第二章:魔鋒無忌

第十二話

 ぴちゃん、ぴちゃんとどこかから雫の音がする。そしてすぐ横からする焚き火の温かい音と匂い——うっすら目を開けた万松柏の視界に映ったのは、ごつごつとした岩肌だった。

 起きあがろうとしたが、全身が石のように重くて力が入らない。目だけを動かしてあたりを見回すと、焚き火の横に魔偶がいた。片膝を立て座り、揺れる火をじっと見つめてぴくりとも動かない。憂いのある、何かどうにもならない運命に悩んでいるような顔が柔らかな炎に照らされて、万松柏は同性ながらこの魔偶を美しいと思ってしまった。


「起きたか」


 ふと、魔偶が万松柏の方を向いた。禍々しく冷酷な金色の瞳が炎を反射して優しく光り、万松柏は見たことのない姿に思わず見入ってしまう——今の彼は、冷酷無比な殺戮兵器というよりも、はかり知れない孤独を抱えて一人戦う剣客のように見えた。少し丸められた黒い背中が彼の孤高をかえって強調しているようだ。


「俺……ここは、どこだ……?」


 万松柏は顔をしかめて、気絶する前の記憶を掘り起こした。魔偶に抱かれて上に下に飛び回った恐怖で色々な感情が上塗りされていたが、それでも一番の悲劇はすぐに脳裏に浮かび上がってきた。


「白凰仙府……師尊は……比連は……無事なのか……」


 彼らを守ろうとはしたが、守り切れたかの確証がないまま連れ去られてしまった。うわごとのように呟く万松柏を魔偶はじっと見つめていた——申し訳のなさから顔を背けてもいいものを、どうやらこの男も魔偶の例に漏れず、感情を持ち合わせてはいないらしい。

 ふと、魔偶が静かに口を開いた。


「一人が救える数には限りがある。たった一人のために劫を背負うこともまた」


「やめろ。お前に言われると反吐が出る」


 抑揚はないが慰めにも聞こえるその言葉を、万松柏はあっさりと切り捨てた。寝返りを打ってこの男を視界から消してしまいたいが、そうできないのがもどかしい。


「もっともらしいことだけ言って、お前は誰も救わないじゃないか。どうせ仲間の魔偶が次々死んでもなんともないんだろう? そう思う心すらないんだろう。違うか」


 辛辣な言葉を浴びせることが、万松柏にできる唯一の反撃だ。これには少なからず効き目があったらしく、魔偶は金色の目をついと逸らせて焚き火を見た。


「お前は正しい。お前の痛みは私には分からない。配下の欠けもかすり傷ほどにも痛くない。我々は皆代わりが効くから」


 独り言のように魔偶が言う。なんとも素直な肯定だったが、今の万松柏には意志のない者の世迷子にしか聞こえなかった。


「お前、いつもそう思って戦っているのか?」


 刺々しい口調で万松柏が言い返すと、魔偶はまた大人しく頷いた。


「もしかして、自分も代わりが効くなんて言わないだろうな」


「そうだ。魔鋒が消えたら次の魔鋒を作ればいい。これこそが魔偶の真価だ。魔丹さえあれば人も獣も、鬼も妖も、等しく掌握して戦力にできる。力の優劣こそあれど、我々の存在は魔丹のもとに平等だ」


 魔偶は淡々と、まるで天気のことを話しているかのような口調で語った。自分自身の命の軽さを論じているというのに、それに対する感情はまったく見えない。怒りをぶつけるつもりだった万松柏はかえって面食らい、逆にこの男を哀れとさえ思ってしまった。


「だが、お前は……お前は、元は仙師だろう? 修為も高くて主戦力になれる存在で、実際に戦いでも重宝されていると聞く。なのになぜ……」


 なぜ、自らに価値がないような言い方をする。売り言葉に買い言葉で口にするにはあまりに重い問いを、万松柏は最後まで言い切ることができなかった。

 一方、魔偶は少し意外そうに眉を持ち上げたが、またすぐにもとの無表情に戻った。万松柏は諦めてため息をついた――おかしな言い訳をしないのはまだ良いが、こうもあっさり全てを受け入れられると調子が狂う。万松柏は、この特異な魔偶には何か思うところがあるのだとばかり思っていたのだ。まさか自身が隷属状態にあると認知しているだけだとは思いもしなかった。やはりそこは魔偶、「服従」という事実には何の疑問もないのだろう。


「万、松柏」


 天井の岩を見つめていた万松柏の耳に、ふと魔偶の声が入ってきた。どきりとして目を向けると、魔偶がまた彼をじっと見つめているのと視線がかち合う。


「動かざる者は厚地、まざる者は高天。無窮なる者は日月、とこしえに在る者は山川。松柏と亀鶴きかくと、其のよわいな千年。嗟嗟ああ、群物の中、而も人のみひとしからず」


 魔偶は唐突に、しかしよどみなく詩の一節をそらんじた。万松柏は呆気に取られ、「……すごいな」と目を丸くして呟いた。


「よく知ってるな。古い詩なのに」


「私が仙師だった頃はそうでもなかった」


 魔偶はそう言うと、また焚き火に視線を落とす。彼がどうやら何かを煮ているらしいと気がついたのはこのときだった。

 万松柏がぎくりと身を引いた気配を感じたのか、魔偶はすかさず言った。


「案じるな。お前を害するものではない」


 それでも万松柏は、不安が胸中に渦巻くのを止められなかった。当たり前だ、敵に捕まって身動きも取れないというのに、警戒するなという方が難しい。


「そういえば、お前はなんていうんだ」


 今にも爆発しそうな動悸をごまかすように、万松柏は尋ねた。魔偶が鍋から目を離した隙に、「名前」と念を押すようにもう一度問う。


「お前の主は『鋒』って呼んでただろう。あれがお前の名前なのか?」


 すると魔偶はゆっくりと目を瞬いてから「否」と答えた。


「私の名は無忌むきだ。鋒は閻狼摩えんろうましか使わない呼称だ」


 魔偶——無忌はそう言うと、顔をかがめて何やら匂いを嗅いだ。ふむ、と頷いて立ち上がる手にはやはり小鍋が握られている。万松柏は動かない体で精一杯の悲鳴を上げた。


「やめろ——!」

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