第十三話
次に目が覚めたとき、万松柏はどこかの部屋に寝かされていた。
意識が戻るなり、飲まされた薬の味が蘇って思わず吐きそうになる。しかし、後味の悪さとは対照に体の重さはすっかりなくなっていて、万松柏は半身を起こして座ることさえできるようになっていた。
いつの間にか着ていた服は脱がされ、黒い深衣を着せられている。たくし上げないと指先が出ないほど袖が長いあたり、どうやら無忌が手持ちのものを着せているらしい。そう思った途端に、首元からそこはかとなく無忌の匂いが漂ってくるような気分になった——こそばゆいような嬉しいような奇妙な感覚が胸に上ってきて、万松柏は慌てて首を振って雑念を追い払うはめになった。
部屋には明かりがなく、何もかもがぼんやりとして薄暗い。それでも目が慣れてくるにつれ、万松柏は部屋の様子が見えるようになってきた。部屋の真ん中にある机、壁際の棚、部屋を区切る屏風――距離感や模様までは掴めないが、どれもがそう広くない空間に収められていることが分かる。知らない場所だが不思議と閉じ込められた気はせず、むしろ居心地も悪くない。万松柏はもうひと眠りしようと横になったた。
そのとき、どこかからガチャンと音がして、万松柏は慌てて布団に潜り込んだ。
この音は耳に覚えがある——不注意で刀剣を落とすとこんな音が鳴るのだ。より鋭く、より薄く、より軽く鍛えられた刀剣ほど落としたときの音も澄む。その点では、落とされた剣はかなりの逸品だ。さらに落ちたものを拾うかのような衣擦れの音もする。布団をそっと持ち上げて様子をうかがうと、黒っぽい人影が扉の脇に座っているのが見えた。
目が慣れてくると、その人影が無忌であることに気がついた。黒い衣に黒髪を下ろしているせいで、部屋の暗さに紛れて分からなかったのだ。じっと見ていると、無忌は拾い上げた長剣を腕に抱え直し、扉の脇の椅子に腰かけた——金色の目が暗闇を睨み、不気味な月のように輝いている。が、しばらくすると、金色の光がゆっくりと消えて、無忌の体がカクンと傾いた。
万松柏は目を丸くした。無忌はハッとしたように目を開けて姿勢を正したものの、またすぐにまぶたが降りてきて金色の光が隠れてしまう。殊勝なこともあるものだ、そう思いながらうたた寝をする無忌の様子を見守っていると、誰かが扉をコンコンと叩いた。
すると、無忌が弾かれたように目を開けた。先ほどまで居眠りしていたとは思えない素早さで無忌は立ち上がると、扉の向こうに向かって「誰だ」と尋ねる。
「
若くて明るい、人好きのする男の声が答える。無忌は万松柏に背を向けて扉を開け、閻南天なる男を部屋に迎え入れた。
万松柏はその隙に布団に横たわった。自然な寝姿を装って目を閉じ、いかにもな寝息を立てていると、まぶたの内側を蝋燭の光が埋め尽くす。眩しさに耐えながらも気づいていないふりを装うと、閻南天と名乗ったのと同じ柔らかい笑い声が降ってきた。
「へえ。これが例の人間かい?」
面白そうに、しかし嗜虐的な色はまったく感じさせずに男は言う。腹の底では何を考えているか定かではないはずのに、なぜか裏表がないような印象を受けてしまう。
「仙師の王松柏だ」
無忌が違う名を教えたのを万松柏は聞き逃さなかった。が、これにはどんな意味があるのだろう——そう思う間にも、閻南天は万松柏の体を経脈をなぞるように撫でていく。さすがに耐えきれなくなって目を開けると、片手に蝋燭を持ったあどけない顔つきの男が万松柏を覗き込んでいた。声から受ける印象をまったく裏切らない好青年で、茶色がかった長髪はてんでんばらばらの方向に跳ね、蝋燭に照らされた目は琥珀を思わせる。
「やあ、起きたのかい」
しかし、だからといってすぐに魔族に心を許すことはできなかった。万松柏は腕を振って閻南天の手を退けると、突っぱねるように言った。
「……あまりぺたぺた触らないでもらえるか。気色が悪い」
「ごめんなさい、でも無忌があなたに何を飲ませたのか分からないから。私は医者だけど、人間の体は分からないからさ」
閻南天はすぐさま謝ると、ふと万松柏たちに背を向けた。蝋燭の火を燭台に移して部屋全体を照らしだすと、部屋の様子と一緒に閻南天たちの衣がはっきり見えるようになった。無忌は相変わらずの黒装束だが、閻南天はたしかに動きやすそうな短袍に前かけと上衣を着用し、いかにも手仕事に長けた様子だ。
「内傷がひどくて動けないとは聞いているんだけれど、具合はどう? 無忌はどんな薬を飲ませたの? 痛むところはある? あ、でも痛いって感覚は全部あるのかな。目と耳は大丈夫だよね、手足は動かせる?」
帯から取り出した布の包みをくるくると開きながら、閻南天は勝手に質問を並べていく。答えかねて無忌を見やると、無忌は大丈夫だと言うふうに頷いた。
「閻南天は信用できる」
「あっは、やめてよ無忌。そりゃ良く思われてないだろうなとは思って来たけどさ」
万松柏はゆっくりと目を瞬くと、ひとまず閻南天と無忌にこの身を預けることにした。どのみち療養が必要なのだ、使える手段は使った方がいい。
「ひどい味の煎じ薬を飲まされた」
万松柏がぽつりと答えると、無忌がふっと目を伏せた。対する閻南天は嬉しそうに万松柏に返答を促す。
「……だが、先ほど少し起き上がることができた。本調子とはいかないが痛みも軽くなっている」
「そう! それは良かった!」
閻南天は満面の笑みを浮かべた。
「なら、もう何日か休めば回復するね。食べ物は私が用意するから……」
「いや。私がする」
閻南天の言葉を遮るように無忌が言った。
「人間が食べられるものは私が詳しい。私がする」
「そう。でも調達はどうするの?」
閻南天は布の包みを上衣にしまいながら、冷たくも聞こえる声で言った。琥珀色の目が俄然見覚えのある色を帯びる。
「彼のことは兄さまには内緒なんでしょう。だったら無忌は表立って動けないし、どうするの」
冷たく、自分より下の者を見下すような眼差し。その途端、万松柏は既視感の正体に思い至った。
「お前、閻南天といったな。兄というのは軍師の閻狼摩か?」
万松柏が尋ねると、閻南天はにっこり笑って「そうだよ」と答えた。
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