰れて一体分の戦力を削ぐことができる。それができない相手は魔偶以上に厄介だ。
無忌は変わらず剣を振るい続けていたが、白く光る剣身には陰の気がまとわりついている。陰の気から生まれた怨念に過剰な陰の気を与えることで消滅させようとしているのだ。真っ黒い中に切先の軌道が映るさまは雲間を縫って現れる流星のようだったが、無忌の顔はいつになく険しく、焦りさえ滲んでいる。
「無駄だぞ、鋒。そこの仙師殿のように浄化の術が使えるならまだしも、こいつらと同じ存在のお前が足掻いても効き目はない」
閻狼摩の嘲笑が響く。無忌は苛立ちもあらわに柳眉を跳ね上げたが、その一瞬の隙に攻撃をもろに受けてしまった。
「ぐ……!」
途端に無忌の太刀筋が乱れる。歯を食い縛り、襲いくる波をどうにかいなしてはいるが、片手で頭を押さえてふらふらと套路を踏んでいる。振り乱した前髪の間から覗く金色の瞳は何かに抗うように苦しげに歪み、血走っていた。
閻狼摩はしたり顔で印を結び変え、墨汁の群れに無忌を襲わせる。駆けつけようとした万松柏はあっけなく押し流され、無忌はぽっかり空いた空間についに膝をついた。
耳障りな咳とともに無忌が喀血する。カラン、と軽い音を立てて剣が地に落ち、無忌は地面に倒れ込んでしまった。四肢には鎖のように墨汁が絡みつき、なおも逃れようとする無忌を強引に押さえつける。
万松柏は怨念を掻き分けてどうにか近付こうとしたが、足を掴まれて転びそうになってしまった。怨念に全身を封じられ、その上足元も固められて身動きが取れない——全身の肌を焼くような怨念に、万松柏は次第に気分が悪くなってきた。どうにか運功を続けるものの、一瞬でも集中が途切れたら一巻の終わりだ。
そもそも、足場そのものが怨念でできている以上、閻狼摩は無限に使える力を得たも同然だった。印を結んだ手には黒い邪気が集まり、勝ち誇った顔で這いつくばる無忌を見下ろしている。
「鋒よ。その白凰山の仙師を今ここで殺すなら見過ごしてやらんこともない。過ちは誰もが犯すものだからな」
——この男、とんでもなく歪んだ性根の持ち主だ。万松柏はつくづくそう思った。閻南天に対してもそうだったが、下に見る相手に対してとことん横柄だ。
「仙師を殺せ。鋒」
傲慢な目がすっと細められる。冷徹な声とともに無忌の拘束が解けたが、ゆっくりと身を起こした無忌は剣こそ掴んだものの動こうとしない。
「これは命令だ。仙師を殺せ。奴の屍を持ち帰るのだ」
閻狼摩が語気を強めると、無忌はふらつきながら立ち上がった。振り乱した黒髪の隙間から覗く顔は苦悶にねじれ、食いしばったほの赤い歯の間からは唸り声が漏れている。
金色の瞳が自身を貫いたとき、万松柏は無忌が魔偶の本能と己の意識との強烈なせめぎ合いの最中にいるのだとすぐに分かった。今は万松柏を守るという意志が辛うじて勝っているようだが、だらりと地を向いた長剣がいつこちらに向くか分からない。
「無忌、だめだ!」
万松柏は夢中で叫んだ。一瞬、我に返ったように無忌の表情が緩んだが、すかさず閻狼摩が「鋒!」と声を上げる。
「お前の主人は私だ!」
その一言で、無忌の目から光が消えた。追い詰めた命を愚直に狙う冷たい視線が万松柏を貫く。万松柏は歯ぎしりした——このままでは、白凰山に行くどころか、魔界から逃げることができない。
無忌は真っ直ぐに万松柏を見据え、剣を構え直してゆっくりと近付いてくる。万事休すかと思ったとき、万松柏は背中に軽い振動を感じた。
清廉で澄んだ力が、万松柏を奮い立たせるように震えている。背中の剣が邪気に耐えかね、封印を破って飛び出そうとしているのだ。仙師の使う剣はどれも降魔の力を秘めているとは言われているが、長い戦いの人生の中で剣そのものが邪気に反応したのは初めてだ。
あるいは、剣が魔界の真ん中で上下左右を怨念に囲まれているという特異な環境にあるからか。無忌が足を速める中、万松柏は一か八かで背中の剣を掴んだ。
無忌は剣を水平に横たえ、一足飛びに間合いを詰めてくる。
怨念が真っ二つに割れて魔鋒に道を開ける中、万松柏は黒い布に包まれたままの剣で最初の一撃を受けた。
やや鈍い剣戟の音とともに、千斤はあろうかという衝撃が万松柏を襲う。万松柏はぐっと踏みとどまって耐え、手の中で震える剣に内功を送り込む。
黒い布が爆ぜ、曙光のような白い光が四方を照らす。間近にいた怨念はあっけなく消し飛び、無忌もまた顔を覆って後ろに飛び退く中、万松柏は剣を鞘走らせた。特別な力を帯びた剣ではないが、降魔の性質そのものが戦う力を与えてくれるような感覚だ。閻狼摩さえも顔の前に手をかざし、剣の光に驚きを隠せずにいる。
その実、長年この剣と共に戦ってきた万松柏にとっても、この変化は初めて見るものだった。が、今は驚いているひまはない。
万松柏はその場で回転し、切っ先で地面に紋様を描いていく。最後の一筆を書き終えると、万松柏は剣身をなぞって大声で叫んだ。
「聖焰滅魔!」
唱えると同時に剣を地面に突き立てると、万松柏を起点に青白い炎の渦が巻きおこった。燃え広がる炎は怨念を蒸発させ、防御を取った無忌と閻狼摩を吹き飛ばす。
さらには山そのものが揺れ始め、太古の怪物の慟哭のような地鳴りがした。浄化の炎が方々で噴き上がり、砂やれきを跳ね飛ばす中、万松柏は膝をついて頭を押さえている無忌に一直線に駆け寄った。
「無忌! 大丈夫か?」
隣にしゃがみ込み、服の裾に付いた炎を手で払う。顔を覗き込むと、無忌はまた何かに抗うような苦悶の表情を浮かべていた。それでも万松柏に気付くと、すがるような目を万松柏に向ける。正気を全身に受けたからなのか、魔偶の本能が一時的に弱まっているのだ。
「行こうぜ。今のうちだ」
促すように腕を引くと、無忌はふらつきながらも立ち上がった。万松柏は無忌の脇の下に入り込むと、支えるように背中に手を回した。
「戻れ、鋒!」
さすが軍師を務めるだけあって、閻狼摩は衝撃から早くも立ち上がっている。万松柏はそんな敵を一瞥すると、再び剣に内力を込めた。
万松柏は剣を振りぬき、青白い炎の壁を作り出した。伏魔の炎は魔界の軍師といえどそう簡単に破れるものではない。
万松柏は無忌の身体を抱え直すと、軽功を使って一息にその場を離れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます