第十一話

 バン、と爆音にも似た音を立てて万松柏は弾き飛ばされた。勢いよく後方に吹っ飛ぶ万松柏と共に男も数歩後ずさったが、顔についた砂埃を払いながら嘲笑を浮かべている。


「我が名は閻狼摩えんろうまです。クソ野郎とはいささか無礼が過ぎるのではないですか……」


 軍師——閻狼摩はしかし、言いかけたまま整った目元を驚愕で歪めた。

 一方の万松柏は、激痛を訴える胸を押さえてゲホゲホと咳き込みながらも、してやったりと口元を持ち上げた。


「……っな、これは!」


 事態に気づいた閻狼摩が驚きと怒りの入り混じった声を上げる。彼の視線の先には誰もいない——つい先ほど、黒衣の下僕が自身を庇ったときには、そこに気息延々の仙門の長がいたのに!


「貴様、謀ったな!」


「お褒めの言葉をどうも、閻軍師。謀りが仕事のあんたにそれを言われるとは光栄だ」


 万松柏は笑いながら言ったが、すぐに咳き込んで悪血を吐いた。


 事の真相はこうだ――万松柏は暁晨子の脈を診たときに、袖の中に転送術の呪符を一枚潜ませた。そして黒衣の男とぶつかる瞬間に作動させ、暁晨子を山の下へと強制的に移動させたのだ。山の下にはすでに逃げのびた沈萍たちがいるはずだから、暁晨子を守ることができるとふんだのだ。息をするたびにあばらの内側に激痛が走り、喉には温かく不快なものがねっとりと絡んで今にも出てきそうだったが、それでも敵を出し抜けたことを思うとどうということはない。万松柏は深呼吸をひとつすると、少し震える手で剣を構えなおした。


 閻狼摩の前に立っているのはいつか剣を交えたあの魔偶だ。盾のように立ちはだかって、金色の双眸で対峙する万松柏をじっと見つめている。そこには、初めて会ったときに浮かべていたのと同じ困惑の色が宿っていた。


ほう、お前はこの痴れ者に思い知らせてやれ。私は頭数を合わせて帰還する」


 閻狼摩の顔には明らかな怒りが渦巻いていたが、彼はそんな自分を諌めるようにかぶりを振った。そのまま黒い疾風となって消える主を尻目に、魔偶はすぐさま腰の剣を抜き放ったが、その顔は依然として難しい思案にふけっているかのようだ。

 しかし、魔偶はその顔のまま、息も絶え絶えの万松柏に襲いかかってきた。

 一手が交差するたびに、千斤の岩で殴られるような衝撃が万松柏を襲う。万松柏は己の限界が近いことをすぐに悟った。軍師の狙いが比連だと分かっても、この状況では上手く逃げ延びていてくれと祈ることしかできない。

 魔偶は粛々と万松柏を追い詰めていく——悩むような表情は消えていないものの、それでも圧倒的な力量で受けた命令を遂行する姿に、万松柏は背筋が薄ら寒くなるのを感じた。彼の本当の意思がどうであれ、主人の命令は絶対なのだ——そのために、感情とは関係なく本気で万松柏を追い詰めている。恐ろしい魔術だった。


 魔偶の掌が万松柏の肩を打ったとき、全身を打ち据える衝撃に万松柏はこらえきれず、ついに背中から地面に倒れ込んだ。

 もう起き上がる力も残っていない。そしてこの冷酷無比の殺戮人形が、今にも自分の命を奪おうとしている。もはやここまでと覚悟を決めると、不思議と体から力が抜けた。


(仙府の皆は逃げたんだし、大師兄らしい良い最期だ。比連もきっと……頼む、生きていてくれ、比連)


 守りきれなかった後悔で目頭が熱くなるが、もうどうにもできない。

 皆無事でいてくれと念じながら、ふっと目を閉じたとき。


 急に殺気が消えたかと思うと、全身がぐいと持ち上げられた。驚いて目を開けると、あのときのように金色の双眸が自身を見下ろしている。


「なっ……⁉︎」


 万松柏は反射的に身を捩って逃げようとした。が、腰と膝の裏に回された腕ががっちりと体を抱えていて、ただでさえ力を使い果たした体ではぴくりとも動けない。


「おい! 何するんだ……」


 わっと噛みついた万松柏だったが、魔偶は「シーッ」と言って万松柏を黙らせた。


「お前は死なない」


 低く、心地よく響く声。こいつは何を考えているんだと思う間もなく、魔偶は万松柏を抱いたまま大きく地を蹴った。



***



 繰り返される上昇と下降の波に叫びながら、万松柏は魔偶の服をぎゅっと握りしめた。また敵に横抱きにされていて、しかも命綱まで握られているというのに手も足も出せないのがもどかしい。一方で、相手が落とさないようしっかり抱えてくれていることも分かる——今の万松柏にとっては、この事実だけが全てだった。もし彼を抱く腕が緩みでもしたら、冗談抜きで霊魂が口から飛び出してしまう。


「——ッおい、お前、どこに向かってる?」


 下を見ないように、あえて魔偶の目を睨んで尋ねると、魔偶は前方を見据えたまま「安全な場所だ」とだけ答える。魔偶は森の木々のてっぺんを爪先で蹴って渡りながら、ものすごい速さで移動していた。万松柏はさらに言い募ろうとしたが、抱えられたままふわりふわりと上下する感覚に気力の限界までもが近付いていた。


 怖い。敵の腕の中にいる手前必死で耐えているが、万松柏は泣きたい気持ちでいっぱいだった。いや、自分では耐えているつもりでももうすでに涙が出ているのかもしれないし、最悪漏らしているのかも——そんな考えが頭の中を止めどなく巡り、御剣を初めて教わった日のことを思い出す。



 ある程度軽功を極めた仙師は、剣に乗って飛ぶ訓練を受ける。もちろん万松柏も暁晨子から手ほどきを受けたのだが、初めて師の剣に乗って空を飛んだ感覚はひどいものだった。

 遠ざかる地面、不安定な足場、そして無防備でちっぽけな自分という本能的な恐怖感。動揺した瞬間に平衡が崩れ、そのまま剣から落ちたときの果てしない絶望。暁晨子に受け止められて大事はなかったものの、地面に足が付いた途端に腰が抜けて、座り込んだまま大きな水たまりを作ってしまった。



 あれ以降、万松柏は空を飛ぶのが怖くて仕方がない。魔偶が高く飛び上がり、次の枝に向かって勢いよく下降する間、万松柏はかちこちに固まった指で魔偶の襟をきつく握りしめていた。まだ意識を保っていられるのが自分でも不思議だ。


 ふと、金色の目が腕の中を見た。切れ長の目が細められ、何事かと思う間にも魔偶は枝を足がかりに地面へと降りていく。


「は……え……?」


 万松柏はすっとんきょうな声を上げてわずかに首を巡らせた。男の腕から感じるのは浮遊感ではなく、固い地面に立っているという感覚だ。


「すまない」


 魔偶が言った。見れば細い眉が心配そうに垂れ下がっている。


「高所を怖がるとは思わなかった」


「いや、はは……まあ……屋根くらいまでは平気だから……」


 どっと押し寄せる安堵にかえって全身の力が抜けていく。気取られないよう笑ってごまかそうとした万松柏だったが、ここが気力の限界だった。

 爆発しそうなほど脈打つ心臓の音をうるさいと思った途端に視界が歪み、万松柏は何も分からなくなった。

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