第十話

 万松柏は一瞬目を丸くした。が、すぐに我に返って、急き立てるように比連の手を持って歩きだす。


「軍師だと? それにあいつって、例の魔偶のことか?」 


 比連は万松柏に手を引かれつつ、こくこくと小刻みに肯定を示す。


「あいつ、ぐんしのおきにいり。いっしょにいる」


 万松柏はそうかと答えながら比連の言葉を整理した——どうやら先の魔術師は魔界の軍師で、例の魔偶は彼の配下にあるらしい。出征に同行することも多いのだろう、となればこの白凰仙府にも来ている可能性が高い。


 悪い予感に苛まれつつも、万松柏はとにかく比連を連れて逃げることに集中した。


 だが、道が開けた先に広がっていたのは業火に呑まれる聖地の姿だった。


 そこかしこで閃光が閃き、魔偶の叫び声と剣戟の音が響いている。その間を縫うようにして仙師たちの悲鳴が聞こえ、白い校服姿の体がぐったりと瓦礫に寄りかかっている。数人で集まって防護陣を張っている者、剣を手に走り回る者、剣に乗って上空から術を仕掛ける者、動かない仲間を引きずって避難させる者——彼らは皆、蟻の大群のような漆黒の影に囲まれて、我が身と仲間を守ることに必死になっている。


「全員退避しろ! 奴らを倒そうと思うな! 自分の命を守れ!」


 沈萍が声を荒げ、敷地の端へと仙師たちを誘導している。そして包囲網の中心にいるのはなんと暁晨子その人だった。道袍の袖を翻し、落ち着き払って魔偶を仕留めてはいるものの、思慮深い額がかすかに焦りを浮かべている。

 万松柏はそっと比連の肩に手を置いた。


「比連。鳥になって逃げろ」


「でも、おじさん……」


「いいから!」


 万松柏は言い返そうとした比連をピシャリと遮った。びくりと身を震わせる比連から離れ、背中の剣をスラリと抜き放つ。


「なるべく遠くに逃げるんだぞ。俺のことは気にするな」


 追い出されたとはいえ、ここは万松柏にとって人生で一番大切な場所だ。それに今襲われているのは共に修行を積んできた、やはり大切な仲間たちだ。


「行け」


 万松柏は一言告げると、振り返らずに戦闘の中に身を踊らせた。かすかに聞こえた羽音が比連のものだと信じて、雄叫びとともに最初の一太刀をお見舞いする。突然の援軍に沈萍も他の仙師たちも、暁晨子さえもが驚きの表情を浮かべたが、万松柏が大声で怒鳴ると皆逆らわずに動き始めた。


「皆沈萍について逃げろ!」


 もとより万松柏の剣は正確無非だが、怒りと悲しみが相まって容赦なく魔偶を切り裂いていく。動き回る人影はもはや見えず、青白い軌跡と空を切る音のみが黒い包囲網の中で踊っていた。万松柏は無我夢中で剣を振るい、剣が届く範囲にいる魔偶を片っ端から切り刻んでいった。その勢いは鬼神のごとく、あっという間に四分の一が殲滅されてしまう。そこに暁晨子の方術が加わって、魔偶の影は半分を切ったかのように見えた。


「松柏、我らも退避を」


 暁晨子が静かに告げ、万松柏も勢いよく頷く。ある程度勢力を削ったあとは、先に退避した沈萍たちと合流し、一番近くの仙府まで避難するのが最優先の任務になる。掌門が仙府と運命を共に、などというのは最悪の結末に他ならないからだ。

 暁晨子は何も言わず、冷淡なほどにあっさりと踵を返した。万松柏は少しの間、炎に呑まれて崩れゆく仙府をじっと見つめていた——こういうとき、万松柏は、自身は情に流されるなのだとひどく思い知らされる。人生のほとんどを過ごしたこの場所が、救うに救えなかった同胞たちが、こうして灰燼に帰すところを黙って見ていられないのだ。


「松柏」


 暁晨子の声が万松柏を現実に引き戻す。万松柏は凍てつく喉から返事を絞り出すと、のろのろと体の向きを変えた。



 そのとき、一陣の突風が二人を襲った。

 息が詰まるような禍々しさでできた突風は二人の体を突き抜け、山道を塞ぐように立ちはだかった——そこにいたのは比連が「軍師」と呼んだ、黒装束に黒い羽扇の狡猾そうな男だった。


「貴様……ッ⁉︎」


 暁晨子が柄にもなく声を荒げたが、すぐさま顔を歪めて口元と喉を押さえ、体を折って咳き込んだ。万松柏も押し潰されるような眩暈を覚えて数歩よろめいてしまう。油断していたところに毒を帯びた邪気を吸い込んでしまったのだ。その証拠に、暁晨子が口から手を離すと、赤黒い血がべったり付いている。


「おや、仙長殿。どこかお加減でも優れないのですか?」


 この軍師がニタリと笑うと、えも言われぬ怒りが沸々と湧き上がってくる。それは話しかけられた暁晨子も同じのようで、滅多と激昂しない暁晨子が憤怒の形相を浮かべるのを万松柏は見た。


「貴様、何の真似だ! 仙府で狼藉を働くなどっ……」


 地を揺るがすような剣幕で暁晨子が怒鳴るが、すぐにまた咳き込んで悪血を吐いてしまった。


「師尊!」


 万松柏は急いで暁晨子の経穴を突いて気の巡りを安定させた。真気を駆使していたところに激昂したせいで、内功が乱れたのだ。

 軍師の男は悠々と羽扇を揺らし、二人を鼻で笑った。


「あなたも大したことないですね。仙門でもかなりの重鎮だと聞いていたからどんな御仁かと思ったら、肩透かしも良いところだ」


 言い終わった瞬間、軍師の顔から笑みが消えた。万松柏たちが身構える間にも、生ぬるい夏の風のように男の影が迫り来る。


 そのとき、万松柏は第三の気配を感じてはっと振り返った。こちらを影から見ているようだが、万松柏を狙っているわけではないと直感が告げる。


「松柏!」


 暁晨子の声に我に返ると、軍師の掌が目と鼻の先にまで迫っていた——ところが、とっさに手を突き出した刹那、軍師がひょいと向きを変えて暁晨子を打ち据える。

 真っ白な道袍に朱が飛び、暁晨子が呻き声とともに後方に倒れ込んだ。


「師尊——!」


 万松柏は無我夢中で暁晨子に駆け寄り、力無く垂れた手を取った。手首の内側に指を添えて脈を見るが、これ以上は動けないほどの内傷を負っている。


「……ッ、松柏……早く、山を……」


 息も絶え絶えの暁晨子が万松柏の袖を握り締める。しかし万松柏は軍師を睨みつけると、暁晨子の袖を丁寧に直してから剣を構えた。


「ここだけはお前らの好きにさせない」


 怒りに震える声が獣の唸り声のように低く響く。


「覚悟しろ、クソ野郎!」


 一声叫び、剣の柄を両手で握って軍師を狙う。万松柏の力は怒りによって増幅され、雄叫びが空気をビリビリと痺れさせる。さすがに侮れないと悟ったのか、軍師の嘲笑がわずかに引き攣る。そんな主人を守るように黒衣の男が立ちはだかったのと万松柏が剣を背中に回したのと、黒衣の男が掌を突き出すのとが同時だった。

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