第三十四話

 万松柏は目を瞬いた。生まれたときの話といえば、幼いころ両親に聞かされたことがいくつか頭に残っているのみだ。


「私が母の胎内で死にかけていたところを、師伯が助けてくださったという話ですか?」


 思い浮かんだことを尋ねてみると、暁雲子はそうだと頷いた。


「だが、私が話したいのはそれ以上のことだ。何故お前が遠春の記憶を持っているのかの答えでもある」


 暁雲子はそこで言葉を切り、次の言葉を探すように黙り込んだ。


「実は、お前はお母上の胎内で死んでいたのだ。そして当時、私は死んで間もない胎児を探していた――遠春の魂を移し替え、彼に新たな生を与えるために」


 万松柏は一瞬何を言われたか分からなかった。だが暁雲子はいたって真面目な面持ちで、決して冗談や絵空事を言っているのではないとすぐに分かる。


「要するに、お前は望遠春の生まれ変わりだ。魔界との戦いで彼は犠牲になりかけ、帰還は果たしたが肉体と魂魄を邪気で汚染されていた。私はそれを全て洗い流し、まっさらな状態にして新たな生を授けた」



 ——当時、白凰仙府の長だった暁雲子は、遼無忌りょうむき望遠春ぼうえんしゅんという二人の弟子を取っていた。幼い頃から天賦の才を発揮していた二人は若くして魔界との戦いを主導し、白凰仙府を代表する仙師として活躍していた。


「当時は魔偶が爆発的に増えていた。あちこちの村落が襲われ、殺戮が起き、大勢が攫われては魔偶の数が増す。無忌と遠春は事態の悪化を食い止めようと東奔西走していた。二人が遭難したのはその最中だ」


「閻狼摩の仕掛けた罠にかかって、ですね。実を言うと、望遠春はそこで死んだと思っていました」


 万松柏が言うと、暁雲子は


「完全に間違いというわけでもないが、少し違う」

 と答えた。


「たしかに遠春は酷い状態で送還されてきたが、真気が邪気で汚染されていたというだけでまだ命はあった。とはいえ、そのような状態になった者は初めてで、私たちには救う術がなかった。放っておけば邪気が全身を蝕んで死んでしまうが、仮に生きながらえたとしても妖魔の類になり果てているだろう——そうなれば仙府を挙げて誅さねばならない」


 暁雲子は感情を捨てたように淡々と語る。万松柏は背筋がうすら寒くなるのをこらえるように唾を飲み込んだ。


「望遠春の記憶は、無忌と共に閻狼摩に嵌められ、邪気の塊に真気を蝕まれたところで途切れています。最後には無忌が身を挺して彼を守り、転送術で逃がしていました」


「……成る程。そうだったのか」


 暁雲子は悲し気な笑みを浮かべて独り言のように呟いた。


「以前、人を魔偶に変える術について魔界で見聞きしたことを教えてくれたね。我々の当時の状況と照らし合わせるに、おそらく遠春は魔偶に変えられる直前か、その途中だったのだろう」


「同感です。前輩方の言う邪気に蝕まれて死ぬというのも、反噬に襲われるという意味に捉えれば魔界側の話とも一致します。生き延びても誅すべき妖魔になり果てるというのも、今の無忌が示すとおりです……敵の手先となり、仙師や蒼生を屠ることを強いられるのですから、仙府としては全ての情感を排して倒さねばならないでしょう」


 万松柏は話しながら、無忌と出会ったときのことを思い出していた。一際強力な魔偶を倒すことだけを目的に無忌と剣を交えていた万松柏だったが、無忌はどうだったのだろうか。ようやく会えた弟弟子は己を忘れ、再会を喜ぶ時間もなく、名も知らぬ敵として鋒を交えなければならないと知ったとき、無忌は一体何を思っていたのだろうか?


「無忌は、一人を救うために劫を背負ったと言っていました。初めは間に受けていなかったのですが、きっと望遠春の身代わりになったことを言っていたのです……邪魔に身を堕としてでも、望遠春が生きていることを願ったのだと」


 思い返すほどに、胸の奥底から切ない思いがあふれてくる。ようやく無忌の思いにたどり着いたというのに、彼との団欒は二度と叶わないのだ。


「そうだったのか……。当時に話を戻すが、二人の一件は仙門全体を見ても例のない事態だった。白凰仙府のみならず、他の仙府からも大量の陳情書が届き、中には白凰山に押しかけてくる者までいた。仙長だった私は対応に追われ、寝る時間もないほどだった。遠春の状態は日に日に悪くなり、いつ何が起きてもおかしくない。……手を下そうかとも思ったほどだ。死を待ち続けるばかりの状態で、奇跡的に生き延びることも許されないなら、いっそのこと悲劇に殉じさせる方が良いのではないかと」


 暁雲子は口元にこそ笑みを浮かべていたが、深い叡智をたたえた双眸は悲痛と苦しみを宿している。


「幸いにも暁晨子が止めてくれたがね。そして、禁を犯す覚悟があるのならと、ある方法を教えてくれた。彼には書閣の鍵を預けていたから、あそこにあるものについては私よりも詳しかったほどだ。その実禁術についての講義も彼に一任していた」


 暁雲子がそう言ったとき、万松柏の中で何かがかちりとはまる音がした。魔に染められたものを聖に戻す禁じられた方法といえば、仙術に伝わるものはひとつしかない。


陰陽いんよう倒転とうてんほうですね」


「そうだ。どんなものかは説明するまでもなく知っていることだろう」


 暁雲子の言葉は、お前も使ったことがあるのだろうという問いが暗に込められているように聞こえた。

 同時に、万松柏は暁雲子が言わんとしていることを悟った。万松柏が比連を魔偶の身から解放したように、暁雲子も望遠春に陰陽倒転法を使ったのだ。

 

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