第二十話

 後頭部がズキズキ痛み、固く瞑った視界にはきらきらと星が飛んでいる。どうやらうなされている間に本気で頭をぶつけたらしい。涙目で寝返りを打ち、何にぶつかったのか確かめると、暗闇にぽっかり浮かぶ金色の双眸とばっちり視線がかち合った。


「……ッ、無忌⁉」


 万松柏は素っ頓狂な声を上げて布団の中で後ずさった。まさかいるとはつゆほども思っていなかったこともあるが、夢うつつで本気の頭突きを見舞ってしまった事実が途端に重くのしかかってきた。


 万松柏は転がり落ちるように牀から降りると、大慌てで燭台を探り、蠟燭に火をつけた。柔らかな炎に照らし出された無忌は、少し驚いたような、しかし心配そうな面持ちで赤らんだ鼻を触っている。指の間から、ツ――と紅が一筋垂れるのを見て、万松柏は申し訳なさで胸がいっぱいになった。


「無忌、本当にすまない。その……まさか帰っているとは思わなかったんだ……」


 万松柏は床に頭を擦り付けんばかりの勢いで謝った。だが、無忌は袖で鼻血を拭いながら小さく頷いただけで、じっと万松柏を見つめるばかりだ。


「うなされていた。抱擁で落ち着くかと思った」


「そうか……本当にすまない。それにしても、いつ帰ってきたんだ?」


「三刻前。うなされていた」


 万松柏は無忌の答えには生返事をすると、もう一度大きくため息をついた。心配させた上に傷付けたなんて、穴があったら今すぐにでも入りたい気分だ。かなり強くぶつかったせいで、無忌の鼻血もすぐには止まる気配がない。

 万松柏は部屋を見回して、椅子の背にかけられている毛巾タオルに目を付けた。湿ってはいるが、何もないよりはましだ――万松柏は毛巾を持って床に戻ると、乾いている部分を選んで無忌の鼻にあてがった。

 無忌は万松柏をちらりと見ると、毛巾をそっと受け取った。端に寄り、寝ろと言わんばかりに布団をぽんと叩く。万松柏は燭台を置くと、おずおずと言われた場所に横になった。



 沈黙が流れる中、万松柏は横向きになって蝋燭の火が大に小に揺らぐ様子を見るともなしに見つめていた。無忌には背を向けることになるが、今はそれがかえって都合が良かった。図らずも無忌のスラリと通った鼻に石頭を叩きつけてしまったこともあるが、それ以上に夢のことが気になっていたのだ。無忌の言動に「遠春」という名前——この名前さえなければ、今までに見聞きしたものが一緒くたになったと言うこともできただろう。仙師時代の無忌への夢想も少なからず含まれていたはずだ。しかし、「遠春」という名がどうにも引っかかっていた。そんな名前の仙師は白凰仙府にはいない上、無忌が仙師だった時期とも当然被らない。


 思考にふけっていると、大きくて少し冷たい手が肩に触れた。薄い玻璃の像を触るように優しく、丁重に、無忌が万松柏の肩を撫でているのだ。


「なあ、無忌」


 万松柏は蝋燭の火を見たまま、無忌にそっと問いかけた。


「俺の名は何だ?」


「万松柏」


「……だよな」


 無忌は迷いなく答えたが、肩を撫でていた手が止まった。万松柏は唾を飲み込むと、起き上がって無忌を見据えた。


「遠春って、誰の名だ」


 その途端、無忌の金色の瞳が収縮した。鼻を押さえていた毛巾がぱたりと落ちる。愕然と見開かれた目がくしゃりと歪み、無忌は涙をこらえるようにぐっと歯を食い縛る。万松柏は無忌の根幹に触れたと確信したが、ためらうことなく質問を重ねた。


「俺がうなされてたって言ったよな。たしかに苦しい夢だった……仙師の格好の俺とお前が魔偶に囲まれて、重傷を負った俺をお前が自分を犠牲にして逃がしたんだ。その中でお前は俺を『遠春』と呼んだんだ。遠春って誰だ? そんな名の仙師は白凰仙府にはいないぞ。それに俺が万松柏と分かっているのなら、何故」


「遠春……違う、だが……」


 無忌が頭を抱えて呻く。しわの寄った額にはいつの間にか汗が滲み、無忌は黒髪を掴んでおもむろに丸く背を屈めていった。食い縛った歯の間から荒い呼吸を繰り返す様子は、魔丹の抑制と自分自身の意識の間で苦しんでいるように見える。


「遠春……私の……違う……お前は……違う……」


 ぶつぶつと繰り返す言葉はうわごとというには悲痛さに溢れている。万松柏がさすがにまずいと気付いたとき、無忌は顔を上げて万松柏を睨んだ。目が合った瞬間に苦悶の表情ががわずかに緩み、血走った目が少しだけ静けさを帯びる。


「無忌?」


 万松柏がおそるおそる声をかけると、無忌はすがるように万松柏に手を伸ばした。肩に触れた手は、先ほどまでの狂態と打って変わって弱々しく震えている。無忌は万松柏が玻璃でできているかのようにそっと抱き寄せると、深いため息をついた。


「……そうだ。お前は、彼ではない……」


 万松柏は腕を伸ばして無忌の背中を撫でた。ばれないように脈を探ると、真気と邪気が混濁していた——いつもは取れている均衡が崩れてしまったのだ。この遠春という人物は、無忌にとって相当な重みを持っているらしい。



 二人はそのまま抱き合っていた。万松柏は無忌の背中を撫でながら、自身の真気をそれとなく送り込んだ。大きくて温かい無忌の背中がどうしようもなく小さく感じられる——内功の乱れがおさまれば無忌も落ち着きを取り戻すだろう、そう思って少しずつ、手に込めた内力を送っていく。どのくらいそうしていたのか、時間の感覚がなくなってきたところで、にわかに邪気の勢いが強くなった。


 手の下で黒い流れがぶわりと盛り上がる。それに呼応するように無忌が顔を上げ、沈んだ金色の目を万松柏に向けた。


 見たことのない目の色だった。万松柏が戸惑う間にも、無忌は長く息を吐き、万松柏の後頭部を流れるように抱きとめる。


「お前は、彼ではない……彼ではないなら……」


「……無忌?」


 様子がおかしい。万松柏は逃げようかと思ったが、無忌の抱擁がきつくなっていて抜け出せない。しかし押し潰される恐怖はなく、八分の戸惑いの中に一分の安心が残っている。そして残る一分は、奇妙な胸のざわつきだった。


「……私の不実を受け入れてくれるか」


 そう無忌が言った刹那、世界がぐるりと反転した。

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