第二十四話

 無忌が回復するまでの数日は不思議なくらい穏やかに過ぎた。

 万松柏は無忌の身の回りの世話をしつつ、日に何回か顔を出す閻南天をそれとなくやり過ごして機を窺っていた。元より密かに匿われている身で、見つかればどうなるか知れたものではないのだ。気がかりなことは山ほどあったが、万松柏は今が潮時なのだと言い聞かせて出立の支度を進めていった。


 無忌は何も言わずに見守るだけだったが、万松柏が何か尋ねると、決まって切れ切れの言葉で答えてくれた。

 ある夜、万松柏は彼ら魔界がどうやって人間界と行き来しているのか尋ねた。無忌はかなり色の良くなった顔を俯けて少しためらってから、ぼそりと答えた。


「魔術で道を開く。方陣から陽界ようかいへ移動する」


「大掛かりな転送術だな。陽界というのが俺たち人間の世界なのか?」


「鬼と魔の陰界いんかいに対して陽界だ」


「道を開いたあとは、やはり地脈をたどるのか?」


「そうだ。最も霊気の強い地点に繋がる」


「だが、行き先は閻狼摩が選ぶんだろう」


「常に正しい地点には出られない」


 万松柏はなるほどと頷いた。地面を走る地脈は、星の巡りや土地の状況によって活性化したり衰えたりする——無忌の話から察するに、彼らの転送術は魔界側である程度の出口を決められるものの、地脈の状態にかかわらず常に狙った場所に出られるほどの精度はない。対して、人間界で霊気が強い——つまり地脈の加護を受けている場所には、往々にして仙府や豊かさで知られる山里があり、その周囲には多くの人々が集う。なるほど魔界の軍勢が神出鬼没と恐れられているのも納得だ。


「その方陣、俺たちでは使えないのかな」


 何とはなしに呟いた万松柏だったが、無忌はすげなく「できない」と答えた。


「魔術は仙術の対極にある。危険だ。私は魔術の修練がない」


「……そうか」


 まっすぐな金色の双眸を見るに、無忌に悪意があるわけではないのだ。が、言葉と言葉に繋がりがないせいでひどく素っ気なく聞こえる。万松柏は思わず苦笑したが、ふとあることに気がついた。


「じゃあ、お前どうやって俺を連れてきたんだ? 魔界と人間界を繋ぐ抜け道があるのか?」


 思えば、魔界に来たときは万松柏自身が傷を負っていて、周りを見ている余裕がなかった。にわかに起こった期待を無忌にぶつけると、無忌は力強く首を縦に振った。


「黄泉を通る。陽界に隣接した場所がある」


 しかし、それは万松柏にとって予想外の答えだった。黄泉——死後の世界には、生きた彼らは立ち入れないはずだ。

 きょとんとしてしまった万松柏の心中に気付いたのか、無忌は珍しく説明を加えた。


「幽鬼は騙すに容易く、黄泉は陽に近い。戦は死を増やし、死は風水を乱し、地脈を穢す。陰陽の接点が増える」


「……なるほど。つまりお前はどこか適当な接点から黄泉に入り、幻術で姿を隠して魔界まで通り抜けたのか」


「君主のいる場所の外は動物の霊魂もいない」


 無忌がさらに付け加える。万松柏は仙府で学んだ死者の世界について思い出していた——黄泉と呼ばれるその場所は、一人の君主とその家臣たちによって広大な城鎮を形作っている。冥府と呼ばれるその場所は、人が死ぬたびに家が増えて城壁が広がり、それが終息することは決してない——無忌の話では黄泉には他にも土地があるようだが、万松柏たちの考える「あの世」としての黄泉は冥府のみで完結しているらしかった。


「荒野を行き、幽川ゆうせんを越えて陽界へ出る」


 無忌は補足するように言ったが、ふと目を伏せた。一呼吸置いてぽつりと付け加えられた言葉は苦渋に満ちていた。


「……険しい道だ」


「険しくても行かなきゃならない。こいつらから逃れるにはそれしかないんだ」


 万松柏は畳みかけるように言った。見ず知らずの異界の旅が危険でないわけがない——半分は無忌を安心させて説得するため、もう半分は自分自身の緊張を少しでもほぐすための言葉だった。


「陽界に出た後は」


 無忌は依然として険しい表情を崩さない。金色の目は不安と心配で曇り、万松柏の行く先を案じているのは明らかだ。


「白凰仙府は廃墟だ。仙師たちは離散している。行くあてがない」


 無忌の手が布団を這い、万松柏の手を握り込む。温かくしっかりした手が、なぜか弱く頼りないように感じられた。


「ああ、まあ……たしかにあのとき仙府にはいたけど、俺はもう仙師じゃないし、行くあてなら元からないんだが……」


 すっかり忘れていた事実を予想だにしないときに抉られ、万松柏は思わず苦笑いを浮かべた。仙府の襲撃に居合わせこそしたが、扱いとしては客卿だったのだ。意外そうに目を丸くする無忌に追放の顛末を手短に話すと、無忌は「そうか」と深く頷いた。


「……だが、白凰山に戻るのも手ではあるな」


 ふと、万松柏の中に閃きが生まれた。白凰仙府の敷地で唯一、襲われていない可能性がある場所を思い出したのだ。


「無忌。白凰仙府を襲ったとき、山の裏手には行ったか?」


 万松柏の問いに無忌は静かに首を横に振った。口にこそ出さないが唐突な成り行きに驚いているらしく、金色の目がどういうことかと尋ねている。

 万松柏は無忌に少し近寄ると、声をひそめて言った。


「実は、仙府があるのは山の一面だけなんだ。それ以外はただの野山と変わりない——野外訓練に使ったり実りを頂戴したり、より深い場所では昇天を目指して一人きりで修行する仙師もいる」


 万松柏は言葉を切り、誰かが入ってくる気配がないのを確かめてからもう一度息を吸った。


「そこに俺の師伯がいる。俺を仙府に導いてくださった恩人だ。その方なら俺たちを助けてくれるかもしれない」


「師ではないのか」


 無忌が驚いて、しかし不思議そうに問い返す。


「そうなんだ。俺が五歳の時だったが、そのときはまだ仙長をしておられた。俺を仙府に弟子入りさせるのが最後の役目とか言って、俺と仙長の地位を師尊に託してすぐに姿を消してしまわれたんだ。そのときに修行の場所を教えていただいた——どうしても解決できない困難に行きあったら頼りにおいで、と言われて」


「何年前」


 無忌が驚いたように問う。万松柏は少し迷ったが、「八十年前だ」と素直に答えた。


「正直、もう身罷られているかもしれない。仙人になるのは仙師として戦い抜くより困難な修行を経ると聞く」


「賭すのか」


「ああ。俺はいつだってそうしてきた」


 断言した万松柏の手を握る無忌の手にわずかに力がこもった。まっすぐな眼差しにはいよいよ影が差し、不安だろう、怖いだろうと問いかけるようだ。


「無忌」


 見透かされているような思いがするのは、やはり自分自身が不安だからだ——万松柏はそっと無忌にすり寄ると、小さな声で問いかけた。


「お前も来てくれるか」


 口に出した途端にえも言われぬ緊張が胸に広がる。断られたらどうしようという思いはしかし、小さくも温かい、頼れる声によって救われた。


「ああ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る