第二十六話

 両足が外に出た途端、けたたましい音を立てて背後で門が閉まった。中の連中をことごとく起こしてしまいそうな轟音に、万松柏は思わず肩を跳ねさせた。

 対する無忌は顔色ひとつ変えず、空いている手に剣指を作って胸の前で構えた。指先に灯った光を飛ばして前方を探り、道を確かめてから万松柏の手を引く。


「こちらだ」


 光が通ったとき、道の両側に一瞬植物のような影が見えた——歩き出すと果たして、布靴の底から枯れ草と砂利の感触が伝わってくる。どうやら二人は森の中を歩いているようだったが、視界は相変わらず鈍色で、まさかそうとは思えない。


「魔界の朝靄ってのはこんなに濃いのか?」


 万松柏が尋ねると、無忌は無言で頷いた。手を繋いでいるおかげで彼の顔はもやに包まれず、はっきりと見えている。

 歩を進めていると、鈍色だった視界が少しずつ白けてきた——ねじくれた裸の木々の姿がはっきり見えるようになったが、それでも雲か煙の中を歩いているのかというほど霧が濃い。この頃には、この霧が瘴気を帯びていると万松柏は気付いていた。気の流れを保っていないと、たちどころに中毒に陥ってしまうほどだ。すぐ横を行く無忌は至って涼しい顔だったが、耐性があるのか、同じように調息で耐えているのを悟られまいとしているのかは分からない。


 時折、獣のような叫び声がこだまのように聞こえると、無忌は足を止めて音の出所を探った。


「あいつら、遠いのか?」


 何度目かの遠吠えがしたときに、万松柏は思い切って聞いてみた。戦う覚悟がないわけではないが、魔界の真ん中で仙師の剣を抜き身で振り回すのは自身の居所を敵に教えるようなものだ。


「遠い」


 無忌は一言だけ答えると、万松柏の手をきゅっと握り直した。


「離れるな。迷うと死ぬ」



***



 どのくらい経ったのか、白い空を焼くような暗い太陽が現れた。真上に近い位地にぽっかりと浮かぶそれが人間界と同じ理で動いているとするならば、ちょうど昼頃といったところか。


 ねじくれた木々の小道はとうに終わり、今度は見渡す限りの灰色の荒野が続いている。砂利道は急な勾配を描き、二人は一度の休息を挟んだのみでひたすら道を急いだ。

 坂道は風が強く、吹き付けるたびに何とも知れない異臭が運ばれてくる。前を行く黒い背中以外には動くものもなく、誰かが住んでいる気配も感じられない。

 今にも破れそうな布靴が滑り、転びかけて地面に手を付くと強烈な邪気が這い上がってくる。万松柏は驚きの声とともに立ち上がったが、体勢を直しきれずに尻餅をついた。

 異変に気付いた無忌がすぐに飛んでくる。手を差し伸べられたときには万松柏はもう立ち上がっていたが、それでも「ありがとう」と言って無忌の手を持った。


「だが何なんだ、この山は? 土地全体が邪気に侵されてるぞ」


「戦で滅びた城だ」


 無忌が淡々と答える。が、口調と全く釣り合わない事実に万松柏は飛び上がらんばかりに驚いた。


「城がこんな山になるのか⁉︎ まさか、この砂利は屍が……」



「そのとおり。ここは我らが魔帝を脅かした最後の敵の居城跡です」


 ふいに居丈高な声が響き渡った。万松柏が振り返ると、閻狼摩が単身、二人の背後に陣取っている!


「魔帝はその父君より現在の居城を与えられましたが、己が支配をよりたしかなものにするために、密かに謀反を企てました。そして夜の闇に乗じて自らの父親を城ごと焼き打ちにしたのです。城下の魔族全てが犠牲となり、その灰は天高く舞い上がったのちに魔界じゅうに降り注ぎました——しかしながら、十分すぎる怨念のこもった灰が降ったせいで魔界じゅうで疫病や殺戮が起こりました。策を講じた魔帝は灰を全て焼け跡に積み上げさせ、邪気をひと所に封じられたのです。邪には邪を、素晴らしいとまでは行かずとも、まあ妥当な策でしょう」


 閻狼摩が話す間にも、無忌が万松柏を庇うように前に出る。万松柏は無忌を下がらせようとしたが、どれだけ腕を引いても微動だにしない。


「無忌、危険だぞ!」


 思わず小声で叫んだ万松柏だったが、無忌は目だけで振り向いただけだった——その目は、万松柏もよく知るものだ。


 死の覚悟を決めた者の目。万松柏を守るために犠牲になった弟弟子も、同じ目をしていた。


 サッと背筋が冷えた。無忌もまた、万松柏を守るためなら死も辞さない構えなのだ。


 閻狼摩は初めこそ物見遊山にでも来たかのような調子だったが、打って変わって冷たい息を吐いた。二人を心の底から軽蔑し、そして内側では怒りに燃えているのだ。


「よくもまあ私の目を盗んでくれたものだな、鋒よ」


 底冷えする声に、足元の砂利が揺らぐような錯覚を覚える。違和感を感じた万松柏は、靴底から伝わる邪気にこっそり意識を向けた。同時に丹田の気を全身に巡らせる——閻狼摩が何をするにせよ、不意打ちだけは避けたい。


「それにあの愚弟もだが……主犯がお前となれば話は別だ。私を怒らせた代償は大きいぞ」


 閻狼摩はそう言うと、素早く両手を持ち上げて印を結んだ。途端に地面が唸り出し、そこここに墨汁のような人影が立ち上がる。

 無忌が剣を抜き放った。万松柏も布に包んだままの剣を構える。山と積まれた怨念が魔術によって形を得たのは明らかだ。


「貴様ら二人、まとめて葬り去ってくれる!」


 閻狼摩の怒声とともに、墨汁たちは一斉に万松柏と無忌に襲いかかった。

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