第二十二話

 翌朝、万松柏が目を覚ますと、隣に無忌はいなかった。一抹の寂しさがよぎったものの、万松柏はすぐに気を取り直して牀を降りた。きっと寝ている間に召集がかかったのだ——部屋を探せば案の定、浴室と手前の脱衣所に無忌が水浴びをした痕跡があった。


 毛巾は硬く絞って衝立にかけられ、風呂桶には水がいっぱいに張られている。少し手を浸すと、千本の針で刺されるように冷たい。万松柏のために湯浴みの用意をする彼だが、自分で使うのは冷え切った水なのだと思うと、万松柏は胸がわずかに痛むように感じた。

 万松柏は少し逡巡すると、羽織っているだけの衣をゆっくりと脱いでいった。下履きに手をかけると昨夜のことが思い出され、下腹がきゅうと収縮したが、万松柏はそれを振り払うように裸になって水の中に全身を沈めた。

 興奮の残香をもかき消す冷たさが体の隅々まで突き刺さる。始めこそブルリと身を震わせた万松柏だったが、深呼吸を繰り返すうちにだんだんと暖かく感じてきた。万松柏は両膝を抱き寄せて座り、小さくため息をついた。


 水風呂のせいか、思考がいやに冴えわたっている。それなのに、思い出されるのは昨晩の無忌のこと、遠春という名の仙師ばかりだ。彼か彼女かは分からないが、その遠春こそが魔丹の支配に抗う無忌の力の根源なのだろう。魔は理性の対極にあり、誰もが心の中に持っているというのが仙門の教えだが、心身を魔に染められた無忌にとっては、遠春の存在こそが心の中に唯一残った清廉さ——無忌を完全なる魔から守っている理性なのだ。そしてどうやら、無忌は遠春と万松柏を少なからず重ね合わせていたらしい。昨晩はきっと、万松柏が遠春を否定したことで、きっと魔が占める領域が広がってしまったのだ。


「だから俺をあんなに大切にしていたのか」


 誰にともなく呟いてから、万松柏は自分の言葉を後悔した。暖かく感じられた水風呂から温度がなくなり、身体が寒さを訴えてくる。無忌の優しさが他人に——自分を介して無忌が見出した、自分の知らない誰かに向けられたものだったのだと思うとどうしようもなく寂しかった。


 無忌は弟弟子がいると語ったことがある。彼が万松柏に似ていたとも言っていた。そして無忌の理性を司る遠春という仙師の存在。もし遠春が無忌の弟弟子なのだとしたら——そこまで考えて、万松柏はどきりとした。男同士、同じ師を拝した者同士の禁忌の関係というのはさておき、この遠春という仙師のことが分かれば魔鋒の謎も解けるのではないか?



 水面に張った氷が溶け、音を立てて割れていくような心地がした。今までに得た情報を持って帰れば、仙門は魔界との戦いで初めてと言っていいほどの進歩を遂げるだろう。攻撃を受けて壊滅する仙府や、命を落とす仲間も減っていくはずだ。そのためには、人間界に帰る術を見つけなければならない。


 しかし、同時に後ろめたい気持ちもあった。これでは、命の恩人である無忌を裏切ることになってしまう。恩を仇で返すなど、最も人の道にもとる行為だ。が、本気で仙門を、蒼生を守ろうとするならば、無忌は絶対に除くべき敵だった。万松柏がどんな感情を抱いていようと、彼が魔偶で、何人もの仙師、何人もの無辜の人々の命を奪ったことに変わりはないのだ。


 万松柏は水風呂の寒さも忘れて、じっと桶の木目を凝視していた。命の恩人を売ることを少しでも考えた自分に驚いていた——耳元で脈打つ血潮が、これこそがお前の心中の魔だと訴えている。正義と功名とをまとめて天秤にかけても、無忌から受けた優しさ、無忌が彼を思う心には勝てない。だが、心ではそれが間違いだと分かっていても、公道を重んじるならば、かなりの戦力を誇る魔鋒無忌という存在を野放しにはできない。

 堂々巡りの思考を中断させたのは、身体に突如として生じた切迫感だった。万松柏はぶるりと体を震わせると、いそいそと水から出て脱衣所に向かった。思ったより長時間入っていたらしく、体がすっかり冷え切っている。衣を着るのもそこそこに脱衣所を出た万松柏は、厠に飛び込んでようやく息を吐いた。



***



「……だが、どうしたものかなあ……」


 衣を着、無許可だが厨房を借りて湯を沸かしながら万松柏は独り言ちた。侠の心を重んじ、正しい行いをすることが信条の万松柏だが、仙門の掟に背いたことこそあれど天下の公道に背いたことはない。それがまさか、公道と情義が両立しない日が来るとは思いもしなかった。無忌の恩情に応えれば公道に背き、公道に従えば無忌を裏切ることになる。

 しかし、少し落ち着いてきた頭は全く違うことを考えていた——できることなら、無忌も仙門も裏切らない道を選びたい。無忌とともに二人きり、どこか山奥に退隠すれば、無忌という脅威を俗世から遠ざけつつ彼に応えることができるのだ。このまま無忌と逃げてしまえば実現もやぶさかではない。とはいえ、これは完全な私欲だった。敵からも責任からも逃げた先にあるものは、きっと気持ちのいいものではない。


「何を考えてる、万松柏。お前らしくもない」


 万松柏はわざと声に出して呟くと、言葉とは裏腹に沈んだため息をこぼした。仙門で長い年月を共にした仲間たちと共に過ごした月日は短くとも万松柏を誰よりも大切にしてくれる無忌、どちらか一方など選べない。


 ふいに鍋から水泡が噴き上がった。思考にふけるあまり湯を沸かしていたことまで忘れていたのだ。慌てて鍋を火から下ろしたが、布越しでも持っていられないほど熱された鍋の中は四分の一ほど水面が下がっている。こぼれた熱湯はジュッという音とともにかまどの火を消し去り、あたり一面に白煙が立ち込めた。


「しっかりしろ、万松柏! お前が心中の魔に取り憑かれてどうする!」


 万松柏は煙を払いつつ大声で言った。両頬をパチンと叩き、そのまま大声で呪文のように繰り返す。


「振り払え、万松柏、振り払うんだ——」


 ところが、けたたましい音とともに部屋の扉が開け放たれた。厨房は奥まった場所にあるため入口からは見えないが、それでも万松柏は弾かれたように戸棚の陰に身を滑り込ませた。

 五、六人の足音がどやどやと部屋に入ってくる。同時に魔偶が持つ陰の気が部屋に流れ込み、万松柏のいる厨房の奥まで漂ってきた。気息をたどるに、どうやらうち四人は魔偶らしい。二人は魔偶を従える主なのだろう、陰の気の中にもたしかな修為が感じられる。

 万松柏はじっと息をひそめ、全神経を集中させた。どうやら魔偶たちは何か重いものを運んでいるらしく、足取りが等しく重い。残る二人は小声でひそひそ話し込んでいたが、やがて閻南天の声がした。


「彼をそこに乗せろ」


 万松柏はその一言で全身から血の気が引くのを感じた——この部屋に運び込まれる者などたった一人しかいないではないか!


 目の前が真っ暗になった万松柏は、残る一人の気息を判別し損ねていた。

 魔偶が閻南天の命令を実行する間にも、かなり苛立った舌打ちが響き渡る。続く声は怒り心頭に発していたが、閻狼摩のものだとすぐに分かった。


「全く、白凰山の残党ごときに背後を取られるなど、お前の魔丹はとんだ不良品ではないか!」

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