第二十三話
閻狼摩が吠え、ドタン、ガシャンと何かが倒れる音がする。万松柏は今にも飛び出しそうな心臓を必死で宥めつつ、呻き声から始まった閻南天の反論に耳を傾けた。
「でも、兄さま、彼がしくじったのは今回が初めてでしょう! 魔偶に作り替えられてからの二百年、彼は一度も不覚を取らなかったではありませんか。それに重傷ではありますが命に別状は——」
「貴様の無駄話を聞いている暇などないわ!」
早口にまくし立てる閻南天を閻狼摩の怒声が遮る。万松柏の脳裏には、困り果ててすくみ上がる閻南天の姿がが浮かんでいた。
「そうだ。南天、弟よ」
ところが、閻狼摩は打って変わって猫撫で声を出した。思わず警戒した万松柏の耳に、高圧的な問いが入ってくる。
「魔丹の改良はどうなっている? 元々の修為と相反しないものを作ると息巻いてかなり経つが」
部屋がしんと静まり返り、静かな呼吸音だけが聞こえてくる。よく耳を傾けると、その中にひとつだけ速くて不安定なものがあった。
その浅く速い呼吸からは重い傷を負っていることがすぐに分かる。盗み聞いた内容から察しても、彼は無忌に違いなかった。どういう経緯か、白凰仙府の生き残りに深手を負わされたらしい。誇らしく思うべきだとは分かっていたが、どういうわけか胸中に渦巻くのは底知れない不安と暗い怒りだ。
「……実験は絶えず続けています。ただ、あなたが考えるほど簡単ではないんです。それに魔丹をいじって完璧なものを作っても、植え付ける肉体が耐えられるかどうかは別問題です。これまでに魔丹の支配と元々の功力を両立できた例は無忌だけです。こればかりは配合を変えるだけではどうにもできません」
閻南天は悔しそうに答えたが、心なしか口調に棘があるように聞こえた。大仕事に心血を注いではいるが思うように結果が出ず、さりとて兄に面と向かって逆らうこともできないのが実情なのだろう。
果たして閻狼摩はフンと鼻を鳴らすと、
「鋒が回復しないようならば、次の仙師を捕らえる」
と吐き捨てるように言った。震えながらもはっきりとした「
ふいに訪れた沈黙の中、閻南天が小声で悪態をつく。閻兄弟の関係は、どうやら閻南天が自分で語った以上に兄弟とは言いがたいものらしい。万松柏はすぐにでも出ていこうかと思ったが、閻南天が立ち去るまでは身を潜めていることにした。閻狼摩の剣幕に圧されて手を出されてはたまらない。
深く、静かに息を吸って吐く。内功を巡らせて全神経を研ぎ澄ますと、閻南天がしているであろう手当ての様子が、目の前に、手の中に、浮かび上がるように伝わってきた。薬をつけて包帯を巻く音、丹薬を取り出して飲ませる音、要穴に針を刺すかすかな音、そして自らの気功でもって無忌の乱れた気息を正す気配。あれだけ怒鳴られ、また自らも憤りを覚えてもなお何事もなかったかのように手際よく粛々と治療を進めているのだ——この落ち着きに切り替えの早さ、閻南天は名医と言っても過言ではない。使い捨ての強さを求める風潮さえなければ、魔界じゅうに名を轟かせていてもおかしくなかっただろう。
やがて閻南天が立ち去ると、万松柏は隠れ場所からそろりと滑り出た。無忌以外の気配がないことを確かめるやいなや、万松柏は一直線に無忌に駆け寄った。
「無忌!」
寝台の脇にひざまずき、何度か呼びかけたが、無忌は苦しそうな呼吸を繰り返して眠るばかりだ。丁寧にかけられた毛布をめくり上げると、包帯に巻かれた上半身があらわになった。
脇の下から腹部にかけては全て包帯で覆われ、素肌が見えているあたりにもあざがくっきりとできている。腕と足首にも包帯が巻かれ、切り傷の残る左の頬と目元は青く腫れ上がっている。
傷ついた無忌を見ていると、胸のざわつきが大波になって爆発したような心地がした。比較的きれいな無忌の右頬に触れてみると、病んだ熱を帯びている——傷のせいで熱が出ているのだ。とはいえ、苦しそうでも呼吸自体は安定しているし、命に別状はないと分かっている。だというのに、なぜかこのまま無忌が目を覚まさないのではないかという不安が逆巻く濁流のように万松柏を襲っていた。
万松柏は喉元まで迫り上がった不安の波を必死で飲み下し、手のひらを無忌の頬にぺたりと当てた。その感触に気付いたのだろう、無忌がわずかに顔をしかめてから目を開いた。ぼんやりと力無い眼差しが四方を見回し、最後に万松柏に辿り着く。
「無忌、大丈夫か?」
そんなことないと分かっていても、こう問うてしまう自分を止められない。無忌はゆっくりと目を瞬くと、掠れた吐息とともに包帯で覆われた腕を持ち上げた。
「動くなよ、まだ安静にしていないと——」
腕を降ろさせようとした万松柏の手をかい潜って、無忌は万松柏の頬にそっと触れた。熱い親指が下瞼をなぞり、いつの間にかついていた水分を拭っていく。
「泣いている」
はっきりしない声だったが、万松柏は言われて初めて頬を伝う涙に気が付いた。それどころか、意識したが最後、堰き止めていた感情が土石流のように溢れ出してきた。
万松柏は嗚咽を漏らし、そのまま泣き崩れた。傷を負い、失敗作となじられてもなお、この魔偶は万松柏のことを心配しているのだ。
万松柏は泣きながら、盗み聞きいた閻兄弟の会話を無忌に教えた。閻狼摩が無忌に失望していたこと、閻南天の実験のこと、二人が無忌の状態次第では第二の魔鋒を作るつもりでいることを全て話した。
「なあ無忌、こんなところ出て行こうぜ。お前を蔑ろにする奴らに仕え続けることないだろう? こんなところ逃げ出して、どこか山奥にでも退隠しよう。どうせ替え玉にすげ替えられるならその方がよっぽどましだ、違うか?」
ここまで感情的になったのは弟弟子を失ったとき以来だ。万松柏は我を失ったように泣きじゃくり、無忌の体にすがりついた。
無忌は今にも閉じそうな目をもう一度瞬くと、無言のまま万松柏を抱き寄せた。
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