第十九話
その夜、万松柏は再び夢を見た。
万松柏は無忌とともに荒廃した戦場に立っていた。二人とも仙師の出立ちで、無忌の目も人間時代の鳶色をしている。
二人は手に剣を持ち、背中合わせになって上がった呼吸を整えていた。四方をぐるりと囲むのは漆黒の影の一軍だ。大きさも背丈も様々だが、どの影も目とおぼしき場所から一対の金色の光を放っている。
——魔偶だ。二人して大量の魔偶に囲まれているのだ。絶体絶命の状況だが、腕は鉛のように重く、脚は棒のようで、力の代わりに疲労が全身を駆け巡っている。万松柏は目に流れ込む汗を乱暴に拭った。魔偶に囲まれたことなど一度や二度ではないというのに、どうすれば良いのかなぜか思い浮かばない。思考にもやがかかったように判断ができないのだ。それは死を目の前にしたときの諦観——白凰仙府が襲われたとき、無忌との手合わせで全力を使い果たしたときに感じたような静寂でもあった。
どう足掻いても自分はここで死ぬ。だが無忌を道連れにはできない。その思いにぴたりと焦点が合った途端、石のような体が少しだけ軽く感じられた。
「無忌、どうやらここまでみたいだな」
万松柏はそう言うと、柄の形に凝り固まった指にもう一度力を込めた。対する無忌は魔偶の群れをじっと見つめたまま、万松柏には目もくれない。万松柏が次の言葉を口にしようとしたとき、ふいに無忌が口を開いた。
「お前は逃げろ。白凰山に戻り、私に代わって皆を率いるのだ」
「……何だって?」
すっかり凪いでいた心ににわかに波が立つ。万松柏は思わず無忌を見上げていた。
「お前の代わりって、どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。我らが二人とも欠ければ白凰仙府の戦力にかかわる。お前は師弟たちからの信頼も厚く、名実ともに白凰山の二番手だ。お前なら輝かしい功績を築ける——私にできることは、お前を生き延びさせることくらいだ」
万松柏は困惑の眼差しを向けることしかできない。これが無忌の覚悟で、己の心中のそれと同じだということは分かっていたが、それにしても不可解が過ぎる。
無忌の口から発された白凰仙府の名はもちろん、まるで本当に肩を並べて戦う仲であるかのような、ともに仙府の中核を成す高弟であるかのような言葉の全てが理解できなかった。無忌とは出会ったときから敵同士だし、何より万松柏は仙府の二番手ではない。無忌の言葉も本来ならば彼が沈萍にかけるべきものなのだ。妙に現実味を帯びた夢を見ることはあるが、ここまで現実的でない夢はかえって気味が悪かった。
「なあ、無忌——」
そんな場合ではないと分かりつつ、万松柏は無忌を説得しようとした。が、無忌は振り返ることなく、一直線に魔偶の軍勢のただ中へと飛び込んでいく。万松柏は慌ててそれを追いかけた。
重くのしかかる邪気に全身を圧迫する閉塞感。どうせ夢だからとたかをくくっていた万松柏は、その生々しさに思わず息を詰まらせた。重いばかりの剣では思うように敵は斬れず、自分の身を守りながら闇に飲まれていく白い背中を見失わないのがやっとだ。
「無忌、待ってくれ! 無忌――」
喉の奥で鉄錆の味がする。万松柏はそれにも構わず大声で叫んだが、無忌は剣を振るう手を止めない。
ふと、無忌の背中が弟弟子の背中と重なって見えた。重傷を負って動けない万松柏を沈萍に預け、単身魔偶の群れの中へと身を投じた二師弟――彼が帰ってくることはなく、二日後には葬儀が執り行われた。万松柏は無理をおして参加し、講堂の隅に設けられた台に寝かされたまま、空の棺が弔われるさまを見送った。戦いを繰り返していると、守るべきものを守れないことも少なくない。だが、それを一番悔いたのは彼を喪ったときだった。
本当は自分が行くべきだったのに。自分の身を犠牲にして、師弟たちを、大切な仲間を守らなければならなかったのに――
「無忌!」
万松柏は必死に剣を振り回し、無忌の背中を追いかけた。彼より前に出なければ、彼をこの包囲網から引き出さなければ。そのことしか頭になかった万松柏は、背後から襲い来る影に全く意識が向かなかった。
最初に感じたのは衝撃だった。背中から強烈な一撃を食らって飛ばされるような感覚だったが、体が前に飛ぶことはなく、むしろ根が生えたように動くことができない。何事かと思う間にも、もう一度突き飛ばされるような衝撃を受けて、今度こそ膝から倒れこむ。口から大量の血があふれて初めて、万松柏は不覚を取ったことに気が付いた。
肉体こそ損なわれていなかったが、湧き水のようにあふれる真気が詰まっている。一瞬ののちに丹田の気が暴発した――嫌な熱を持つ邪気と、鍛え上げた真気が混ざり合って全身を駆け巡り、行く先々でぶつかり合う。
万松柏は声も上げられないまま倒れ伏した。無忌が何か叫ぶのが聞こえたが、何と言ったのか全く聞き取れなかった。
「ほう、仙師がかかったか」
背後から他人事のような声が聞こえる。人を見下したような口調は紛れもない、白凰仙府を壊滅させた閻狼摩のものだ。
「初めてにしては上手くいったか。あれも多少は役に立つことを考えたものだ」
「貴様、
無忌が怒鳴り声とともに閻狼摩に斬りかかる。朦朧とする意識の中、誠実さにあふれた鳶色の目が怒りに歪み、大きく吊り上がっているのがぼんやりと見えた。
閻狼摩は両手で印を結び、己を守らせるように大量の魔偶を差し向けたが、無忌は片手で狂ったように長剣を振り回し、もう片方の手で印を結んで閻狼摩に突進していく。目を見開き、食いしばった歯をむき出しにした形相はまさしく鬼神のそれだ。全ての魔偶を蹴散らした無忌の気迫にさすがに狼狽えたのか、閻狼摩は舌打ちとともに印を組み替え、どす黒い触手のようなものを召喚した。
触手が無忌に襲いかかると同時に、無忌が剣指を走らせて宙に紋様を描く。無忌は万松柏に向けて術を放ち、丹田を狙った一撃を防御も取らずに真正面から受けた。
全身が青白い光に包まれ、ぐったりと倒れ伏す無忌がぐんぐん遠ざかっていく。無忌を助けなければと思っても、全身が固く拘束されて動けない。万松柏は何度も身をよじり、ついには背中にのしかかるものに頭突きを食らわせた――
ゴツン、と後頭部に衝撃が走る。万松柏は一気に覚醒し、頭を抱えて無言で呻いた。
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