第三章:逃避行

第二十五話

 その夜、万松柏は不安なまどろみと覚醒を繰り返していた。目を閉じれば混沌とした追憶に襲われ、目を開ければ一面の闇が広がっている——その大半を規則正しい無忌の寝息が占めているのがせめてもの救いだった。逞しくて温かい無忌の体温を少しでも感じようと、万松柏は向かい合って眠る無忌ににじり寄った。

 無忌は万松柏が体が付くほど近寄っても全く目を覚さない。無忌らしいと一人微笑を浮かべ、もう一度目を閉じた万松柏だったが、まどろみは相変わらず乱雑な夢に支配されていた。


 沈萍たちを率いて魔偶と戦っていたかと思えば、五歳の頃の拝師の光景に変わっている。しかし拝んでいる相手は暁晨子ではなく、今から訪ねようとしている伯父弟子の暁雲子ぎょううんしで、そうかと思えば今度は自分が死んだ弟弟子の腕を引いている。転んで怪我をした沈萍を慰めていたはずが、今度は自分が同じように見ず知らずの年長の弟子に慰められていて、夜の回廊を鳶色の瞳の少年とともに忍び足で歩いていたかと思いきや、比連と二人、野晒しの軒下に身を寄せ合っている。自分の記憶と誰かの記憶が一緒くたになっているようだった——しかも時折出てくる鳶色の目の少年は、成長すると無忌に変わった。夢の中の無忌は相変わらず万松柏を「遠春」と呼び、そうかと思えば暁雲子と初めて出会った生家の光景が浮かび上がる。いつにも増して混沌とした夢はしかし、現実の無忌の一言によって打ち破られた。


「松柏」


 万松柏はハッと覚醒した。暗がりに一対の金色の瞳が浮かび上がり、視線がおのずと絡まり合う。無忌に名を呼ばれて起こされたのだと気付いた瞬間、えも言われぬざわめきが胸の中で渦巻いた。


「一刻だ」


 無忌が静かに告げる。万松柏はざわめきを押さえつけながら頷いた。

 一刻——あと一刻で、閻南天が無忌の様子を見に訪れる。無忌も万松柏も、彼が毎日決まった時間に現れることを把握していた。

 万松柏は素早く布靴に足を入れると、寝台の下に隠していた剣を取り出した。朝の支度に取りかかる無忌とは裏腹に、万松柏はすでに連れ去られたときの衣服に身を包んでいた。

 伏魔師として着ていた装束は、洗われて繕われてはいるものの、古ぼけて今にも破れそうな雰囲気は変わらない。万松柏は無忌が差し出した布を隙間なく剣に巻きつけてから背中に渡した——正気純然たる仙師の剣は、何もせずとも降魔の覇気を放っている。陰の世界では目立ちすぎるため、魔の気の染み付いた無忌の衣服を切り裂いて封印に使うことにしたのだ。

 無忌がゆっくりと支度を整える中、万松柏は早々に厨房へと姿を消した。閻南天が来る前に事を起こしては即座に問題になる、なら彼が来てから動こうというのが逃亡の第一歩だった。匿ってくれた閻南天を裏切るのは心が痛むが、彼がいつ心変わりをするか知れたものではないのもまた事実だ。そうなる前に逃げてしまおうというのが万松柏の算段だった。そして無事に白凰山まで逃げおおせたら暁雲子に助けを求めるのだ。


 無忌が衣を整えている間に、扉を軽く叩く音がした。閻南天の声が来訪を告げ、無忌がいつもどおりに扉を開ける。万松柏は内功を巡らせ、物音とともに二人の気息を伺い始めた。

 おはよう、今日の調子は、と何気ない会話が続く。袖が捲られる音がして、少しの沈黙が流れる。


 次の瞬間、驚愕の声とともにドスン、ガチャンという音がした。


 それを合図に万松柏は隠れ場所から飛び出した。倒れた卓の向こうでは、投げられ、床に縫い留められた閻南天は困惑と衝撃に顔を歪めている——が、喉元を押さえつけた無忌が一切の反抗を許さない。煌々と光る金色の目が獲物を睨みつけ、完全に威圧していた。


「お前ッ……逆らうのか……!」


 閻南天が唸り声を絞り出す。無忌は何も答えず、拳を握りしめて閻南天の頭を殴打した。

 閻南天はあっさり気絶した。無忌は涼しい顔で伸びている青年を見下ろしている。己の出る幕はどこにもなく、あっけない幕開けにいささか驚きつつも、万松柏は悪くはないと思い直した。


「よし——無忌、何をしてる?」


 万松柏が剣を背負う間に、無忌が閻南天の懐を漁っている。怪訝そうに問うた万松柏に、無忌は探り当てたあるものを差し出した。


「これがいる」


 それは一枚の木札だった。見たこともない文字が縦横無尽に並べられ、さながら方陣の体を成している。

 通行証か何かだと合点した万松柏は、頷いて無忌の手を押し戻した。


「それはお前が持っていてくれ。こいつが起きる前に行こうぜ」


 無忌は頷くと、早速扉を開けた。二人は素早く廊下に滑り出した——最後に万松柏が見たものは、茶色の巻き毛の間から血を垂らして横たわる閻南天の姿だった。



 暗い廊下を先導して走るのは無忌だった。隷属の身とはいえ長年暮らしてきただけのことはあり、どこに行けば外と繋がるのか知っているのだ。

 夜明けが近いはずなのに、魔界の空は異様なまでに暗く、等間隔に並ぶ松明の明かりをも覆い尽くしてしまいそうだ。そんな闇に紛れそうな黒い背中を追って万松柏は回廊から庭に降り、迷路のような造形の隙間を縫って走った。岩や木々が作り出すさらなる陰影のおかげで庭はまだまだ真っ暗で、軽功で駆けるふたつの影を上手く隠してくれている。一度、巡回の魔偶がぬっと現れたが、無忌が鞘に入ったままの剣で即座に殴り倒してしまった——あまりの容赦のなさに驚いた万松柏が尋ねると、無忌は煌々と光る金色の目を向けてこう答えた。


「お前を守る」


 たったの一言、それも感情のない平坦な声。しかし、月より明るい一対の目が彼の胸の内を物語っていた。


「ありがとう。心強いよ」


 万松柏が応じると、無忌は身を翻して走り出す。羽のように軽く駆ける無忌に遅れを取るまいと、万松柏も軽功を駆使して黒い背中を追いかけた——走りながら、胸にふと湧いた一抹の違和感には蓋をすることにした。

 見慣れたはずの金色の双眸が、今夜は見たことのない色を宿している。


 無忌に誘われたのは裏門と思しき場所だった。開けた道を堂々と駆け抜け、両脇を固める魔偶を一瞬のうちに昏倒させると、無忌は閻南天から奪った札を門に押し当てた。

 門には閂の類がなかったが、無忌が札を当てると呼応するように紫色の方陣が浮かび上がった。込み入った紋様が消えると門が開き、鈍く重い音を立てて二人に出口を示す。

 門の外は見渡す限り鈍色のもやで覆われていた。先は見通せず、敷居の一歩先が辛うじて見えているだけだ。

 意志は堅くとも、見知らぬ旅路への不安が覆ることはない。万松柏は不安を訴える胸を落ち着かせるように拳を握りしめ、わざと声に出して言った。


「よし、行こうぜ」


 それに応えてか、温かく力強い手が握った拳を包み込む。二人は手を取り合ったまま、敷居の外へと踏み出した。

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